やはり新鮮なのは刺し身だ
まったくもって情熱的であった。あそこまで熱い怒りを見るのは数年ぶりである。
警察署を出た刑事は、思わず苦笑する。
不老不死により、人々はなんとなしに悟りを得、平時は無感情になった。
そんな人間がまるでまともだったころの人間のように、感情を顕にしこちらを責めてくる。これはもう、笑うしかないだろう。
まるで往時のときのような怒った顔で、上司はこう言った。
お前はしばらく、謹慎だと。
無理もない。命令違反の独断専行、しかもいきなり街中で銃を抜き、しかも誤射している。
挙句の果てに、最後の最後で死ねる男を逃してしまった。
成果が出ていれば、言い訳ぐらい出来ただろう。だが、逃してしまった以上、それでおしまいだ。
仕方のないことだ。自分の中に、まだ男に追いつかない甘さがあったのだ。
これからは、追いつくために何が必要なのかを考えればいい。幸い、時間だけはたっぷりとある。
ふと気づくと、無言でこちらを見つめてくる後輩が居た。
彼の表情はよくわからない。暴走した先輩を責めているようにも、別れを惜しんでいるようにも見える。
なにかの感情を内に秘めている。そんな顔だ。
彼も死なないだろうに、あんな顔が出来るだなんて。
もしかしたら、あの後輩が現在最も人間らしさを残している存在なのかも知れない。
あの男は違う。身体は元のままでも、中身がもはや、この世界で生き延びるために最適化された、何かになってしまっている。
「すまないね」
刑事が後輩にできるのは、頭を下げることだけだった。
それだけ言って、刑事は後輩に背を向ける。
後輩が今、どんな顔をしているのか。確かめるのが、なんだか耐えられなかった。
◇
謹慎でもあるし、妻にいろいろと話したいことがある。
家に、帰ろう。
そんなことを穏やかな心持ちで考えていた刑事だったが、今その心は荒れに荒れていた。
「やー。どもども」
玄関の鍵を開けて、中に入ろうとした時に掛けられた声。
振り向いた先に居たのは、逃げ延びたはずの死ねる男であった。
刑事の手が考えるより早く動き、男の胸ぐらをつかむ。
「待った待った、いくらなんでも、いきなり人をぶん投げようとするなよ。だから、警察は怖い。みんな柔道やってるから、衝動的にぶん投げようとしてくる」
「……そうするとわかっていて、前もって準備しておく人間もどうかと思うけどね」
柔道だろうが相撲だろうが、腰に力を入れ、重心を下げている相手を投げるのはとにかく難しい。投げは相手を崩して、もしくは虚を突いて放つ技である。男の腰は、投げられぬようきっちりと据わっていた。
男は刑事の手を振り払ってから、話し始める。
「人を追うのに必死な人間は、追われるのに慣れてないんだよ。だからゆっくりとつけさせてもらった」
「追ってきた? どこからだい?」
「警察署を出るところからかな。慌てず堂々としていれば、意外とバレない。危ないところならなおさらだ」
ぶん殴ってやりたい。そう言ってニヤニヤしていいる男の顔を見て湧き出てきた感情を、必死に刑事は抑え込む。
男の存在に気づかなかった時点で負けである。ここで殴りかかるのは恥の上塗りでしかない。自分も含め警察は、男の度胸に負けたのだ。
男が近くにいるのも気づかないで、後輩と感動じみた別れをしていたのが、本当に恥ずかしくなってくる。
刑事は男に話す。
「拳銃を突きつけてやりたい気持ちだが、あいにく没収されていてね。でもまあ、それなりのことはできるんだけど……なんで、僕をつけてきたんだい?」
「だってアンタ言っただろ。俺が知りたいのは、あの真夜中の事故だって。だから、知ってることを話そうかと思って」
「……なんだって?」
「だから、警察風に言うなら、証言しに来たんだよ。なんだって? じゃなくて、もっと喜んでほしいんだけどさ」
刑事にとって大事なものであるのは間違いない。ずっと追い求めてきたものである。だが、そうであっても言える。この男は、そんなもののために、刑事のところに来たのか。渋谷中の人間に追い回された挙げ句、刑事にも殺されかかったのに、こうして来たのか。
