第2話 悪くないじゃん④
いつもは一人の通学路を、自転車を押した
相模がいる。それだけのことで全然知らない道を歩いているような錯覚を覚えた。
なんとかタイムセールに滑り込み、二人で荷物を抱えて中野屋を出た頃には既に辺りは闇に包まれていた。
「家まで送るよ」という相模の申し出をありがたく承諾し、二人並んで歩き出した。
「
「手紙の子?」
「うん。指定された日はとっくに過ぎてたけど、教室まで迎えに行って。謝罪と……ちゃんと話聞いてきた」
相模の『どうしても外せない用事』とは、つまり件の手紙の少女と会うことだったのだ。これには素直に感心してしまう。
「偉いじゃない」
「はは。好きになってほしかったからね」慈愛に満ちた眼差しが向けられる。「その子にじゃないよ。金森さんに」
「……そんな理由で」
「大事なことだよ。……まあ結局、なんやかんやあって泣かせちゃったせいで遅くなっちゃったんだけど」
ばつが悪そうにうなじを擦る。……ということは、その子が泣き止むまで傍にいたのか。
街灯に照らされた道の先に、家の塀が見えた。「あそこ、私の家」指さすと、相模は家の前まで送るよと笑んだ。
なによ、一番気を遣わない相手が私って言ってたくせに。
「ありがと、相模」
あの相模が、私のために行動を起こしてくれたという事実が嬉しかった。相模は唇をおかしな形に歪め、前髪をしきりに指先で弄びながら、
「本当はこういうのさ、柄じゃないんだけど。たまにはいいかもね」
見ているこっちがくすぐったくなるような照れ笑いを浮かべた。そうして誤魔化すように「それにこれで家の場所わかったし、朝迎えに来られるじゃん」と軽口を叩いて、ウインクを決めてみせる。
相模がそれを望むならと、私も「来なくていいわよ」といつものように返した。
二、三言交わして、別れようとしたその瞬間、突如玄関のドアが開かれる。ドアの隙間からひょっこり顔を覗かせたのは、小さな男の子。
「お姉ちゃん、おかえり!」
「
湊はスニーカーの踵を履き潰して、とてとてと私の元へ駆けてくる。私はその場にしゃがみこんで小さな体を抱きしめた。
「ただいま。ごめんね遅くなって。すぐご飯作るから」
「へーき! おばあちゃんがおやつくれた」
「……弟さん?」
湊がきょとんと目を丸くして相模を見上げる。
「湊、ご挨拶して」
「かなもりみなとです。お姉ちゃんの弟です」
「弟の
「
湊の身長に合わせてしゃがみこんだ相模が、にっこり余所行きの笑みを浮かべた。胡散臭えなあと見ていると早速「お兄ちゃんって呼んでもいいんだよ」などとかましやがった。
湊がふるふると小さく首を横に振る。
「さがみ」
「お兄ちゃんとお呼び」
「うん、さがみ。さがみはお姉ちゃんのかれしですか?」
「おーっ見る目あるじゃん弟くん!」
「こら湊!」
今の子供はこういうのをどこで覚えてくるのだろう。知らない間に知恵をつけてくるおかげで驚かされる。主に心臓に悪い方で。
「湊、先お家に入ってて。おばあちゃんにお姉ちゃん帰って来たよって教えてあげて?」
「わかった!」
湊が「おばーちゃーん!」と叫びながら家の中に戻っていくと、一気に場が静まり返った。やがて立ち上がった相模が遠慮がちに問うてくる。
「……ご両親は?」
「うち母子家庭なんだよね」
私は平静に答えた。
「で、母親は叔母さんの家で療養中」
「療養?」
「過労で倒れちゃってさ。入院してた時期もあったけど、回復したから今は叔母さんに面倒見てもらってる」
そして母が子供の面倒を見られなくなったために私たち姉弟は祖母の家へと預けられ、私と祖母で家事を分担しているのだった。
やや特殊な家庭環境であるという自覚はある。けれど、不幸だと思ったことは一度もない。
「別にこれくらい大変でもなんでもないし。あんまり気にしないで」
重い空気になるのが嫌で、私はあえて明るく笑って見せた。空々しい声音が夜に吸い込まれて消えていく。
家庭環境の話をするたびに同情されるのが苦手だった。高校でこのことを知っているのは親友であるひなと、結城くんをはじめとした中学からの友人くらい。
相模は神妙に頷くと、一歩下がって「じゃあ」と軽く手を上げた。見送ろうとして、はたと思い至る。
そうだ、これだけは確認しておかなければ。
そのまま踵を返そうとする相模の腕を掴んで引き留める。
「待って。……一つだけ聞かせて」
相模はあの子に向き合ったのだ。
なら、私も。
「相模は本当に私のことが好きなの? もしそうなら、私のどこが好きなの?」
私の問いが意外だったのか、相模は瞠目すると戸惑うような視線を私へ注いだ。
私も相模も、互いの瞳を覗くだけで言葉を発しない。ただ、温い風が二人の間を吹き抜けていく。
先に口を開いたのは相模だった。
「……へえ。俺に興味持ってくれたんだ」
低く、どこか蠱惑的な声だった。
さっきまでの相模じゃない。咄嗟に掴んでいた腕を突き放して一歩後ずさると、その分を埋めるように相模が一歩踏み出した。
一歩一歩、じりじりと追い詰められていく。背中に硬いものが当たってはっとする。私と玄関扉との間に、もう隙間はなかった。
ふっと相模が笑みを零す。目を細めて、舐めるような目つきで私を瞳に映した。
捕食者の目だ。本能的にそう思った。
相模の手がこちらへ伸びてくる。私は瞬きすらできない。
武骨な指が私の前髪に触れた。柔らかい手つきで前髪を梳いて、恐怖に揺れる私の瞳を真上からつぶさに見つめる。汗ばんだ額を風が撫でていく。
「俺が好きなのはね、その目だよ。金森さん」
「……め」
「うん、目」
前髪を梳いていた指がこめかみのあたりをくすぐる。そのまま目玉を抉られるんじゃないかという妄想が脳裏をよぎった。
「俺のこと嫌いなのに、俺のこと知りたくてたまらないって目」
「そんな」
「知りたいんだよ、金森さんは俺のこと。俺は金森さんの、そんな欲深い、目が好き」
弓なりに歪んだ琥珀色の瞳の奥が、いやに冷たい。深淵を覗いているような心地に、背筋に冷や汗が滲む。笑みを湛えた唇の隙間から白い歯が覗くだけで、首筋を嚙み千切られるんじゃないかと足が竦んだ。
なんだこれは。この男は何を言っているんだ。
「俺が金森さんのどこを好きなのか、金森さんにはわからないでしょ? だから言うよ、何回も。俺は金森さんの目が好き。これからたくさん好きが増えていく。そのたびに教えてあげるね。金森さんにもわかるように、丁寧に」
睦言みたいな囁きを残して相模が去っていった。
自転車の駆動音が遠のいていく。辺りに虫の声だけが響くようになって、私はようやく言い知れぬ緊張感から解放された。
たちまち脚の力が抜けて、玄関扉に背を預けその場にへたり込む。
耳の奥では相模が残した蠱惑的な声がしつこいくらいに鼓膜を撫でて、私の脳みそをいっぱいに満たしていた。
早鐘を打ちすぎて破裂しそうな心臓を押さえつける。この鼓動は、自転車で並走したときのものとは全く異なる。むしろ正反対のものだ。
……食べられるかと思った。
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