腐らぬ干物は刺し身より売れる
死ねる男が殺された。
SNSに投稿されたこの一報はすぐに広まっていき、その報せは当然警察にも届いた。
到着した警察官たちがいち早く駆けつけた野次馬たちの整理に手間取り現場検証に入れない中、既に二人の警察官が独自の捜査を始めていた。
「失礼」
ラブホテルの一室、扉を一発で蹴破った刑事は、呆然とするテレビスタッフたちに頭を下げ、次の部屋へと向かう。
きっと配信か生中継の準備中だったのだろう。中々手早い連中である。
「ちょっと、先輩。いくらなんでも」
「乱暴すぎる? でもね、いちいち捜査令状をなんてことをしてたら間に合わないからね。それに、あの男絡みの捜査なら、たいていのことは許される」
ついて来た後輩の静止も聞かず、刑事はただひたすらにラブホテルを巡回していく。
SNSを本当に確認したのかどうかもわからぬ早さで、刑事は現場に辿り着いた。その早さは、偶然一緒に行動していた後輩すら怪しむ早さであった。
だが刑事は、血まみれの道路を一瞥すると、現場を確保することなく現場を見下ろす位置にあるラブホテルに突入した。
おかげで今、ラブホテルの下、死ねる男が殺されたと思われる道は野次馬でごった返している。もし刑事たちが確保していれば、多少秩序は保てたはずだ。もっとも、ちゃんと確保していたとしても、どうせ多少でしか無い。
ならば、こうして現場周辺を回るほうが何か掴めるのでは。刑事が現場の確保を怠った理由は、おそらくこれだ。
そんな先輩思いな後輩の考えは、ドカドカととにかく荒い刑事の足音にかき消されていく。
何時もは飄々としているのに、いくら死ねる男相手とはいえ、入れ込みすぎている。後輩は刑事のブレーキとなることを試みる。
「部屋を開ける前に、せめてノックするとか。ほら、ここってラブホテルですし」
「こんな寂れたラブホテルにまともな客なんて……おや失礼」
またも扉を蹴破った刑事は、中にいた男女にちょっと丁寧な礼をした後、壊れかけの扉を無理やり閉め直す。
こんな遺産級のホテルでも、ちゃんとラブホテルとして使う人間がいるのだ。
「とにかく、こういう時には勢いが大事なんだよ。相手がとやかく言う前に、一気に用事を済ませ、さっと去る。マスコミなんて、とやかく言うのが商売みたいなもんだしね」
とやかく言わせない。なんだかその言葉は、言葉で刑事を静止しようとしている後輩にも向けられているように思えた。
刑事の足が、一回り大きな扉を蹴破る。いやもう、既にその足は、扉を直接蹴り壊す勢いであった。
部屋の中を見て、立ち止まる刑事。背後から覗き込んだ後輩が思わず声を上げる。
「まずいですよ! まずい!」
後輩は刑事を引っ張ろうとするものの、刑事はびくともしなかった。
部屋の中にいるのは、一糸まとわぬ姿の男性たちであった。部屋の定員の数倍の人数だ。
屈強な身体を縮こませるような慎ましさとともに、部屋のいたる所にいる。
いくら慎ましくとも、数が数である。部屋はほぼ全て硬い肌色で埋まっていた。
この肉の密度と状況。彼らがなんらかの人智の及ばぬマニアックなプレイに興じていると後輩が勘違いしたのも仕方のないことだ。
だが刑事は、この状況を見て、別のことを察していた。
刑事は近くに居た男性の肩を掴むと、無理やり自分の方に向けさせる。
じっと暫く観察した後、刑事は呟く。
「あの男にやられたね」
ビクリと振るえる男性。その怯えは、部屋に居た全裸たちに伝播していた。
「やられたって……」
「そういう意味じゃあないよ?」
意味深な台詞をつぶやこうとした後輩を、刑事はピシャリと叩く。
