第6話 ここからはじまる①

「やっぱご本人登場は後ろからだよね」


 相模は先日の結城くんがかなりお気に召した様子だ。


「そういえばあの後どうなったの?」


 顔を赤くして俯いたひなの隣で、問われた結城くんは気を悪くした様子もなく首を捻る。


「別に何もなかったけど? ああでも、ずっと待たせてるのも悪いし、車まで送ってってそのままお父さんに付き合うことになりましたって報告はしたよ」

「メンタル強すぎるわね……」


 相模はうっとりと熱の籠った眼差しを結城くんに注ぐ。


「やだ。かっこいい。好き」

「ごめん、好きな人がいるから」

「思わせぶりな態度取るな色男!」


 失恋が早すぎる。「慰めて金森さん」としなだれてくる相模の肩を適当にぽんぽんと叩いた。乗り換えが早すぎる。

 

 私は黒板の上に掛けられた時計を一瞥して一つため息を吐いた。


「いい加減遊んでないで勉強しなさいよ、相模」


 そう、なんといったって私たちは今、勉強会の最中なのである。

 以前から結城くんと計画していた放課後の勉強会。遂に一学期期末テストまで一週間を迎えた今日、私たちは昼食時と同じように四つの席をくっつけて各々勉強道具を広げていた。……相模以外。


「みんなが偉すぎるんだよ。どうせまだ時間あるんだし、俺くらい適当でいいの」

「一週間しかないのにんな余裕こいていられないわよ」

「え? 二週間でしょ?」


 こてんと首を傾げた相模を、三人が一斉に奇怪な目で見つめる。唯一相模だけが状況を飲み込めない様子でつぶらな瞳を瞬かせた。


「え、何その目」

「相模。テストは来週よ」

「……嘘」

「マジ。ていうか二週間後だともう夏休み入るんじゃない?」


 みるみるうちに相模の顔に焦りが浮かび上がっていく。

 まさかテスト期間を一週間勘違いしていたなんて。私にとってはありえない事態だけど、相模のように自頭のいい人間からしたらいちいち意識して対策することすら馬鹿らしく感じてしまうのかもしれない。

 

 そう思っていたのに。


「ま、あんたなら心配ないでしょ」

「なにが? 俺いつも赤点ギリギリだけど」


 呑気に言い放った私に涙目の相模が告げた言葉は場にそれなりの衝撃をもたらした。


「成績優秀であれよ、イケメンなら」

「金森さんのそのイケメンに対する偏見なに? イケメンがみんな成績優秀なら高学歴アイドルなんて言葉は存在しないんだよ」


 さもありなんと口を噤む。


「え、えーと。相模くんは今回どんな感じなの? 進み具合とか……」


 見かねたひなが救いの手を差し伸べようと尋ねると、相模はなぜか不敵な笑みを浮かべて言い切った。


「端的に言って助けてください」

「端的すぎる……」


 そして切実すぎる。

 三人から苦み走った顔を向けられた相模は、いっそ何かが吹っ切れたようだ。「そういうみんなはどうなのさ」といじけたように唇を尖らせる。

 私たちは確認するように互いの顔を見合わせた。


「オレはいつも平均点くらい」

「私も。そこそこ」

「ひなは……えへ。赤点は回避してるよ」


 平均点といいつつ、結城くんがいつもそれなりの順位に食い込んでいることを私は知っている。

 微妙に濁すようなひなの言葉に相模の目がきらりと光った。


「なか」

「仲間じゃないわよ」


 弾むような相模の声を私は容赦なく遮った。


「ひなは『できない』んじゃなくて『やらない』の」


 淡々と告げれば、相模は訝しげに目を眇め、ひなはそっと長い睫毛を伏せる。結城くんはまるで何も聞こえなかったかのように穏やかな笑みを浮かべた。

 三者三様の反応が、ますます相模の中で疑念を増幅させていく。


「どういうこと?」

「ひなが説明するね」


 その声はけして大きくなかったのに、不思議とクリアに鼓膜を揺らした。

 球技大会の日、私と相模の諍いのきっかけとなった言葉がある。あのときから私は相模に対して幽かな違和感を抱いていて、それはひなも感じ取っていたようだ。


 もし私たちの想像通りであるなら、いつかきちんと相模に話したいとひなは言っていた。彼女なりのけじめなのだと思う。


「一年生のときさ、テストでカンニングした人がいたって聞いたことない?」


 ひなの息遣いは幽かに震えていた。

 問われた相模はそっと唇に手をあてて考え込むと、すぐに心当たりへ至ったのだろう。「ああ」と手を打った。

 ひなはその様子を緊張の隠しきれない瞳で見つめて、ごくりと唾を飲み下した。


「あれ、ひななの」


 ひなの告白に、場に一瞬沈黙が落ちる。


 いっそ潔いほど短く告げられた言葉は、その簡潔さ故に少々の齟齬を含んでいる。

 私は必要であれば口を挟むつもりだった。言わずもがな、結城くんだって。静観しているように見えて、その横顔は場の空気を敏感に感じ取ろうと深く神経を研ぎ澄ませているそれだった。


 しかし相模が「んん?」と間抜けに首を捻ってくれたおかげで、漂いかけた陰鬱な雰囲気は雲散霧消する。


「え、宇梶さんがその……したってこと?」

「ううん。してないの。だけど、そういうことになってるの」


 相模はひなの言葉にすうっと目を細めた。「ああ、なるほどね」と呟いた声は冷たい響きを伴っている。

 私はその眼差しに、乾いた声音に、二人で必死に駆け抜けたあの事件を思い出していた。


「学年中で騒ぎになっちゃったから、相模くんも知ってるんじゃないかなって思ってたんだけど」

「や、そういうことがあったって噂は聞いてたよ? でも宇梶さんだったのは知らなかったな」


 どうせ知ろうともしなかったのだろう。

 いつもは呆れるばかりだけど、今回に関してはかえって都合がよかった。

 ひなが思い出したように安堵交じりの笑みを零す。


「もし知らないならちゃんと話さないとって思ってたの」

「なんで? 別に言わなくてもよかったのに」

「だって……ひなと一緒にいると相模くんも」

「え、でもやってないんでしょ?」


 結城くんがふ、と力の抜けた笑みを零した。

 きっと私も同じ顔をしている。


「宇梶さんがやってないって言うならそうなんでしょ。じゃあ別に言わなくてもよくない?」


 あっけらかんと言い放った口調は砕けたものなのに、その声も眼差しもいたく真剣だ。

 ……五月のあの日、相模と言葉を交わしてから、相模ならひなのことを理解できるんじゃないかという淡い予感があった。


 今、私は泣きそうに嬉しい。

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