第5話 そこにあなたがいるということ③

 翌日の放課後、教室には私とひなの二人だけが残っていた。

 結城くんも相模も用があるとかで、校内のどこかには残っているはずだ。

 私はひなに勉強会のことを伝えた。


「わ、いいねえ、やろうやろう」


 予想通り、ひなは提案を笑顔で受け入れた。


「ふふ。でも結城くんといると緊張して集中できなくなっちゃいそう」

「……結城くんだってそうかもよ」

「ないよ、絶対ない。ひななんか」


 寂し気な笑みを浮かべて、ひなは小さく首を振る。

 ひなの自己肯定感の低さには、きちんとした根拠がある。けれど私はそんな『根拠』など一ミリも信じていないし、何より一年ひなの隣で過ごしてきて、彼女が素敵な女の子であることを深く知っている。


 だからこそ、彼女の吐く言葉がもどかしい。

 

 もう何度心の中で結城くんに縋ったかもわからない。あなたがたった一言打ち明けるだけで、ひなも救われるのにと。


 だって、それは、私にはできないことだから。


 私の沈鬱な面持ちに何を思ったのか、ひなは胸の前で拳を軽く握りしめると殊更明るい声音で言った。


「いいの。今のひなはね、深琴ちゃんと相模くんを応援するって決めたから」

「え」

「ひなの夢はね、深琴ちゃん。ひなの結婚式で泣いてる深琴ちゃんに『次は深琴ちゃんの番だよ』って微笑むことなんだよ」

「うん……なんか生々しくてやだ……」


 ええ、私はいいよお、なんて笑い返すところまで想像できてしまったからもう手に負えない。

 ふと、ひなが寂しげに顔を伏せる。


「……ずっと、そう思ってたんだけど。なんだかひなの予想よりもずっと早くに、深琴ちゃんの番が来ちゃいそうで」


 視線を彷徨わせ、迷うように唇を戦慄かせた。白い喉元がこくりと上下する。

 顔を上げたひなは、涙を堪えるような顔をしていた。


「なんか、寂しいね」


 その笑みの美しさに、私は息を呑んだ。

 

「……大丈夫よ。相模とは、そういうの、ないから」

「今はそう思っててもわかんないよ。深琴ちゃんチョロいから」

「本当にないから」

「どうして言い切れるの?」


 こてんと首を傾げて顔を覗き込んでくる。

 見透かすような視線からそっと目を背けて、私はぽつりと呟いた。


「……私は、誰かに寄りかからないと生きていけないような、弱い私にはなりたくない」


 そんな私は許せない。

 もうずっと昔、私が小学生の頃。初めて自転車の補助輪を外した日のことを朧気に思い出す。




 ベビーカーを押す母の後方、少し離れた所を運転している最中、派手に転んでしまったことがあった。

 母は泣きじゃくる湊をあやすのに精いっぱいで、自転車に足を挟まれる私に気づかない。

 強い痛みに涙が滲んだ。顔を上げれば、湊の大きな泣き声と、母の焦った後ろ姿。


 一人で立てなきゃダメだ。


 遅れて私の様子に気づいた母が顔を青くする。駆け寄ろうとする母を制するように、私は涙を堪えて声を張り上げた。


「へーき!」


 私は誰の手も借りず、一人で立ち上がれる人間にならなければいけない。




「……別に、誰かを好きになるってことは、寄りかかるってことじゃないと思うけどな」


 ひなが呟く。

 顔を上げると、ひなは窓の外の風景に目を向けていた。私も釣られて視線を投げたが、校舎のすぐ脇に立つ大木が新緑に彩られた枝葉を揺らしているだけだった。


「相手も寄りかかってきてくれたら、それは支え合ってるってことじゃないの?」


 冗談めかしてちょいと首を傾げてみせるが、その眼差しはいたく真剣だ。


「たまには寄りかかってよ。ひなの肩も、結構広いんだぞ」


 むんっと胸を張ってみせたかと思えば、照れくさそうにはにかむ。


「ひながこう思えたのはね、深琴ちゃんのおかげなんだよ」

「……え?」

「ひなが学校に来るのはね、深琴ちゃんと結城くんに会いたいからだよ。……あと、最近は相模くんも。だからね、できれば寄りかかってほしいし、幸せになってほしいんだよ」


 滔々と語る彼女は見たこともないくらい真剣な眼差しをしていた。膝の上できゅっと拳を握りしめて、私のことをまっすぐに見つめてくる。

 けして逸らすことのない眼差しには、不思議な温もりがあった。

 ……なんだ。じゃあ私たち、同じじゃないか。


「私もだよ」迷いのない口調で伝える。「私もひなと結城くんに、幸せになってほしいと思ってるよ」


 私が告げた途端、チョコレート色の瞳が曇り硝子のようにすうっと温度を失った。

 ……ひながこの目をしたときは、決まって同じ文句を言う。


「……ひななんか」

「ひなはさ、結城くんのどんな所が好き?」


 けれど、逃がしてたまるものか。

 ひなが私に心を砕いてくれた分、私もひなの心に報いたい。

 萎んでいた蕾が花開くように、ひなの瞳が色を取り戻す。


 ひなは「えっ」と短く当惑の声を漏らして、みるみるうちに頬を朱色に染め上げていく。ぎゅっと身を縮めて顔を伏せると、蚊の鳴くような声で呟いた。


「え、えっと。や、優しい所」


 ありきたりなフレーズの中にどれだけの想いが込められているのか、私は知っている。結城くんの優しさを、一途な想いを、ずっと隣で見てきたから。


「うん。他には?」

「他……目を見て話してくれる所」

「もっと」

「もっとっ? ええ……あ、あのね、これは深琴ちゃんもなんだけど、ひなのこと名前で呼んでくれる所」


 思いもしなかった回答に首を傾げると、ひながくすっと笑う。

 そうして一つ息を吸い込むと、目を伏せて途切れ途切れに言葉を紡ぎ出す。その声は寂しげに揺らいでいた。


「……ひなのこと名前で呼んでくれる人ってあんまりいなかったから。中学のときも、一年のときも……」


 その続きを口にさせてはいけないと直感して、制止しようと手を伸ばした。その手が触れる直前にひなはぱっと顔を上げる。

 その眼差しにもう寂しさはなかった。

 桜色の唇は緩やかな弧を描き、ほのかに蒸気した頬と確かな温度を湛えた瞳が、私に精一杯の幸せを伝えてくる。


「だからね、二人が『ひな』って呼んでくれるの、すごく嬉しいの」


 ひなのスマホが震える。

 ひなは机に置いてあったスマホに一瞬だけ視線を投げ、再び私を正面から見つめた。

 まるで愛の告白をするような眼差しで。


「二人のことが大好き」


 くしゃっと恥ずかしそうに笑うと、手早く荷物をまとめる。誤魔化すように「じゃあまた明日ねっバイバイ!」と言い残して走り去ってしまう。

 教室には間抜け面で呆然とひながいた席を見つめる私だけが残された。


 スリッパの軽い足音が廊下の奥に吸い込まれて、私はようやく思い出したように一つ大きく息を吐き出す。


 ……まさか、そんなに想われていたなんて。


 ひなの言葉は、真正面から受け取るには熱すぎて……。


「ずいぶん熱烈な愛の告白でしたねえ」


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