叩くなんてものではない。刑事の手は平手でなく拳、狙うのは頭でなく顎。
雑味のないストレートは、後輩の意識を容易く刈り取った。
「はふぅ」
「よっと」
後輩が気の抜けた声と共に気絶してすぐ、刑事は後輩に活を入れる。
「え? あれ?」
後輩が気を取り戻したところで、再度顎に刺さるストレート。
気絶する。起こす。気絶する。起こす。三度目の活を入れたところで、刑事はようやくその手を止めた。
意識を回復したところで、さすがの後輩も先輩である刑事にくってかかる。
「い、いったいなにをするんですか!」
「以前、死ねる男がやった手口がこれだよ。同じ手を使ったかはわからないけど、きっと似たようなことをしたはずだ」
刑事の言い方には、謝罪の意も罪悪感も、どちらも微塵もなかった。
「何度も気絶させ、何度も起こし、現実感覚を失わせつつ、敗北感をしつこく刻み込む。僕らは肉体が不死身でも、心はそうでないからね。死ねる男は、とにかくこちらを潰す方法に長けている。きっと彼らも、似たような目にあったに違いない」
僅かながらその手口を体感したことで、後輩は死ねる男の恐ろしさを思い知る。このようなことを多人数相手にやってみせたのか。
そして刑事は、何故死ねる男の手口を知っているのか。自分も警察に務めているが、このような詳しい手口は初耳だ。
後輩の恐れは、死ねる男と刑事に向けられていた。
そんなことなど気にも留めず、刑事は目の前の男性に質問する。
「大変だと思うけどね、これから聞く最低限のことに答えてくれると助かる。今見せたように、僕もあの男がやるようなことを知っているんだ」
もはやこの部屋の誰もが、刑事に逆らうことはできなかった。
◇
自分たちは単なる作業員であり、リーダーの号令のもと、死ねる男を殺しに来たこと。駅前で勝手に関所まがいの所業をしていたこと。この通りで死ねる男を取り囲んだこと。死ねる男に完膚なきまでに叩きのめされたこと。偽装工作を手伝わされたこと。服を奪われたこと。ここに押し込められたこと。リーダーがまだいいように使われていること。
そんな情報を引き出した刑事たちは、必死で死ねる男と、リーダーが足に使っているであろう白い軽トラを追う。
だが彼らが発見したのは、白い軽トラではなく、交通を妨げるほどの人混みであった。
「まさか、見つかったんですかね」
「いやいや。見つかってたら、これどころじゃないでしょ」
刑事は街灯を支えにし、ガードレールに飛び乗る。少し高くなった視点にて、輪の中心に何があるのかを捕らえた。
中心にあるのは探していた白い軽トラ。傍らで俯いているのは、男と一緒であるはずの作業員のリーダーだ。だが、男らしき姿はなかった。
刑事はガードレールから飛び降りると、後輩に指示を飛ばす。
「あの輪の中にいるのは、件のリーダーだね。随分と周りに攻められている。いったいなにがあったんだろうね」
デジタルではなく目の前の情報を追っていた刑事たちは、今現在ネット上でリーダーが不埒な自演の愉快犯だと思われていることを知らなかった。だが、今の状況が、あまりよろしくない状況。警察官ならば止めるべき状況であることはひと目で理解できた。
「後は頼むよ。僕は、死ねる男を追うから」
「え?」
後輩がとやかく言うより先に、刑事は死ねる男の追跡に入る。自分一人に任せるつもりなのか。せめて応援が来るまでは手伝ってほしい。このようなことをとやかく言わせないためには、やはり勢いが大事であった。
あそこで車を乗り捨てたとして、どこに動くのか。おそらく人の波に紛れ込んだのだろうが、詳しい行き先はわからない。
