第6話 ここからはじまる④

 私が自分のロッカーを漁っていると、感心したような声が降ってきた。


「テスト勉強? 偉いね」

「ううん」私はノートを数冊取り出してから、折れ曲がっていた腰をぐっと伸ばして顔を上げた。「友達に貸すのよ、これ」


 結城誠くんは一年二組に所属する男の子で、私とは中学の頃から付き合いがある。

 ぱたんとロッカーを閉じた音と結城くんの「友達?」という問いかけが重なる。

 私は周囲の目を気にしながら、やや声のボリュームを落として真相を口にした。


「授業に出られない子がいてね。保健室まで届けに行ってるの」

「ああ、だから最近HRホームルーム終わるとノート抱えて走ってたんだ」

「……見てたの?」

「割と」


 気恥ずかしさはあるが、嫌悪感はない。視界に入れば目で追うくらいはお互い様だ。

 私が荷物を抱えて歩き出すと、結城くんも自然な動作で隣に並び立つ。そのまま帰りのHRホームルーム終了直後で人が溢れる廊下を連れ立って進んだ。


「結城くんはこれから部活?」

「うん。そのつもりだったんだけど。一緒に保健室行ってもいい?」

「え、どこか悪いの」

「あはは、全然。すっげー元気」


 からからと笑う結城くんの顔色は良好で、ぱっと見た限りだとどこかを怪我している様子もない。どうして、と目で問うと、結城くんは


「金森さんの友達でしょ? オレも会いたい」


 と如才なく言ってのけた。うーん、なんだか余計な心配をかけさせてしまったかもしれない。

 さすがに中学からの付き合いがある彼だ、私のことはなんでもお見通しという訳か。

 わらわらと教室から溢れてくる生徒を器用に避けながら、隣にいる彼だけに聞こえるように呟く。


「……少しだけデリケートな子なの。結城くんも友達になってくれたら嬉しいわ」

「うん。金森さんが信頼してる人なら、喜んで」


 結城くんが私を信頼してくれているように、私もまた彼のことを深く信頼している。善良すぎて警戒の余地もない結城くんだからこそできる頼みだった。

 保健室の前まで来ると、ドアに手をかけて私は結城くんに目で合図を送る。彼もうんと首肯して応えた。

 緊張が表情に出ないように抑えながらドアを開ける。


「失礼しまーす」


 保健室には、いつものようにソファーにちょこんと腰かけた宇梶さんがいた。聖子先生の姿は見えない。

 私は平静を装いながらソファーへと歩み寄る。


「おはよ」

「わ、おはよう金森さん。……あ」


 花弁が開くようににっこり穏やかな笑みを浮かべた宇梶さんが、私の背後の結城くんに気づいた瞬間全身を強張らせる。けれど、彼女が可憐な顔立ちを凍りつかせるよりも早く、結城くんが人好きのする目つきで宇梶さんに柔らかく微笑みかけた。


「こんにちは。ごめんね、金森さんに着いてきちゃった」

「……あ……いいえ」


 すでに警戒心は解けているようで、宇梶さんは困ったように、けれども怯えた様子はなく小さく首を振る。

 ……よかった。私も二人に知られないようそっと安堵の息を吐く。


「宇梶さん」


 呼ぶと、宇梶さんの肩がぴくっと跳ねる。

 私はいつも通り傍らに荷物を下ろして、宇梶さんの隣に腰かけた。持ってきたノートを膝の上に乗せて、ぱらぱらとページを捲る。


「今日やったところはね……」


 宇梶さんがリュックから教科書を取り出すのを待ってから、その日習った内容を簡単に説明し始めた。テストに出ると言っていた単語や、重要だからとマーカーを引いた箇所など、簡単な伝達に留めてノートを手渡す。

 宇梶さんは一度受け取りかけてから、何かに気づいたように顔を上げた。


「あ、この授業って明日もあったよね」

「あーうんそういえば」

「じゃあ、今写しちゃう」


 きょろきょろと軽く首を巡らせて、近くにあったデスクに移動した。私のノートの隣に自分のノートを並べて、慌てて書き写す。


「急がなくていいよ。全然時間あるし」


 ソファーに腰かけたままその様子を眺めていると、適当な椅子を引っ張ってきた結城くんが、なんとデスクの傍らに腰かけた。

 宇梶さんの表情が明らかに緊張したものになる。そんな彼女の様子を知ってか知らでか、結城くんは広げられたノートに視線を落として、柔らかく呟いた。


「宇梶さんって字綺麗だね」

「……ぅ、ありがとう……」

「あ、金森さんも綺麗だよ」

「ついでかい」

「ははっ。ついでじゃないよ、マジで綺麗」


 私との砕けたやり取りを見つめているうちに、宇梶さんの結城くんへ送る眼差しが柔らかく溶けていく。熱を帯びた横顔は、初恋に溺れる少女のようだ。

 私は二人に知られないよう、すーはーと浅く呼吸を数度繰り返す。……このまま尻込みしていても仕方ない。躊躇いを含んだ息を呑みこんで、そっとその二文字を舌の上で転がした。


「ひな」


 宇梶さんがぱっと振り向く。

 大きく見開かれた瞳は戸惑うように揺らいでいた。喉元にせり上がるむず痒さを抑えて、誤魔化すように首を捻って宇梶さんの顔を覗いた。


「……って、呼んでもいい?」


 彼女が「宇梶さん」と呼ばれるたびに、怯えたように肩を跳ねさせているのに、私はずっと気づいていた。


 彼女の名を表すたった五音が、今までにどれほど彼女を追い詰めてきたのだろう。疑心、失望、軽蔑、憐憫……大勢の人に恣意的な感情で染め上げられ、彼女を雁字搦めに捕らえて鋭い棘で傷つけてきたのだ。

 それだけが理由ではないけど、彼女を名前で呼びたいと思った。『ひな』という、愛らしい二文字を口ずさみたくなった。


「じゃあ、オレもひなちゃんって呼んじゃおうかな。ダメ?」


 おどけたように言った結城くんが、こてんと首を傾げて宇梶さんの表情を上目遣いに見つめた。

 陶器みたいに白く滑らかな肌が、みるみるうちに朱色に染まっていく。瞳を潤ませて、ぷるぷると震えるみたいに小刻みに首を振った。


「だっ、ダメじゃない」


 か細く呟いて、赤い髪に真っ赤な顔を埋めて隠してしまう。小動物みたいに縮こまる彼女が愛おしくて、私と結城くんは顔を見合わせて笑った。

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