第4話 それは残酷な③

「静かに、オレだよ」


 胸に抱き込まれて、頭上から降ってきた密やかな声の主が柳先輩だと理解した。

「苦しかったよね。ごめん」と至近距離で囁かれ、その体温と香りに身を仰け反らそうとした刹那、


「あ」


 先輩の白い耳たぶに、この距離でないと気づかないほど、ぽつんと小さな穴が空いているのを見つけた。

 私の視線に気づいた柳先輩が、人差し指を唇に寄せて「しーっ」と囁く。お手本のようなウインク付きで。


「……柳先輩」

「あれ、名前教えたっけ」

「ちらっと聞いたので」

「あーね」


 ぞんざいに頷くと、くすっと悪戯っぽく微笑む。


「オレ下の名前 楓馬ふうまっていうんだよね。深琴ちゃんは特別に『楓馬先輩』って呼んでもいいよ」

「あ、いいです」


 きっぱり断ると苦虫を嚙み潰したような顔をされた。


「深琴ちゃんは可愛い後輩だと思ったのに……」

「今日会ったばかりの人にそんなこと言われても。ていうか、柳先輩なら慕ってくれる後輩いっぱいいるでしょ」

「どいつもこいつも生意気ばっかりだよ」

「……相模と仲良くなりたいなら、協力しますよ」

「えっ」


 きょとんと目を見開いた先輩が、心底意外そうに問うてくる。


「なんでそんなこと言うの?」


 私はずいぶん悩んでからようやっと口を開いた。


「……相模を、まっとうな人間にしたいから」


 あいつは多分、そこまで悪い奴じゃない。第一印象は最悪だし、まごうことなきクズだけど。


「なんか、子供っぽいんですよね、あいつ」


 良くも悪くも無垢なまま、体だけ大きくなって、精神的な部分が未成熟なのだ。

 悪意などではないのだと思う。純真無垢なまま肥大化した自意識の成れの果てこそ、相模を形作るものなのだ。


 けれど、今の相模は。


 私を思いやってくれた。人の心に向き合うことを覚えた。誰かを大切にするということを知った。

 今、相模は『心』を学んでいる最中なのだ。


「相模が変わろうとしているなら、私もそれを応援したいです」

「……どうだかね。あいつ、人の心に鈍感だし、踏みにじることに無自覚的だし。深琴ちゃん一人でどんなに頑張っても難しいんじゃない?」

「先輩は相模のこと、よく見ているんですね」

「はっ。別にストーカーとかじゃないからね」

「ありがとうございます」


 相模がくだらない噂だけを頼りに当て推量で語られることを忌避していると、私は身をもって知っている。

 この人は私や他の人とは違う。


「きっと相模には、先輩みたいな人が必要なんです」


 先輩が虚を突かれたように目を瞠った。


「だからこれからも相模のこと、見ていてあげてください」私が告げると、くすぐったそうに身を捩りそっと目を伏せ、子供みたいに小さく呟いた。「……お節介だね」

「あー、弟がいるからかな……」

「えっ、深琴ちゃんお姉さんなの?」


 先輩の目が一瞬にして淀む。さっと身を反らすと、怯えたような眼差しを私に向けてくる。


「なんですかその反応」

「……この世のありとあらゆる『姉』という存在が苦手」


 なんだそれ。

 膝を抱えて蹲る姿は拗ねた子供のようで、悪戯を叱られたときの湊によく似ていた。

 濁った瞳で床を睨みつけるとぶつぶつと早口で呪詛のようなものを唱え始めた。


「弟を奴隷みたいに扱うし家庭内で人権がないし雑にいじるし姉弟なのに上下関係厳しいしすぐパシるしなんなの? オレは財布なの、足なの? ねえどっちなの」

「私に言われても。本人に訊いてくださいよ」

「オレに死ねって言うの!?」


 そんなにか。

 HRホームルームに遅刻してまで愚痴に付き合ってやるつもりは毛頭ない。真面目な話も終わったし、このあたりで退散させてもらおう。


「じゃあ私もう行くんで。先輩も戻った方がいいですよ」


 立ち上がろうとして失敗する。ぐんと左半身が引っ張られて尻餅をついた。見ると、柳先輩が私の腕を掴んでいる。


「なんですか、もう」

「深琴ちゃんはさ、相模と付き合うってどういうことか、本当にわかってる?」

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