第5話 そこにあなたがいるということ⑤
上からな物言いに、私は唇をきゅっと引き結んで反抗の意を示した。
相模の眉が不快そうにぴくりと跳ねる。
「なにその唇。キスしてほしいの?」
「んなわけあるかっ」
相模の体を突き飛ばして、反動でそのまま椅子に座り直す。尊大に腕を組んでふんぞり返る私を、相模は子供を諭すみたいな目つきで見下ろした。
「金森さんがそんなだから宇梶さんも結城くんに気持ち伝えられないんじゃん」
「私は関係ないでしょ」
「あるよ、言ったでしょ、頼りすぎだって。金森さんは宇梶さんの指針なんだから、まずは金森さんが示してあげないと」
「大袈裟ねえ」
はっと小馬鹿にしたように吐き出すと、相模は苛立ったように肩頬を吊り上げた。
琥珀の瞳に嗜虐的な色が滲む。
「あっそ。ならわかった。どうせ三人にその気がないなら、俺が状況を変えてあげる」
「何すんのよ」
「宇梶さんに結城くんが好きって言ってたって教える」
「うわ待て待て相模ステイ!」
スマホを取り出した相模の手を慌てて握って引き留める。
こいつ、油断も隙も無いな。
「わかったから、ちゃんと気を付けるから! だからそれはやめて、ていうかダメ、絶対に」
相模の手を強く握りしめながら、その瞳を至近距離で見つめる。
「ひなも結城くんも、お互いに想い合ってるのは事実よ。だけどその気持ちが、もし、私たちが思うよりもずっと、ずっと大きなものだったら……その気持ちを推し量ることはできても、決めつけることはできないわ。それは相模が一番わかってることじゃないの?」
私の言葉に相模はぱちぱちと目を瞬かせた。やがて握りしめていた手から力が失われる。優しく私の手を振りほどくと、脱力したように椅子へ腰を下ろした。
「そうだね」と掠れた声で呟く。それを合図に、私も着席した。
相模の瞳は無人の廊下へと向けられていた。窓越しに反対側の校舎に斜陽が反射するのが見える。焼けるような赤さに、眩しそうに目を細めた。
「心は、その人だけのものだね。他人が土足で踏み込んでいいものじゃないよ」
温度のない淡々とした声音に、私は相模が既に心を閉じてしまっているのだと悟った。
どこか寂しげに揺らぐ瞳の奥に隠されたその心も、やはり相模だけのもので、私などが触れていいものではない。
まだ両親が法律上の夫婦であったころ、日に日に擦り切れていく母の閉じてしまった心を、私も、父も、再び開かせることはできなかった。
今も相模の心は相模の中に閉じ込められたまま。
また私は繰り返すのか。
昇降口が施錠される前にと二人で教室を出て、一階に降りてすぐのことだった。
階段横の教室から、誰かのすすり泣く声が聞こえる。恐る恐る中を覗いて私も相模も同時に目を瞠る。
既に下校したはずのひなが、机の陰に座り込んで涙を流していた。
「ひなっ」
一体いつからここにいたのだろう。まさかいつものようにパニックになった?
一瞬にして爪先から全身を駆け巡った焦燥に弾かれるようにして、すぐに駆け寄ってその傍らにしゃがみこんだ。
「どうしたのひな。動けなくなった?」
問うと、ひなはふるふると首を横に振る。やがて嗚咽を飲み込むと、涙を堪えながら口を開いた。
「結城くんが……」
「……結城くん?」
「女の子に告白されてた」
はっ? と間抜けな声を漏らしたのは相模だ。私はなんとか寸での所で飲み込んで、ひなの言葉の続きを待つ。
その沈黙をひなはどう受け取ったのだろう。手の甲で目元を乱暴に拭って、唇をおかしな形に歪める。無理やりに笑みを作ろうとしているのだとわかった。
「やっぱりひなじゃダメだった」
「いやでもさ、」
「なんかいい雰囲気だったし」
眦には涙がじわりと滲む。気丈に振舞おうとして失敗した悲痛な横顔が見ていられなくて私は立ち上がった。
結城くんがひな以外を選ぶなんてありえない。
彼がどれだけひなを想っているかを、ずっと見てきたのは私だけだ。今、私が行かないと。
入口で大きく腕を広げた相模が目の前に立ちはだかる。
「金森さんメッ」
「止めるな相模」
「まさか現場に乗り込むつもり!? 空気読めなさすぎだから。あとさっき教室で約束したばっかなのに忘れるの早すぎ!」
