第1話 喰うか喰われるか⑤

 職員室傍の女子トイレに人の姿はなく、静まり返っている。

 けれど私は個室から人の気配がしたのを見逃さなかった。


「ぅ……おえっ」


 苦し気にえずく声と、びちゃびちゃと水面で何かが跳ねる音。

 私は迷わずその個室へ向かって、丸まった背中に声をかけた。


「お昼、食べ損ねたんでしょ?」


 吐くのに必死で人が入ってきたことにも気づいていなかったようだ。

 私が声を発して、彼女はようやくはっとした顔で私を振り返った。

 暗めの茶髪に、ぷくりと丸い頬。顔面は蒼白で、唇の端から唾液が零れていた。ポケットからティッシュを取り出して軽く拭いてやりながら、そっとサンダルの色を盗み見る。……青。一年生だ。


「中学のときね、保健委員だったんだ」


 何から話すべきか逡巡して、結局思い出話を口にした。


「クラスにダイエット中の女の子がいたんだけど、ある時その子が給食中に教室を出て行って。私、具合が悪いなら保健室に連れて行かないとって、後をつけたの」


 呆然とした様子で私を見つめる少女の手をそっと取る。健康的に肉のついた手だ。唾液にまみれていたけど、そんなのは気にならなかった。


「その子、トイレで吐いてたんだ。病気じゃなくて、自分で口の中に手を突っ込んで、食べたばかりの給食を」


「これ、吐きだこね」少女の手の甲を撫でて尋ねると、彼女は声を詰まらせた。あどけない瞳に涙が滲む。「ご飯、戻してるんでしょう?」


 柔らかく問うと、ついに少女の瞳から涙が溢れた。

 嘔吐を誘発しようと喉に指を入れることで、指や手の甲にたこができることがある。中学生のときに見たものと同じ。

 少女の担任が判断したという妊娠の初期症状。吐き気や眩暈、体のだるさ……そうした諸症状は、摂食障害に伴う合併症とも共通するものだ。


「ごめんなさい……言えっ……くて、ご飯、食べられなく、て……」

「うん……うん」


 今更確認する必要もない。彼女は妊娠なんてしていない。

 震える背中を擦りながら、彼女が落ち着くのを待った。


「ねえ……どうして相模さがみを?」


 それだけで彼女は怯えたように肩を跳ねさせる。また顔をくしゃくしゃにして「……はじめて」と零した。

「はじめて好きになった人だったんです……!」

「告白、したんだ」少女がこくりと頷く。「四月に、……でもっ……ダメで」


 ぼろぼろと溢れる涙をティッシュで拭う。

 彼女は高校に入学して、人生で初めての恋に落ちた。それが相模だった。

 きっと散々な振られ方をしたのだろう。極度のストレスにより摂食障害を患い、体調が悪化していく様を彼女の担任教師は見ていたのだ。

 そうして今日、ついに嘔吐している現場を見られてしまった。摂食障害のことを口にできず、涙を流すばかりの彼女を、担任は妊娠していると勘違いしたのだ。「相手は」と尋ねられ、咄嗟にストレスの原因である相模の名前を口にしてしまった。


「ごめんなさい……ごめんなさい……!」


 大粒の涙で顔を濡らしながら、少女は繰り返すことしかできない。

 この様子では、相当ストレスに弱いはずだ。大勢の大人に囲まれて、泣いてばかりでまともに口を開くこともできなかったのだろう。


「大丈夫」


 私は彼女の体をそっと抱きしめた。


「まだ間に合う。私と一緒に行こう。絶対に離さないから」


 腕の中で、少女が息を呑む気配がした。





 女子トイレの外には相模は既にいなかった。胸ポケットからスマホを取り出して確認すると、通話状態は既に終わっている。一足先に応接室へと向かったのか。……あるいは、この子に気を遣ったのかもしれない。

 時折鼻を鳴らす少女の手を引きながら私も応接室へと向かう。少女は目元を赤く腫らしながらもその足取りはしっかりとしていた。


 応接室のソファーには、うちのクラスの担任と少女の担任らしき女性教師が並んで腰かけていた。その後ろには一、二年の学年主任が険しい顔をして控えている。

 下座には真剣な面持ちで俯いた相模。

 無関係な生徒の入室を咎めようと学年主任が口を開くよりも早く、私は声を張り上げた。


「相模とこの子は付き合っていません。ていうか、相模に彼女なんていません」


 先生たちが一様にぽかんと口を開けて私を見つめている。ずらりと並んだ間抜け面を見渡して


「だってこいつ、クズなので!」


 高らかに言い放つと、相模がふっと吐息を零した。その唇が楽し気に歪んだのを見逃さない。

 私が隣の少女に「ね、」と呼びかけると、彼女は一つ頷いて大きく息を吸い込んだ。


「あの、」


 息遣いが徐々に浅くなる。酸素を求めるように口を開閉させ、震える手が私の手を縋るように握りこんでくる。

 私は「大丈夫」と短く囁いて、彼女の手を強く握り返した。私を見上げるあどけない瞳に涙が滲む。やがて彼女はごくりと唾を飲み下し、覚悟を決めたように事の顛末を語り出すのだった。

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