第4話 それは残酷な⑤

 休憩時間になっても、相模は顔も合わせようとしない。その居心地の悪さは、球技大会の日に感じたものと似ている。

 あのときと違い、私が相模に憚ることなど、何もないはずなのに。その心を覗くのがどうしてか恐ろしくて、動き出せないままでいた。


 それは昼休みが始まって間もなくのことだった。


「席借りてもいい?」


 いつものようにひなの後ろの席へ移動すると、傍らで聞き慣れた声が響いた。

 見ると、すぐ隣の席の女子に相模が微笑みかけている。問われた女子は頬を桃色に染め、こくこくと何度か頷くと弁当箱を抱えて駆け足で教室を出ていった。


「……なんでいんのよ」

「やー、俺も今日から二人と一緒に食べようと思って」


 ちらりと視線を外すと、教室の真ん中で須藤さんがこちらへ小さく手を振っていた。


「賑やかでいいねえ」


 のほほんと笑うひなに相模も「ねー」とやけに馴れ馴れしく微笑む。なんだか最近、この二人の距離がやけに近い気がする。


 ひなの交友関係が広がることは喜ばしいが、相手が相模となれば話は別だ。警戒心を露わにする私の肩を「もー、そんな怖い顔しなくていいじゃん」と相模が叩く。

 そういう所が油断ならないんだっつーの。


「オレも交ぜてくれる?」


 相模の陰からひょっこり顔を出したのは結城くんだ。隣のひながさっと前髪を直す。

「じゃあ結城くんはこっちに……」さりげなくひなの正面の席を譲ろうとしたら、必死の形相をしたひなに腕を掴まれた。

 結城くんからは見えない位置でぶんぶんと激しく首を振っている。……そんなに照れなくてもいいのに。


「む、むり……」

「二人で出かけてるじゃん」

「学校は別なのっ」


 結局ひなの隣に結城くん、私の隣に相模が座ることとなった。

 隣は隣で緊張しないのかしら。


「金森さんも俺が隣だと緊張しちゃう?」

「いいやまったく」

「しないのかあ……」


 ほんの少しだけ嘘だった。

 相模が隣にいる状況にはこのひと月ほどでずいぶん慣れてしまった。けれど、今の相模は違う。

 見上げても顔が見えないような錯覚。会話が上滑りしていく違和感。これは四月までの相模のものだ。


 長い前髪で影の差した瞳からは、感情が読み取れない。そつのない笑顔は恐ろしくすらある。

 極端に表現してしまえば、隣に座っているのが同じ人間かすらも疑わしい。

 精巧に作りこまれた人形の相手をしているような言い知れぬ気持ち悪さが全身にまとわりついてくる。


 二十分ほどした頃だろうか。耐えかねて、私は席を立った。

 手早く弁当を片付けて「ちょっと外すね」と言い残して足早に廊下へ出る。

 腹部を抑えながら歩く女子トイレまでの廊下が、やけに長く感じる。一直線にトイレに駆け込んだ。


 朝飲んだ薬の効果が切れたようだ。耐え難い鈍痛が腹部を襲う。


 廊下に出て、二歩進んだ所でとうとうしゃがみこんだ。立っているのもしんどい。このまま保健室に向かった方が賢明だろう。

 痛みの波が引くのをじっと待っていると、頭上から労わるような声が慈雨のように降り注いだ。


「大丈夫?」


 本音を言えば全然大丈夫じゃない。

 だけど声を出せばすべて察してしまいそうで答えることもままならない。顔を見られたくなくて、ただ床の一点を見つめたまま黙りこくった。

 何かを考えるような間と、迷いの滲んだ吐息を感じる。


「もしかしてかぐや姫?」

「は?」

「月の」


 やかましいわ。


「なんだっけこれ…………あ、PDF」

「PMS……」


 勘弁してくれ。いちいち訂正する元気もないんだぞこっちは。


「保健室行くよね。立てる?」


 しゃがみこんだ相模が顔を覗き込んでくる。

 やめて、見ないで。膝の隙間に顔を埋めた。

 やがて諦めたようなため息を零すと、相模が掠れた声で呟く。


「……ごめん」


 一瞬、何に対する謝罪なのか判然としなかった。しかしすぐに理解する。


 体が浮いた。


 背中に手を回して上体を抱えられたと思った次の瞬間には、無駄のない動作で膝に手を通されて抱きかかえられた。

 待って、この体勢だと、


「さがっ」

「あ、ごめんね。スカート抑えといて」


 慌ててスカートを体の前に手繰り寄せる。

 保健室までの道中、すれ違った生徒たちが憧憬の眼差しで私たちを見送った。

 むり、耐えられない……!


 羞恥でいっぱいになって顔を伏せる。図らずも相模の胸に顔を埋める形になってしまった。

 保健室に辿り着くと、相模が器用に足でドアを開ける。ソファに座っていた保健の先生がぎょっと目を剥いた。


 ああもう、こんな姿見られたくなかったのに……!