「別にこれくらいいいじゃない」
「そう言って首突っ込んで、結局最後は苦しくなるんだよ。どうせ言っても聞かないなら、俺だって力ずくで止めるからね」
体格差のせいで体重をかけて押してもびくともしない。遂には肩を掴まれて動きを封じられてしまった。
私は相模の喉元に食らいつくように身を乗り出して吠えた。
「本人をこの場に連れてくれば済む話じゃない。そりゃ自分のタイミングがあるし、無理やり核心的なことを言わせることはできないけど……でも誤解を解くくらいはできるわよ」
「中途半端なことしたって無駄だよ。それじゃ今までと何も変わらない。ちゃんと特別だってわかるように、はっきり言わせないと」
「それオレのこと?」
はっと息を呑んで相模が振り返る。肩を握る力が弱まった隙に、私も体をずらして相模の視線を追った。
相模の背後で、結城くんが気まずそうな苦笑いを浮かべている。
私も相模も、空気を求めて喘ぐ金魚みたいに口をぱくぱく開閉させるだけで、声を発することができない。ただ、教室内からひなが怯えたように息を呑む音が聞こえた。
「ちょっとごめん、」と結城くんがドアの隙間に体を滑り込ませる。私たちはぎゅっと体を密着させて彼に道を空けた。
ひなの傍らにしゃがみこんだ結城くんはこほんと一つ咳払いをすると、困ったように曖昧に笑んだ。
「特別だと思ってるよ。……ていうか、オレが言う前に二人がほとんど言っちゃってるんだけど」
「うそ」ひなが遮るように呟くと、結城くんは柔らかく、けれど強い意志をもって断言する。「嘘じゃないよ。けっこー特別扱いしてきたつもり。わかりやすいかなって思ってたけど……」
「……全然わかんないよ」
拗ねたように目を伏せるひなに、結城くんは「えー?」と苦笑する。そうして躊躇うように一度顔を伏せた。膝の上で拳を握りしめ、すうっと短く息を吸い込む。
ひなを見つめるその瞳は、照れくさそうに揺らいでいた。
「えっと、好きだからひなちゃんって呼んでるんだけど」
瞬間、ひなの眦から大粒の涙が零れる。
胸が張り裂けるように切ない声で、ひなは声の限り叫んだ。
「ひなの方が好きだもんっ」
私は相模のシャツをぎゅっと握りしめて、そのまま胸に倒れ込むように廊下へ押し出す。バランスを崩してたたらを踏む相模の手を掴み上げ、無理やりに引きずって教室を離れた。
「ちょ、ちょちょっと待って!」
昇降口まで来た所で、私は無言のままようやく相模を解放した。
相模は肩から落ちかけていた鞄を直そうともせず、興奮を抑えきれない様子で口元を覆って呟く。
「どうしよう急展開すぎて着いていけないんだけど。今何が起きた? ねえかな、」
私の顔を覗き込んだ相模が不自然に言葉を途切れさせる。
戸惑うような、気遣うような息遣いだけが伝わってきて、私は深く息を吸い込んでぐっと上を向いた。けれど目の奥をつんと刺激する熱は消えてくれなくて。
無理やりに唾を飲み下してから、観念したように胸いっぱいに吸い込んだ息を感情と一緒に吐き出せば、涙の代わりに言葉が溢れた。
「寂しいな」
思わないようにしていたのに。
彼女の幸せを欠片ほどの曇りもなく祝福できるような、綺麗なままの私がよかった。
頭の片隅にでも浮かぶことがどれだけ罪深いことか、うんざりするくらい理解していた。だからずっと殺し続けてきたのに、全部台無しだ。
結城くんと結ばれたら、きっと私は以前のようにひなの隣にはいられない。二人で撮っていたプリクラだって、私じゃなくて結城くんがそこに収まるはずだ。二人で過ごす時間は減ってしまうだろう。
寂しさを抑えられない弱い自分がほとほと嫌になる。
「俺がいるじゃん」
笑みの混じった声が慈雨のように降り注いで、私の体の隅々まで染み渡る。
何を馬鹿なことを、と一蹴できなくなっている自分に、私はこのとき初めて気づいた。
慈しむような温もりに満ちた琥珀色の瞳を細めて、相模は綺麗に笑っていた。
ただの友達と呼ぶには歪な関係。
私は相模の隣で、どうやって彼と関わりながら生きていけばいいのだろう。
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