いくら百戦錬磨の刑事であっても、いま男がこうしてここにいることには、虚を突かれてしまった。
「アンタも知っての通り、俺は日本中を逃げ回っているわけだけどさ」
刑事の顔を見て、男はさらなる真意を話し始める。
「こういう無茶をするには、心残りがあるとダメなんだよ。心残りがあると、足を引っ張られるってのはわかるだろ? だから、心残りをどうにかするためにここに来たのは、俺のためでもあるのさ。だから言っただろう、いつか話すって」
アンタのためではなく、俺のために来た。男は正直であった。
刑事は男にたずねる。
「理屈はわかったよ。下手に口当たりの良い言葉だけ言われるよりかは、信用できる。いくらなんでも、いつかが早すぎるとは思うけどね」
「早い分には問題ないだろ。しかしアンタ、お世辞が苦手なタイプだろ。俺もだ」
「そのこちらを見透かす態度は気に食わないね。でも、一つだけ聞きたい。いくら気になるとはいえ、なんで僕の所に顔を出せたのかな? 君を捕まえるために、手段を選ばないと知っている人間だと、知っているはずだ。ここは一応住宅街だ。もし僕が大声を出せば、君がここにいることなんて一瞬でバレる。それなのに、なぜ顔が出せた?」
「アンタが手段を選ばない人間だからだよ」
男は決め台詞のような勢いで、そんなことを言った。
「手段を選ばない人間には二種類いる、頭が悪かったり勢いだけで生きているから手段を選ばないヤツ。そして、手段を選ばないほどに大事なものがあるヤツ。アホなやつはただのアホなんで楽勝、大事なモンがあるヤツは手強い。アンタは手強かった、なら大事なモンがあるヤツだ。その大事なモンは……十中八九、あの夜の事故に関してだろうさ。俺を捕まえるっていう刑事としての使命感より、まずそっち。なら、せっかくのチャンスをいきなりぶっ壊すなんて、馬鹿な真似はしないだろ。なんなら、俺が叫んでもいいぜ。ここに、死ねる男がいるーなんて」
刑事に出来るのは、返答の代わりにため息をつくことだけだった。
ここまで見透かされては、もはや仕方がない。いや、わかった上で乗ってきたのだから、結果オーライと言ってもいい。
刑事は玄関を開け、男に入るよう促す。
「そっちの言っていることは、全部当たりだよ。僕はあの夜の事故のことが知りたい。妻がどうしてこうなったのか、知りたいんだ」
「妻……あの女の人か」
妻と聞き、男はすべてを察した。件の事故のことを覚えている証明である。
刑事は多少安堵した様子を見せ、家の中に入った男と共に奥に向かう。
「てっきり、アンタが以前あの事件を担当していたぐらいだと思ってた」
「一つの事件の解決に執念を燃やす鬼刑事だって? いやいや、ドラマ以外でなかなかそんな刑事はいないよ。特に、のんべんだらりとみんなが生きている、今の時代じゃね」
刑事は部屋の戸を開け、まず中にいる妻に声をかける。
「ただいま」
声もない妻に返事はできない。手足のない妻は反応も出来ない。
ただベッドの上で生きているしか無い彼女を見て、さすがの男も眉を歪めた。
「おじゃましています」
それでも、悲しさをなるたけオブラートに包み、これだけの声を絞り出してみせた。
刑事は運んできた椅子を男にすすめ、男はゆっくりと腰掛ける。
まさか自分が逃げた後、ここまでの事態になっていたとは読みきれなかったのだろう。
始めて、男の様子に弱さが混じった。もし今、即座に確保すれば、男は為す術がないまま捕まるかもしれない。
だが、それは刑事の望んでいることではなかった。
刑事は自分も椅子を持ってきて、男の対面に座る。近くにある小さなテーブルには、様々な書類と資料、撮影用のスマホが用意されていた。
「これから、僕の質問に答えてもらうよ。悪いが、当事者である妻も同席させてもらう。いいかな?」
刑事の問いかけに反応し、妻が少しだけ動いたように見えた。
「俺に、断る権利はないよ」
今のこの妻の前で、お前は嘘をつけるのか。お前は、語れるのか。
男は刑事に突きつけられた言葉のナイフを、そのまま受け入れた。
◇