「え、どういう状況」

「聖子ちゃん、ベッド借りるね」

「は!? こら相模何しようとしてんの!」

「寝かすだけだよ!」


 保健室の先生──もとい、聖子先生が慌てて駆け寄ってくる。 

 ベッドに降ろされるなり腹部を抑えた私を見て、聖子先生がさっと顔つきを変える。


「薬とかないの?」

「決まりだからあげられないのよ、申し訳ないけど」

「金森さん、薬持ってきてない?」

「教室にポーチが……でもたぶん入ってない」


 以前はなるべく持ち歩くようにしていたが、最近は軽いことが多かったから完全に油断していた。この場で唯一おろおろと落ち着きのない相模の肩を叩くと、聖子先生は「はい、男子はさっさと出ていく」と強引に追い出した。


 ぺいっと雑に相模を廊下へ放り出し、聖子先生はドアを閉め切った。容赦ねえ……。


「金森。どうしてもつらいならお家に電話するけど。どうする?」

「……少し休めば大丈夫です」


 家に連絡したっておばあちゃんにはどうすることもできない。


 先生の姿が間仕切りカーテンの向こうに消えて、私はやっとベッドに寝転んだ。

 掛け布団にくるまって鈍痛に耐えているうちに瞼が重くなってくる。なんとか六限までに復帰できればいいのだけど……。ぼんやりと考えながら意識を手放した。





 チャイムの音で目が覚める。

 真っ先に感じるのは腹部の鈍痛と頭痛。


 今何限かしら……と時計を見上げて息を呑む。既に帰りのSHRショートホームルームが終わっていた。

 え……寝すぎ……?

 呆然としていると、どたどたと慌ただしい足音が響いた。直後、保健室のドアが勢いよく開かれる。


「オギャッ」

「えっ産まれた!?」


 ベッドの上で跳び上がって驚く私に相模も驚いている。目が合うと、形のいい眉尻を下げて大きなため息を吐く。「ああ、よかった……」弱々しく零しながらカーテンを掻き分け、ベッドの淵に荷物を降ろした。よく見ると私のものも交じっているじゃないか。


「ごめん、持ってきてくれたんだ」

「別にいいよ、これくらい。どう、痛み引いた?」


 首を振って応えると、相模は「そっか……」と目を伏せた。そしてはだけていた掛け布団を引き上げ、私の膝にかけてくれる。


「やっぱり薬買ってくるよ。なんでもいいってことはないよね、いつも飲んでるやつ教えて」

「い、いいよ」

「宇梶さんに聞いたんだけど、ホッカイロがあるといいんだっけ? 一緒に買ってくる。他なにかいる?」

「だからいいって。少し休めば治るから」

「五、六限休んで結局治ってないじゃん」


 きっぱりと断言されて言葉を飲み込んだ。

 情けない。相模に言い負かされるなんて。


「親……は、呼べないし。先生に頼んで家まで送ってもらうか?」

「やめて、絶対にやめて」


 強い口調で引き留めれば、相模は訝しむような目で私を見下ろしてくる。


「……どうしてそんなに嫌がるのさ」

「迷惑かけたくない」

「迷惑じゃないよ。俺が言い出したことじゃん」

「それでも嫌」

「じゃあどうすれば」

「相模」


 残酷であると知りながら、まるで判決を言い渡すような気持ちで相模の目をまっすぐに見つめて言い切った。


「こんなことしても、私は相模を好きにはならないわ」


 相模が私を心配してくれているのは理解している。けれど、どう見てもその様子は常軌を逸している。

 裏に本心が隠されていることは明白だった。


 相模ははっと息を呑むと、唇を真一文字に引き結んで動揺を隠すように首を掻いた。それから諦めたように深く息を吐き出し、ベッドの淵に腰かけ力なく項垂れる。

 白い床に視線を落としたまま、掻き消えそうな声で呟いた。


「俺、信じてもらえて嬉しかったよ」


 そう言って儚い笑みを浮かべる。「球技大会も嬉しかった」そっと瞑目すると、懐かしむような声音で言葉を継ぐ。


「……ごめん、何の話?」

「好きになってほしいからじゃないんだよ」


 ゆるゆると顔を上げた相模は悲痛な面持ちをしていた。

 胸の内に耐えがたい疼痛が走る。

 声を発するのも苦しかった。


「……それでも、相模の好意を利用しているみたいで嫌なの」

「利用してよ」


 縋るような切々とした声だった。笑おうとして失敗したみたいに、唇は歪な線を描き、瞳には悲哀が滲んで揺らいでいる。


「そうじゃないと、フェアじゃない」


 相模が何を言っているのかがわからない。

 フェアじゃないってなに?


「俺ばっかり、金森さんを利用してる」


 静謐な空間に相模の声が重く落ちる。

 そこには言葉を持たない二人だけが残された。


 そっと添えられた言葉も何を指しているのかが判然としない。私と相模の話をしているはずなのに、一人だけ置いてけぼりにされているような心地に陥った。

 継ぐべき言葉を失って、ただ呆然と相模を見遣ることしかできない。


 ねえ、相模。

 何を隠しているの?

 あるいは、私は何か重要な思い違いをしているのだろうか。


 相模の私に対する想いが、恋でも、愛でも、執着でもないのなら。

 その感情に、一体何と名前をつけたらいいのだろう。



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