第3話 大切だから⑤

 主審の笛を合図にコートチェンジが始まる。

 私は三セット目に出場するメンバーに激励の言葉をかけながら、頭の隅でこのままどさくさに紛れて抜け出してやろうかなんて画策していた。


 第一セットは相手に取られてしまったものの、なんとか第二セットを取り返し、試合はフルセットにもつれ込んだ。


 もしもひなが女子トイレに籠っていたら、相模さがみたちはどうするつもりなのだろう。やはり私が行くしかないのでは。そんな風に考え込んでいると、須藤すとうさんに背後から肩を叩かれた。


「ねえ宇梶うかじさんは?」

「……ごめん、まだ来てないみたい。私探してくる」

「間に合わないよ」


 声音には責めるような響きはない。ただそこにある事実を淡々と告げているだけのようだった。

 コートの中では三セット目の出場メンバーたちが不安げに顔を見合わせている。須藤さんは主審を一瞥すると


「あたしが出るよ」

「え、ちょっと待って。須藤さんフル出場になっちゃうよ」

「別にいいよ。その代わり金森かなもりさん、宇梶さんのフォローよろしくね」

「……どうして須藤さんがひなのためにそこまでしてくれるの?」


 純粋な疑問だった。

 須藤さんが、クラスのみんなが、この学校の人たちが。ひなのために心を砕く理由なんて、一つもないのに。


「別に宇梶さんのためじゃないよ。クラスメイトだからそうしてるだけ。みんなそうじゃないの」


 その言葉に、私は素直に頷くことができなかった。

 むしろやるせない気持ちでいっぱいだった。その無関心を、優しさを、欠片でもひな本人に伝えることができていたら、ひながこんな風に壊れてしまうことはなかったのに。


「……あとはまあ、個人的に。金森さんと仲いいなら悪い人じゃないんだろうなって、思っただけ」


 付け足された言葉に顔を上げる。それは私には一筋の光明のように思えた。

 照れくさそうに顔を背けた須藤さんが実行委員へと声をかける直前、慌ただしい足音が響く。


「間に合った!?」


 人だかりを掻き分けてコートを覗き込んだのは、相模だった。

 遅れて相模の陰からひなが顔を出す。目元が赤く腫れていた。


「ひなっ」

「今何セット目!?」

「これから三セット目!」


 須藤さんが走ってくる。その勢いにひなが身を固くした直後、須藤さんはひなの肩を両手でがっちりと抑えて顔を覗き込んだ。


「出られる?」


 ひなの白い喉元がごくりと動く。胸の前でタオルを握りしめて、強張った表情のまま、けれど決然とした眼差しで力強く頷いた。


「うん!」

「……よし。ならタオル預かっとくよ」


 ひなからタオルを受け取り、須藤さんは顔の横に手のひらを掲げた。にかっと白い歯を見せて快活な笑みを浮かべる。


「ファイト!」


 ぱちん! ハイタッチの爽快な音が鳴り響く。

 ひなが力強い笑みでコートに入っていくのを、私は唖然と見送ることしかできなかった。

 主審が笛を吹いたことでようやく我に返る。壁際に佇む相模と目が合うと、相模はばつが悪そうに視線を彷徨わせて「結城ゆうきくん探してくる」と誰にでもなく呟いた。


「相模っ」


 慌てて後を追う。体育館の入口で相模は気まずそうに振り返った。すれ違う生徒たちが怪訝な眼差しで私たちを一瞥しては去っていく。


「ごめんなさい相模。部外者は言い過ぎた」


 相模は一瞬瞠目してから「あ~~~~」と呻き声をあげてその場に蹲った。文字通り頭を抱えた相模に駆け寄り、おろおろとその肩を支えてやる。


「さっ相模? 大丈夫」

「今度は先に言わなきゃって思ってたの」


 いじけたような声音。ゆるゆると顔を上げると、伏し目がちに私の表情を窺ってくる。


「……俺も。宇梶さんのせいで金森さんが不幸になってるなんて言ってごめん。そんなことなかったのに。宇梶さんはちゃんと……」


 そこで一度言葉を区切り、大きなため息を吐いた。


「……ダメだね、俺。宇梶さんも……結城くん、も。ちゃんと見ないと」


 ひどく悲し気な目をしていた。ぽつりぽつりと紡がれる言葉には自責と後悔が滲んで揺れている。

「誰かを」差し込むように相模が呟いた。


「大切にするっていうのは、難しいね」

「……うん」


 本当に。うまく受け取れなくて、伝えられなくて。だから間違って。後悔ともどかしさに足を取られて前に進めなくなってしまう。


「だからみんな、少しずつ積み重ねていくんだと思う」


 何度も失敗して、そのたびに学びを得て。また次に挑む。その繰り返しの中で誰かを大切にするってどういうことか、少しずつ理解していくのだと思う。

 そしてそれは、私も相模も同じだ。


「相模もこれから積み重ねていけばいいのよ」


 柔らかく微笑みかけると、相模は子供みたいに無垢な瞳で私を見つめた。

 ああ、またこの目だ。だから私は、相模を見捨てられない。


「……遅くないかな」

「遅くないわよ。一緒に積み重ねていこう、私と」


 相模の背にそっと手を添える。広い背中。だけど今は小さい子供みたいに頼りない。


「だから私、相模のこと信じるわ」


 相模のことを信じる。相模の信じるものを私も信じる。

 それがきっと相模を大切にすることに繋がるから。

 相模が教えてくれたから。


 ティーカップの水面が揺らぐみたいに琥珀色の瞳が煌めく。

 いつか、相模に目が好きだと言われたことを思い出した。


 私も相模の目が好き。


 一瞬、そんな風に場違いなことを考えてしまった。

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