男は眼の前の写真を指し、すっと矢印を書くようになぞった。
「トラックがこの軌道で突っ込んできて、横断歩道を渡ろうとしてた奥さんと俺を巻き込んだんだ」
刑事は男の写真と現場付近の地図を照らし合わせる。
「なるほどねえ。角を曲がって、そのまま直進。ずいぶんな勢いだったわけだ」
「ブレーキ痕みたいなのも無かったんだろ? ここらへんは、別に俺がなにか言わんでもわかってんじゃないのか?」
「なにせ、あの直後にみんな不死になって、それどころじゃなかったからね。まともな捜査なんてできやしなかった。今だって、僕が勝手にやってるだけさ」
「俺を全員で追うくらいなら、そっちに人を回したほうがいいと思うけどね。これだけ答えれば十分かな?」
「ああ。妻にもそっちにも過失はない。それがわかっただけで、救われたよ」
「でも、俺の証言なんて、使えるのか? 今の俺って、そういう立場じゃないだろ?」
「使えないねえ。みんな事故の真実より、君のことを気にしてしまう。こんなどうでもいい話をさせてる暇があるなら、なんで捕まえなかったんだって。ああ、想像するだけでイラっとする。だから、結局これは、自己満足な救いでしか無いのさ」
トントンと書類をまとめ、刑事はスマホでの録画を止める。
男の記憶の確かさは良い意味で予想外だった。おかげであの日の事故の内容はほぼ完璧に掴めた。
もしまともに捜査されていたら、トラックの運転手が全責任を追うことになっていただろう。妻と男には、なんの過失もなかった。
「そうか……俺もだ」
男もまた、刑事の救いという台詞に同意した。
「そんなに気にしてくれてたのかい?」
「ああ。アンタほどじゃないけどな。今となっちゃわからないけど、トラックが突っ込んできた瞬間、奥さんは俺になにか言ってたんだよ。慌てて、叫ぶ感じで」
男はじっと動かぬ刑事の妻を見る。
「奥さんに聞ければわかるんだろうけど、正直内容はどうでもいい。あの瞬間、奥さんは自分より俺を気にしてくれたんだ。それだけで、とんでもない恩義だ。自覚はないけど、あの時、なにか言われたから、俺は事故に巻き込まれなかったんじゃないか。そう思ってる」
男は、刑事の妻に深々と頭を下げる。
自分が事故に巻き込まれそうになった時、同じく巻き込まれそうになった他人のことを思える人間が、どれだけいるのだろうか。
そして思われたことは、どれだけ代えがたいことなのか。そんな相手に、一度しっかりと感謝を伝える。
この機会が与えられたのは、救いであった。
刑事は苦笑しつつ話す。
「なんだ。それならあんな派手な追いかけっこをしなくてもよかった」
「アレが無ければ、ここには来てないよ。あの追いかけっこの必死さがあったから、アンタを知ろうと思ったんだ」
「そうだね。派手な追いかけっこをして、謹慎を食らってなければ、今みたいなチャンスもなかっただろうし、僕はもっとギラついてた。ところでこれは、操作とは関係ない質問なんだが……あの夜の事故と、君が今、世界でほぼ唯一まともな身体でいられるのに、なにか関係はあるのかい?」
穏やかな空気の中に突如差し込まれた質問。思わず気軽に答えようとした男は、慌てて自らの口をふさぐ。
刑事の雰囲気は、男を追いかけていた時のもの、いや、それ以上の感情にまみれていた。
なぜお前だけ無事だったのか。お前はなぜ死ねるままなのか。なぜ妻は死のうにも死ねない体になってしまったのか。
疑問と怒り、この質問に気軽に答えるようならば、今ここで殺してやる。
刑事は本気でそう思っていた。
男もまた、真剣に答える。
「それは……一つずつ答えるわ。最初の事故で俺が助かったのは、偶然だ。奥さんのおかげとも思っているが、ここに不思議なことはない。それは今まで話した証言でわかってるだろ?」
「それはね。間違いない。君の証言に矛盾はなかったし、僕の気分も晴れた」
「次の一つっていうか、本題のなぜ俺だけ不死になってないのか。それは、わからない」
わからない。それが男の真正直な気持ちであり、怒りでもあった。
刑事は何も言わない。今度は刑事が、男の気迫に気圧されていた。
