第6話 ここからはじまる③
結局、テストの日程に従って交代で相模に教えることになった。
相模は飲み込みが早いタイプのようで「はえー」とか「ほー」とか適当な相槌を打ちながら結城くんの教えをぐんぐん吸収していく。
「少し休憩にしようか」
結城くんが告げると、相模は椅子の背もたれに体重を預けるようにして大きく体を伸ばした。欠伸みたいに間延びした声を漏らして、大袈裟に疲弊した様子を見せつけてくる。
「疲れたあ。今日はもうおしまいでよくない?」
「来年は受験生なんだからもっときついぞー」
「あーやめてよ現実突きつけてくるの!」
結城くんの無情な宣告を遮るように相模が耳を塞いだ。
高校二年生の夏ともなれば、具体的な進路を定める時期だ。
夏休みを目前にして、進路希望調査票の提出期限が来週に迫っていた。
「俺まだ出してないんだけど。アレって具体的な学校名まで書かなきゃいけないんだっけ?」
「書ける人はじゃなかった? 決まってないなら進学だけでいいはず」
「じゃあ俺はとりあえず進学かなー」
男子二人の会話に、私は一人顔ごと視線を校舎の外へ逸らす。目的もなく硝子越しにグラウンドを眺めていると、「金森さんは?」とふいに水を向けられた。
皺ひとつないままクリアファイルに収まっている進路希望調査票を思い出して、私は躊躇いがちに口を開いた。
「私、は……地元で就職かな」
言い淀んだのは、望みを捨てきれないから。
叶わない夢を見たって心が疲弊するだけだから、「合理的だから」と自分に言い聞かせて一つの道以外考えないようにしていた。
短く息を吐いて立ち上がる。
「自販機行ってくるね」
逃げるように席を離れる。やや遅れて椅子を引く音が響いて、直後、腕に重みと温もりが広がった。
「ひなも行く。二人でデートしよ」
するりと腕を組んで、ひなが体を密着させてくる。ひなの足取りに促されるようにして私たちは廊下へ出た。
階段を降りて、一階へ。渡り廊下のちょうど中間地点にぽつんと自動販売機が設置されている。
「しまった。男子たちに何飲むか訊けばよかった」
「LINEで訊く?」
言うが早いが、ひながメッセージを送信してくれたようだ。ほとんど待つこともなく返信が届く。
「『お任せで』だって」
「……責任重大ね」
重々しく呟くと、ひながくすっとおかしそうに笑った。
「深琴ちゃん、はじめて話したときも同じ顔してた」
「そうだっけ?」
「急に飴食べる? って訊いてきて、ひながなんでもいいって言ったらすっごい渋い顔しながら選び出したの。なんて真剣なんだろうって、ひなびっくりしたんだから」
「そんなことあったかなあ……」
そういえば、はじめてひなと会ったときに飴をあげたような気がする。あの時期は乾燥のせいか喉の調子が悪くて、常にブレザーのポケットへ飴を忍ばせていたのだ。
「イチゴ味」そっと慈しむような口調でひなが呟いた。「ひなの髪の色って、深琴ちゃんが選んでくれたの」
「……じゃあ、相模はミルクティーかな」
「待って、午後ティーと紅茶花伝があるよ」
「よし。同時に押してどっちが出るかやろう。ひな午後ティー押して」
「なにそれ」
笑いながら、白い指をそっとボタンに添える。
「いくよ? せーの」
ぴ! がこん。
二人で恐る恐る取り出し口を覗いて、同時に破顔した。
「「紅茶花伝だ!」」
なんでもないことなのに、なぜか笑いが込み上げる。
「愛の力だね」とからかうように言ったひなの肩を、私は軽く叩いた。
それから結城くんと私用に缶コーヒーを二種類買って、ひなはパックのいちごミルクを買った。
無事に四人分の飲み物を調達して、私は廊下を元来た方へ歩き出す。数歩進んで、ひなが着いてきていないことに気づいた。
「ひな?」
ひなはいちごミルクを両手で握りしめたまま、自動販売機の前に立ち尽くしてじっと私を見つめていた。その顔つきはどうしてか緊張しているように見える。
ふいに、髪の束を掬って耳にかけ、ぽしょりとくすぐったそうな声を漏らす。
「……なんか、照れるね」
「あは、なんでよ」
恥ずかしそうに、あるいは誤魔化すようにひなが苦笑する。私も笑みを返した。それが正しいのか判然としないまま、ただ彼女の行為をなぞるように。
ひなは一度深呼吸をすると、いたく真剣な眼差しで私をまっすぐに射抜いた。
「深琴ちゃん。ひなね、保健室の先生になりたいの」
私は呆然と口を開いたまま固まった。
それはひなの夢。目標。
一年生の頃、ひなは成績上位にいた。けれど、あの事件をきっかけに頑張ることに疲れてしまい、いつしかすべてを諦めて卑屈に閉じこもるようになった。そんな彼女が、今、決死の覚悟で私に夢を打ち明けたのだ。
どうしよう、言葉が出ない。
「……ぁえ、ん……えっと……」
無理やりに口を開いても、漏れ出るのは意味を成さない音だけ。私は一度深呼吸をしてから、頭の中で必死に並べた言葉を舌に乗せた。
「が、頑張って」
けれど、声に出せたのはたったのそれだけだった。
だって、今、嬉しいってことしか考えられないの。
壊れたみたいにうるさい心臓の鼓動が、「頑張れ、頑張れ」って何度も叫んでいる。
「うん」ひなが満ち足りたように微笑む。そうしてたたっと軽くステップを踏んで、私に駆け寄り首に手を回すと強く抱き寄せた。爪先で体重を受け止め、まるで口づけをするようにその唇を私の耳元に寄せる。
「燃えカスみたいだったひなを、ただ一人信じてくれた。もう一度立ち上がるために背中を押してくれた。安らげる居場所をくれた。彼と繋いでくれた。生きる希望を見せてくれた」 矢継ぎ早に浴びせられる言葉が、私の全身に突き刺さっていく。「ぜんぶぜんぶ、あなたのおかげ」
うっとりと歌うような声音が耳元でダイレクトに鼓膜を揺らし、脳みそがびりびり震えた。密着した部分から、心臓の激しい鼓動が伝わってしまっているのではないかと錯覚する。
放課後の心地よい静寂に包まれてひなが私の胸に落とした言葉は、どこか睦言めいていた。
「きっとこれからどんな道を歩んでも忘れないで。あなたがひなに火を灯したの」
互いの吐息が触れるほど近くで、正面から見つめたひなの微笑は、呼吸を忘れて見惚れるほど美しかった。
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