第4話 それは残酷な④
先輩はひどく真摯な目をしていた。
つい数秒前までと同一人物とは思えないほどその声は張りつめていて、私は彼から目を離せなくなった。
「言っている意味が、よくわからないんですが」
「相模と付き合うことで自分の身に何が起こるかとか、考えたことないでしょ」
「ありますよ。実際、相模のファンから妬まれてますし」
「ああ、まだ可愛い方ね」
可愛い方ってなんだ。可愛くない方があるとでも?
「相模と付き合うってことはさ、あいつの罪を一緒に背負うってことだよ。深琴ちゃんは、相模と共犯になれるの?」
「……罪って、なんですか」
罪。底知れない恐ろしさを持つ言葉だ。知らず、吐き出した息が震えた。
「知らないの? あいつすっげぇクズだよ」
先輩はどこか茶化すように皮肉気な笑みを浮かべた。私は笑う気にはなれず、ただ浅い呼吸を繰り返した。
腕を掴んでいた先輩の手が離れる。優しい手つきは私を安心させようとしているようにも感じられた。なのに、吐き出す言葉はどこまでも鋭利だ。
「相模が改心したかどうかなんて、みんなどうでもいいんだよ。今はいい奴になりました、だから許してくださいオレたち幸せになりまーす……なんて、虫が良すぎると思わない?」胸のいちばん柔らかい部分に深く突き刺さるような声に息が詰まった。「傷つけた方は冗談でも、傷つけられた方はいつだって本気だ」
長い睫毛に覆われていたターコイズの瞳が、幽かに揺らいで私を捉える。柔らかく細めると、ちょいと首を傾げて口元を綻ばせた。
「深琴ちゃんが相模を矯正しようとしてるとか、そんなの知らないよ。傷つけられた人間からしたら相模も深琴ちゃんも同じだ」
浮かべた表情の柔らかさと放たれた鋭利な言葉がちぐはぐで、その異質さに私は何も言えなくなってしまった。
先輩の紡ぐ言葉一つ一つが私の体を巡る血液を凍てつかせる。
相模が私の知らない所で多くの人を傷つけてきたであろうことは容易に想像ができる。
けれど、その姿を目にしたことはない。
一体今までにどれほどの人々が、相模に気持ちを踏みにじられてきたのだろう。
そのとき彼らはどんな顔をして、どんな想いで今日まで生きてきたのだろう。
中途半端に手を貸そうとして、お前に覚悟はあるのかと問われたような気がした。
投げかけられた問いの重みに二の句を継げないままでいると、先輩の手がそっと私のそれに重ねられた。その幽かな温もりさえも、今の私には凶暴な熱さに感じられる。
「ね、だからさ、あんな奴やめなよ」先輩の甘い声が至近距離から鼓膜を揺らし、麻薬のように脳髄をじわじわと侵していく。「オレと共犯にならない?」
体温を重ねる指先から、蠱惑的な響きが全身を満たしていく。私は抗うように口を開いた。
「……先輩は、どんな罪を背負っているんですか」
震える声で問うと、先輩の薄い唇が滑らかな弧を描く。
「オレさ、あいつのことすっげー嫌いなの」
何を告げられるのかとにわかに戦々恐々とする私に、先輩は無邪気に笑んだ。へ、と私が間抜けな声を漏らすと、愉快げな忍び笑いを漏らす。
「生意気でいけ好かなくて、クズなのにやたら慕われてるし、入学してすぐに話題になってオレよりモテるとか言われてるし。気に入らないでしょ?」
「……逆恨みじゃないですか」
「そ。だからさ、深琴ちゃんもオレの仲間にならない? どうせあいつのせいで迷惑してるんでしょ」
言葉に詰まる。迷惑してるのは事実だから否定できない。かといって、先輩の『共犯』になれるかと問われると……。
そのとき、教室内に誰かが入ってくる気配を感じた。
私も先輩も同時に首を巡らせる。その人物は迷いのない足取りで机の間を縫ってくると、鋭い眼差しで私たちを見下ろした。
「遅かったじゃん」
からかいの色を含んだ先輩の言葉に、相模は答えない。いっそ恐ろしいほどの無表情のまま私の傍らに立つと、荒々しい手つきで私を無理やりに立たせた。
「あんまり乱暴にすると嫌われるよ」
「あんた何のつもりなんですか?」
氷から削り出したように凍てついた声。自分に向けられたものでないとわかっていても、心臓を握りつぶされるような心地がした。
ぐいと引き寄せられ、相模の胸に頬をぶつける。
「この子、彼氏いる子なんで。手出さないでください」
密着しているせいで、相模がどんな顔でそれを口にしたのか知る由もない。けれど、ひどく強張った声と、忌々し気に唇を浅く噛んだ柳先輩の表情から、いくらか推量することはできた。
相模に手を引かれ物理室を退室する直前、柳先輩がおもむろに立ち上がって呼びかける。
「深琴ちゃん。さっきの話、結構本気だから。真剣に考えてみてよ」
「考えるまでもないでしょ。金森さんがあんたと付き合うことなんてありえませんよ」
「それは深琴ちゃんが決めることでしょ」
半身で振り返った相模の眼光の鋭さに身が竦んだ。その眼差しを受け取りながらも先輩は飄々とした笑みを浮かべている。
牽制し合うように対照的な二人の視線が交差した。
朝の会議を終え教室へと赴く教師たちに交じって渡り廊下を急ぐ。
掴まれたままの手首が幽かに悲鳴を上げて「相模、手痛い」と訴えた。
ほんの一瞬だけ力が弱まる。しかしすぐにそれまでよりも強い力で握りこまれて、足が止まった。
振り返った相模の眼差しは凶暴ではなかった。ただ柳先輩に注いだものとはまったく異なる強張りを見せて、切々と縋るように揺らいで私を見つめる。
「金森さんは俺から離れないよね?」
出し抜けに問われて、虚を突かれたように固まる。
「好き」畳みかけるように相模が呟いた。
「好きだよ、金森さん。どうしたら俺のこと好きになってくれる?」
「ちょ、ちょっと待って」
容赦なく降り注ぐ情熱の雨を遮るように、顔の前に手を翳して制止した。
「あんた、なに焦ってるの?」
琥珀色の瞳には抑えきれない焦燥が浮かんでいる。愛を囁く声音にも平生の余裕など欠片も感じられない。
形のいい唇が小さく戦慄く。何かを紡ぎ出す前に、容赦のないチャイムの音が呼吸ごと吞み込んだ。
握力を失ったみたいに相模の手が滑り落ちる。私は虚ろな表情で一人歩き出した相模の背を見送ることしかできない。
手首に残る灼熱の余韻が、まだ私をこの場所から逃がしてくれなかった。
好きだと告げた相模の声が鼓膜の奥でしつこく鳴り響いている。
恋と呼ぶにはあまりに凶暴で、愛と呼ぶには未熟すぎる。
これじゃあまるで、相模が私に執着しているみたいじゃない。
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