第6話 ここからはじまる②
保健室の扉を開けると、ソファーにちょこんとお人形さんが腰かけていた。
そのお人形さんは大袈裟に驚くと、怯えたような眼差しで私を見る。
ふわふわと柔らかそうな赤い髪と、長い睫毛に縁どられたチョコレート色の大きな瞳。
同じ一年一組に所属する宇梶ひなさんだ。
「おう、金森。どした?」
宇梶さんと何やら談笑していた聖子先生が、いつものように軽い調子で問いかけてくる。さりげなく私から宇梶さんを隠すように立ち位置を変えたあたり、流石に手馴れているなと感心してしまった。
「二時間目の体育で足捻っちゃって。そのときは平気だったんですけど今更痛くなってきて……」
「あーはいはい。えっと……ごめん宇梶、隣いい?」
湿布を片手に首を巡らせた先生が、やや遠慮がちに宇梶さんへ尋ねた。宇梶さんはやはり怯えたように視線を彷徨わせたが、やがて断り切れずに首を縦に振った。
「ごめんね」
一声かけて隣に腰かけると、宇梶さんは掻き消えそうにか細い声で「いえ」と呟く。
手を伸ばさずとも触れられる距離にいても、宇梶さんは私の方を見ようともしない。周囲の視線から逃れるように、長い髪を垂らして俯いたまま顔を隠してしまう。
「いつ頃痛みだしたの?」
「んー……三時間目の途中ですかね」
私も宇梶さんも互いに交わろうとしないまま時間が過ぎていく。
そのとき、保健室のドアが無遠慮に開け放たれた。
「聖子ちゃんお腹痛ぁい」
間延びした声で言いながら、女子生徒が二人入室してくる。彼女たちは一歩踏み出して、はっと何かに気づいたように顔を見合わせた。
警戒するように入口を見ていた宇梶さんが深く項垂れ、ぐっと身を縮める。細い肩が幽かに震えていた。
女子生徒たちの視線は宇梶さんに注がれている。互いの耳元に唇を寄せ合って、こそこそと密やかに言葉を交わす。しかし狭い室内では、そんな気遣いはほとんど無意味だった。
「ね、あの子でしょ」
「そう。宇梶さん」
「え、てかなんでいんの?」
「さあ。保健室登校ってやつじゃない」
「ヤバ~。だってあの子」
私はわざとらしく舌を一つ鳴らし、ソファーに深く座り直した。背もたれに体重を預け、宇梶さんの肩に回すようにして腕を投げ出し、ついでに足も組んでみせる。
宇梶さんはびくっと跳ね、湿布を張ろうとしゃがんでいた聖子先生は「おい」と抗議の声を上げる。
尊大な態度のまま、入口で立ち竦む女子二人をきつく睨みつける。
「寒いんだけど。ドア閉めてくれる?」
強張った表情で顔を見合わせた二人だったが、やがて逃げるように退室する。室内はしんと張りつめたような静寂に支配された。
固く閉ざされた扉を見つめて、私は肺に詰まっていた息を吐き出した。
「……後でシメられたりするのかしら。めんどくせえなあ」
ついでにぽろっと本音が零れてしまう。聖子先生が吹き出したおかげで、保健室には再び弛緩した空気が戻った。
未だ体を小さく縮めた宇梶さんが当惑したように私を見遣る。
「ぁ……あの」
「あなんかごめんね。飴食べる?」
「え?」
「金森私も」
ブレザーのポケットに突っ込んでおいたのど飴を聖子先生に手渡す。
「宇梶さん何味がいい?」
手のひらに数種類乗せて尋ねると、宇梶さんは戸惑ったように「えと、な、なんでもいい」と細い声で呟いた。
これはセンスが問われているな。無駄に意気込んで、私はイチゴ味を宇梶さんの手のひらに乗せた。
「宇梶さんの髪と同じ色。綺麗でしょ」
宇梶さんが呆けたように瞳を瞬かせる。そこにはもう怯えの色はなかった。
私はぶどう味ののど飴を口に放り込んで舌の上で転がしながら天井を見上げた。足首にひんやりとした感覚が広がる。先生が湿布を貼ってくれたのだ。
「ごめんね、巻き込んじゃって」
私が言うと、宇梶さんは慌てて胸の前で手をぶんぶん振ってみせる。
「う、ううん! 全然」それからぐっと声を詰まらせて、痛みに耐えるように目を伏せた。「ひなのせいだから……」
「いやいや。勝手に喧嘩売ったの私だし」
「違うの。もともと、ひなが……」
「それ、マジなの?」
例の事件が起きた直後、宇梶さんは身の潔白を示すようにそれ以前と変わらない様子で席に座っていた。
やがて腫れ物に触るような扱いが、憐れむような距離感が、蔑むような眼差しが、彼女とそれ以外との間に深い深い溝を生み出していく。
そのうちぽつりぽつりと欠席が目立つようになり、人々の噂の中に溶け込むように、宇梶さんは姿を消した。
無遠慮とも言える私の問いかけに宇梶さんははっと息を呑んで、それから何度も首を横に振った。赤い髪が乱れる様は燃え上がる焔のよう。膝の上でスカートをきつく握りこんだ拳は白くなっている。
「ん。じゃあ私宇梶さんのこと信じる」
「え」
「宇梶さんがやってないって言うんなら、そうなんでしょ」
チョコレートが溶け出すように瞳に涙が滲んだ。
私はそっと顔を逸らして、誤魔化すように時計を見上げる。
「宇梶さんさ、今日の授業まだ出てなかったでしょ。ノート見る?」
「……いいの」
「いいよいいよ。ついでに最近の全部見せたげる。写すの大変だから持って帰ってコピーしなよ」掠れた声に気づかないふりをして、へらりと薄い笑みを浮かべる。「今日いつまでいる予定?」
「い、一応四時過ぎまでは」
「わかった。じゃあ
よっと弾みをつけてソファーから立ち上がった。片足を庇いながらひょこひょことドアの前まで移動する。廊下へ出る直前、振り返って見た宇梶さんは、休日の子供みたいに涙できらきら瞳を輝かせながら私を見つめていた。
「約束ね!」
この日、金森深琴は宇梶ひなの『唯一』になった。
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