第3話 大切だから④
スニーカーを脱ぎ捨て、渡り廊下から教室棟へ飛び込んだ。同時に、俺は最低限の情報すら聞きそびれたことにようやく思い至る。
せめて最後に見た場所くらい……と考えて、やはり諦めて自分の足で探すことを選んだ。
既に試合は始まっているし、
すべての生徒が屋外へ出払い、閑散とする廊下を駆ける。一階から順にすべての教室を覗いて確認していく。
「
二階へ上がり、まずは突き当りの進路指導室を覗いた。もちろん姿は見えない。
次に男子トイレの前を通り過ぎて二年一組の教室へ。
ここが最も可能性が高い。教室内まで入って机の陰を探した。もしかしたら、なんて念のために教卓の下も覗き込む。流石にいなかった。
なんでこんな馬鹿馬鹿しい真似をしているんだろう、と一瞬羞恥と自己嫌悪が過ぎるのを頭を振って打ち消す。
どうしたら彼女を大切に想う気持ちが伝わるのだろうと、自分なりに考えていた。
明確な結論も持たないまま今こうして駆けているのは、潤んだ瞳に魅入られてしまったから。
今動かなければ後悔すると本能が叫んでいた。
二組、三組と同じように教室内まで確認していく。
ふと、短く嗚咽が聞こえたような気がした。
息を呑む。呼吸すら忘れて聴覚に全神経を集中させた。
恐る恐る四組を覗き込むが、やはり人影はない。……教室からじゃないのか。
ならば、と廊下の先を見据える。息を殺して忍び寄る。柱の陰にそれを見つけた瞬間、驚きのあまり喉元まで走った叫びを寸前で飲み込んだ。
宇梶さんは女子トイレの前で柱に背を預け蹲っていた。
タオルをぐしゃぐしゃに握りしめ、顔を埋めて何度も肩を震わせている。
「……宇梶さん」
小さく呼びかけると、びくんと肩を跳ねさせて恐る恐る顔を上げた。大きな瞳からは涙が溢れ、その白い頬を濡らしている。
「相模くん……?」
乱れた呼吸と掠れた声で名前を呼ぶと、宇梶さんはぐっと涙を堪えるように幼い面立ちを歪めた。
「どうして、相模くん……」
「試合始まるのにまだ来てなかったから、迎えに来たよ」
「ごめんなさい……」顔を伏せ、握りしめたタオルで目元を乱暴に拭う。「立てなくて……」
見れば、ハーフパンツから伸びる細い脚が小刻みに震えている。なるほど。動けなくなるとはこういうことか。
俺は深く息を吐き出し、自分も柱に背を預け腰を下ろした。
「じゃあ、もう少しここで休んでいこうか」
「でも……」
「大丈夫。試合なら金森さんたちが頑張ってくれるから、三セット目まではまだ時間あるよ」
優しく笑いかけたのに、宇梶さんの表情は晴れない。それどころか苦し気に顔を歪め、大粒の涙を零した。
「まただ」
風に掻き消えそうなほどか細い声で呟く。
「また、
その言葉に、俺は幽かに息を呑む。宇梶さんはぶるぶると体を震わせると、タオルに顔を埋めて涙声で語り出した。
「わかってるの。このままじゃダメなんだって。ひなのせいで深琴ちゃんが自由にできないんだって。だけど怖いの」
人間が怖い。大勢の中に一人でいるのが怖い。誰にも助けてもらえないのが怖い。
全部克服しなければ、一人でも普通の人のように生きられるようにならなければと理解しているのに、抗えない恐怖が全身を包んでいく。足が竦む。頭が真っ白になる。呼吸すらままならない。
どうして、
「どうして、もっとうまくできないの……?」
悔しくて涙が止まらない。
崩壊したダムのように、嗚咽交じりの言葉が溢れていく。
「こんなひな嫌なのに。深琴ちゃんのことを助けてあげられるひながいいのに。深琴ちゃんだけが、ひなのこと信じてくれたのに……どうして、どうしてひなはこんななの。もうやだよ、ひなのせいで……ひなが深琴ちゃんを縛り付けて、」
「宇梶さんのせいじゃないよ」
心臓を握り潰されるように苦し気な声音に耳を傾けるうちに、反射的に慰めの言葉が口をついた。宇梶さんの責任を断じたのは、他でもない自分なのに。
他人の話じゃないと思った。このもどかしさも、悔しさも、全部知っている。
「宇梶さんのせいなんかじゃないよ……。
ぽつりぽつりと、子供に説明するように優しく言葉を紡いでいく。潤んだ瞳で俺の言葉に耳を傾けていた宇梶さんが、ふと、深く項垂れる。酸素を求めて喘ぐような、苦し気な吐息を漏らすと、また廊下には嗚咽だけが響くようになった。
「相模くん」
どれくらいの時間が経ったのだろう。グラウンドから薄く響いた金属バッドの快音で顔を上げた宇梶さんは、既に涙を流してはいなかった。
敢然とした声で呼び掛けると、赤く腫れた瞳を柔らかく細めて、ふっと口元を綻ばせる。濡れた瞳が揺るぎない決意を湛え、まっすぐに俺を貫く。
「助けてくれてありがとう。いつか相模くんが困ってるときは、きっとひなが助けてあげるね」
もう大丈夫だと思った。
ゆっくりと腰を持ち上げて手を差し伸べるが、宇梶さんはゆるりと首を横に振ってそれを拒否した。
「深琴ちゃんに申し訳ないから」
「金森さんはこんなことじゃ怒らないと思うよ」
「うん、ひなもそう思う。だけどひなが申し訳ないから。深琴ちゃんのことが大切なの」
ひななりに大切にしたいの。
静かに宇梶さんが微笑み、俺は何も言わず手を引いた。そうして壁に寄りかかりながら立ち上がる宇梶さんに柔らかく微笑みかけた。
「行こうか」
彼女が待っている。宇梶さんは「絶対」と首肯した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます