刺し身と干物はどちらが売れるのか

 街中でいきなり銃撃された時から気づいていた。

 やむを得ずデパートに逃げ込んだ時には察していた。

 あの刑事はケタが違うと。自分を捕まえかねない存在だと。

 世界中の人間が、不死身を盾に追いかけてくる。

 ハッキリ言ってイカれた状況だが、そんな状況でずっと逃げ続けている男はそれ以上にイカれている。


 男は自分自身、頭がおかしいとわかっている。そして、常識や理屈の外で行きていると理解している。

 だから、わかってしまうのだ。あの刑事が自分と同じ常識や理屈の外へと足を踏み出しているのを。

 うっかりこちらが死んでしまっても構わないという理解、他者に目をくれない一途。自分にとって恐ろしいのは、あの類の人間だ。単なる恨みや怒りでは辿り着けない境地である。

 だが、いったい何がきっかけで、あの領域に至った?

 答えは、男が無理にデパートの外に飛び出そうとした時、明らかとなった。


「俺が知りたいのは、あの夜中の事故だ!」


 あの夜中の事故。

 聞いた瞬間、男の足が一瞬だけ躊躇した。逃げる際、逃亡の二文字以外を忘却する男が、余計なことを思い出してしまった。

 自身のミスを察した男は、迷いなく階段へと向かう。突破しようとした入り口には警備員の壁ができようとしていた。

 階段を駆け上りつつ、男は自分のミスと刑事の正体を反芻する。


「そうか、アイツはあの夜の、あの夜の事件を!」


 逃亡生活を続ける男にとって、忘れられない一件。いや、正確にはあの日の自分はまだ逃亡者ではなかった。

 夜中に事故にあい、運良く助かったところで、自分以外の人間が不死になっているのを知った。

 それから始まった、逃亡生活。生きるために逃げたことに悔いはないが、結果的にあの夜の事故に関しての証言は何も残さなかった。

 それどころではないを言い訳にして。あの事故に巻き込まれた三人、男以外の二人は半死半生、とうてい話せない状態だったと聞いている。

 おそらく今でも生きてはいるが、会話能力を取り戻してはいないだろう。この世界の不死は、前もって負ってた怪我まで治してくれるほど優しくない。



 こんな状況で、無事かつ唯一まともに話せる男が、事故に関して何も言わずに逃げ続けている。もしあの刑事があの事故の担当ならば、必死に追ってきて当然だ。

 だがあの刑事のプロ意識を否定するわけではないが、それくらいでああも見事に常識外となれるのか?

 さすがの男も、刑事が事故の被害者の一人、その伴侶であるという事実までは思い至らなかった。


 階段を数回駆け上がったところで、男はその階の雑踏に飛び込む。

 階段をただ駆け上がるのでは、直線を逃げているのと変わらない。

 なんとか脇道にそれて姿を隠し、考えを巡らせるだけの時間を確保せねば。

 背後の階段の手摺が銃撃にて吹き飛ぶ。

 考えを巡らせるだけの時間を確保できたとしても、それは数秒がよいところだ。

 男は自分の窮地を、改めて噛み締めた。


                    ◇


 男はこの階にいる。

 階段を上がった刑事は、ひと目で厄介な階に降りたと理解する。

 北海道特産品展の立て看板、実演販売のクリームパフェの明るさ、焼けた鮭とばから漂う香ばしい香り。

 そして、特産品を目当てにやってきた人の群れ。彼らを攻める気はまったくない。

 だが、この雑踏と喧騒は、男が逃げるのに都合が良すぎる。

 この変わらぬ日常の様子、おそらく先程の階段の銃声すら、多くの人の耳に入っていない。


 これはまずいことになった。雑踏に潜むか、雑踏を隠れ蓑に別の階段に向かうか、とにかく選択肢が多すぎる。

 そして何より、まだ近くにいるのはわかるが、刑事は男の背を見逃してしまった。

 群衆を力づくで押しのけるか? いいや、いくらなんでも人が多すぎる。砂山に手を突っ込んで掻き分けてもキリがない。

 銃を撃って散らすか? それこそ男の思うつぼだ。この群衆が混乱のまま蜘蛛の子を散らすように逃げるほど、どさくさ紛れに向いたシチュエーションはない。


 先程までは男が刑事に選択肢と謎を突きつけられていたが、一転今は、刑事が無数の選択肢に悩んでいる。悩んでいるとはいっても、まだ数秒しか経っていないが。

 だがその数秒の停止は、この状況下にて致命的だった。

 ゴン! と、鈍い痛みが刑事の頭を揺らす。手加減のない一撃、すぐに治るのはわかっているが、頭蓋骨にヒビが入っていてもおかしくない。

 刑事が振り向くより先に、再び入る一撃。崩れた刑事が目にしたのは、瓶サイズの木造を片手に握っている男であった。

 特産品のアイヌの木像。作った人間も、ここまで直截に人を殴ることに使われるだなんて、まったく頭をよぎらなかっただろう。


「拳銃相手に分が悪いどころの話じゃないが、あいにく持ち合わせだと……これぐらいしか!」


 勢い任せで使うのではなく、使うためにわざわざ金を払ったのか。そんな律儀な男は、ひざまずいた刑事の顔を靴裏で蹴り飛ばす。

 狙いは顎。ダメージではなく、意識を奪うための一撃である。

 ここに来て、一転して刑事を襲撃。不死の人間に怪我を負わす徒労を理解した、人の意識を奪うための暴力。

 現に出遅れた刑事は、男の思うままに気絶しかけている。流石に周りの人々も騒ぎ始めたが、この混乱が会場全体に伝播するにはまだ時間がある。

 おそらく、特産品展が大混乱に陥るまで、数十秒。

 刑事が少しでも意識を失えば、男は混乱を隠れ蓑に逃げ出してしまうだろう。


「それは都合がよすぎるねえ!」


 気絶しそうな時、踏みとどまるのに必要なものはなにか。

 それは意地である。

 刑事はしなだれかかるようなタックルで、男の足にしがみつく。

 二発目の蹴りを打とうとしていた男、刑事がすがりついたのは、軸となる片足である。


「うおっ……」


 捨て身の刑事ごと、後ろに倒れる男。刑事と男は、背後にあったスイーツ店のショーケースを破壊してしまった。

 ガラスが壊れる激しい音と従業員の悲鳴が、特産品展の混乱を加速させた。


「やってくれるじゃないか!」


「人の頭をいきなり殴る人間が言うセリフじゃないだろ」


 刑事は冷静なまま、男を引き倒し、マウントポジションまがいの姿勢に移行する。

 ガラスを浴び、顔を血で染めた男の顔面を刑事の拳が襲う。

 一発、二発、三発。殴るたびに、拳につく返り血。

 これこそが、男がいまだ不死でない証だ。


 力いっぱい顔面を殴られても、男の目が揺らぐことはなかった。

 男は身を捩り、刑事の下から逃れる。

 逃がすものかと追う刑事の喉に、めいいっぱいの甘みが突っ込まれた。


「もごっ!」


 刑事の喉に詰め込まれたのは、スイーツ店のケーキであった。先程、二人がショーケースを破壊した時に飛び散った品である。

 不死でも不死身でも、これは危険だ。刑事はそのことをよく知っている。

 喉に指を入れ、無理矢理にでも掻き出そうとした瞬間、男の一撃が刑事の肘を叩く。

 他愛のない力の抜けた一撃である。だがその一撃によりわずかに動いた腕は、かき出すはずのケーキを奥に圧してしまった。


「ぐぐぐ……があああ……」


 喉にケーキがつまり、刑事は嗚咽の声を漏らす。

 不死身である以上、息ができないことによる窒息死はなくとも、苦しみは変わらない。刑事も知るこの世界における苦しめ方だが、自分でやってみればなるほどやはり苦しいものである。


 うめく刑事の顎に、巨大な針で刺されたような鋭く太い一撃が刺さる。

 男の膝蹴りが、刑事の顎を叩いた。もしまともなままならば、顎の骨の全損は間違いなかっただろう。そんな一撃だ。

 そして顎への攻撃は、意識を奪う一撃である。

 膝蹴りの衝撃のまま、天を仰ぐ刑事。飛びそうな意識を、必死に押し止める。

 ここで男を逃してしまえば、次はどうなるものか。妻の事故の真相を、妻の無実を証明できるのはこの男だけなのに。

 そんな刑事の背を、バン! と身体中に響くような衝撃が襲う。

 前に倒れる刑事。そんな刑事を男は見下ろし、一言だけつぶやく。


「いつか話す」


 それだけ言って、男は人々の雑踏の中に身を投げ出す。

 混乱状態に陥っている、物産展。つまり、タイムリミットである。

 うつ伏せになった刑事は、大きな声とともにケーキを吐き出す。


「なにが、いつかだ……」


 逃げる男のセリフではない。そんな男の言ういつかなんて来るはずがない。

 きっとあの男は、デパートから逃げ出してしまうだろう。なにせ自分は動けない。

 息ができなかったことによる疲労感もある。だが、それ以上に、動く気がまったく起きないのだ。


 今の男の最後の一撃。ケーキを吐き出させるための背中への一撃がなければ、きっと自分は恨みも吐けなかっただろう。

 お目溢しなのか余裕なのか慈悲なのか。とにかく、途方も無い敗北感である。

 あの男は、人の心を折るのに長けている。この知識を、まさか体感することになるとは思わなかった。


 だが、まだ諦めない。いつかのために、あの男を捕まえなければ。

 動かない身体を動かすため、ただ心で叫ぶ。よろよろと、生まれたての獣のような遅さで立ち上がろうとする。

 そんな刑事を見かねたのか、それとも警備員が駆けつけたのか。

 誰かが支えとなり、刑事を助けようとしている。未だ虚ろな刑事は、それが誰なのかがわからない。姿形もおぼろに見える。

 ただその助けは、刑事にとって、すぐにでも振り払いたいぐらいの屈辱であった。


                    ◇


 後はもう雑魚である。

 強敵をのけた後に、思わず浮かんでくるセリフだが、このセリフほど甘やかな毒はない。

 強敵だろうが雑魚だろうが、相手が人である以上、油断をすればすぐにやられる。油断を招く毒である。


「後はもう、雑魚だったな」


 男の口からぽろりと溢れる言葉。今日だけは思わず口にしてしまった。

 それほどまでに、自分を追ってきた刑事は強敵だった。ああいうなりふり構わぬ人間ほど、怖いものはない。

 混乱に紛れ、上手く脱出したデパートを見上げる男。

 刑事が追ってこないのであれば、いくら厳重な包囲でもたいしたことはなかった。


 今頃、愉快犯として責められているであろう囮と、このデパートの混乱。

 おそらく今こそが、渋谷を脱出するタイミングである。

 男の協力者が用意してくれている隠れ家でしばらく休まなければ、いくらなんでも体力が持たない。


 しかし、男の足を重石が止める。この重石は物理的なものではない。心理的な重石である。


 「あの夜の事件」


 刑事は確かにこう言っていた。

 その名を出された以上、ただ逃げるわけには行かない。

 あの夜の交通事故について、自分はやって置かなければならないことと、言っておけばならないことがある。

 忘れてたわけではない。だが、放って置いたのは間違いない。

 言われた以上、一度しっかり直面せねばならないだろう。


 男はベンチに腰掛けると、深く重いため息をつく。

 これから命をかけた不合理に挑む以上、これぐらいのことはしておきたかった。

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