「皆が不死になった瞬間、事故にあっていたからか。なにか身体的条件があったのか。それとも、本当に奇跡的な偶然か。いくつか仮定を並べ立てられたことがあったけど、どれもしょせん仮定だったよ。断言できる証拠がないんだからな」
「なるほどねえ」
刑事の目が、一瞬本職に戻る。仮定が並べ立てられたことがある。つまり、彼が世界でほぼ唯一の死ねる男となってから、ちゃんとした会話を交わせるほどに親密な人間がいたというわけだ。いくら男が稀な人物であれども、ただ一人で、世界中から逃げ回るのは不可能だろう。
男は協力者の存在を漏らしたことに気づいているのか居ないのか、そのまま話し続けた。
「でもただ、そいつは言ってたよ。神様だか地球だか宇宙人だかの大いなる意志のせいでも、単なる偶然だとしても、お前がまともに怪我して年取って、まともに生き続けている限りは想定外だって。なら、ふざけた奴らに中指突き立てられるなら、ついこの間まで人がまともに生き死にできた世界の証になるのなら、逃げ続けて生き続けてやる、そう決めたんだ」
背中に、いきなり刀を差しこまれたような冷え。
刑事は理解する。両手両足を失い、意志も殆ど発することができなくなった妻は不幸だ。
だが、同じ事故にあいながら、両手両足を満足に残すこの男も不運である。
ただひとつ意志だけで、世界中を敵に回し十年間逃げ延びている。
意志には意志で対抗するしか無いと思っていた。だが、それでも刑事は負け、男はこうしてついさっきまで追っ手だった人間の前に堂々と現れて見せた。
この男の中で育ちに育った意志の怪物には、いかな不老不死の人類が束になろうと叶うまい。
もはや、狂気を宥められた刑事では叶うまい。これが男の狙いなのかどうなのかはわからないが、刑事はそう自覚した。
◇
刑事は静かなままの妻に手を当て、ゆっくりと語る。
「男を逃した僕は、刑事として失格。そう思うかい?」
包帯まみれの妻の口から、かすかな吐息が漏れる。
息は、刑事を責めているように思えなかった。
「ありがとう」
刑事はすべてを語り終えた男を、そのまま逃していた。
遠くからサイレンの音が聞こえ、喧騒も伝わってくる。きっと、誰かに見つかったのだろう。だがきっと、男を捕らえることはできまい。
刑事は鳴り始めたスマホの電源を切り、妻に今まで自身が勘違いしていたことを話す。
「僕は、いや僕たちは、彼を死ねる男と呼んでいたが、それは間違いだったんだ」
世界は勘違いをしていた。きっとこれに気づかない限り、誰も男の影を踏むことすらできないだろう。
「彼は死ねる男ではなく、生きている男だったんだ」
諦めようと思えば、すぐに終わることができる。鋭い刃物か首を括れそうな長さの縄があれば、それでいいのだから。
だが男は終わることを選ばず、ただひたすらに逃げ続けている。
それは生きるということなのではないか。
肉体的には不死であるが、ただあてもなく過ごしている死者の心持ちの人類とは違い、男は明確な意志の元に逃亡を選んでいる。
それは、この世界が失った、鮮烈な生ではないのか。
思えば、刑事自身も、男を追うことを活力としていた。多くの人間もそうだろう。
男を見つけた時、沈んだ人々の目には、生気とも狂気ともとれる炎が宿る。
生きる男を追うことで、世界にも火がつく。
彼が生きている限り、世界も生きている。これは決して、過言ではないだろう。
「ちょっと、羨ましいと思ったよ。どうせ暇だし、しばらくはこうして過ごそうか」
――うん。
十年以上聞いていない妻の声が、久々に聞こえた気がした。
きっと男を追うのを諦めたことで、刑事の炎は消えてしまったのだろう。
だが、この残り火を、憎悪以外の感情で使うことができれば。
男を追い続け、己を滾らせた死者にだけ許された贅沢。刑事はそんな贅沢を味わうことに決めた。
~了~
干物売り場に生鮮食品が混ざっているなんて 藤井 三打 @Fujii-sanda
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