情報と推理を重ね合わせつつ、勘で方角を決め、あとは祈る。こんなもので見つかれば奇跡だが、ここで立ち止まってしまっては、奇跡すら起きない。とにかく早く動かねば。確信に近い焦りが、刑事の足を動かす。
奇跡は、動き続ける者の元に訪れた。
刑事の眠たそうな眼が、思い切り見開かれる。
人混みの中に、死ねる男はいた。ラブホテルでなんとか聞き出した、作業員から奪った服の情報。男は、その通りの服を着ていた。
いくら人が不死となった世界でも、警察官が拳銃を撃つ際にはそれなりの気遣いが求められる。
だが刑事の頭からは、そんな気遣いなど吹っ飛んでいた。
すぐさま懐から抜き放たれる、大型の拳銃。警告なしの銃撃が男を襲う。
だが銃弾は、急ぎ足で割り込んできた不幸なOLに当たってしまった。
銃の威力で吹き飛んだOLを確認するやいなや、標的である男は人混みに飛び込む。何が起こったのかなんて確認はしない、もしくはとにかく確認が早いのか。とにかく男は、スキなど見せずすぐに動いた。
銃弾が盾にされた形のカップルに当たってしまったところで、刑事は撃つのを諦め、自らの足で男を追う。
刑事の眼は、何事かと驚く人々や誤射の被害者にむけられることなど一切なく、ただひたすらに逃げる男の背に向けられていた。
死なない以上、後で謝れば済む。そんな甘えすら、今の刑事の中にはない。
ただ純粋に、男を追う。この一途さがなければ、きっと刑事は、いやこの世界の誰であろうと、男を捕まえることはできない。
なぜなら男は、逃げようとする一点において、世界で最も一途な存在なのだ。
”そいつを捕まえてくれ!”
”死ねる男が出たぞ!”
そんな叫びも上げず、刑事は男を追う。刑事は、他人の助けを求めなかった。
たった一人の男にとって、数は脅威である。だがその一方で、男にとって数は武器であった。
多数の中に疑念をばらまく。多数に紛れて逃げる。男は人の感情や思考を利用するやり方を知っていた。
現に、群衆がむしゃらに数で追っても追いつけず、集団で男を取り囲んだ連中は負け犬として躾けられてしまった。
個で生きる男を捕まえるには、同じくらいの個となるしかない。刑事はそう判断していた。
追われる男も、この男は数に頼らぬと察したのだろう。男はセールの広告が目立つデパートへと避難する。
「なんて厄介なヤツだよ」
刑事が思わず呟いてしまうほどに、男は厄介であった。
こちらが数に頼らない一人で追う人間だと理解して、デパートに飛び込んでみせた。
複数の入り口に、上階に地下もある建物。数がいれば複数の入り口も塞げるし、各階に人を配置できる。
だが一人では、これほど獲物を逃しやすい建物もない。しかも今日はセール中で人も多い。目くらましも十分だ。
方針転換すべきか否か。無秩序に頼るために叫ぶか、秩序立ててデパートや警察の人間に事情を説明して協力を求めるか。
刑事の前にあらわれた、多数の選択肢。だが、結局の所、選択肢は二つしか無い。
方針を変えて、数に頼るか。
方針を変えぬまま、一人で追うか。
すでに男は、人混みの向こうにいる。悩めば悩むほど、選択肢の先がどんどんか細くなっていく。
しかし、刑事に初めから迷いはなかった。
刑事は人混みごと突き飛ばす勢いでデパート内に足を踏み入れる。
実際、何人か転んでしまったが、そんなことはお構い無しで男を追う。
人混みを静かに抜ける男。その振り返った顔には、間違いなく驚きがあった。
なにせ街中で銃を振り回すような相手だ、人を突き飛ばすくらい、なんでもないだろう。
だがまさか、人混みを力づくで突破できるだけの力を、そんな力を躊躇せず振るえるほどに腹をくくっているとは。
男の驚いた顔は、そんな顔であった。
きっと、自分ほどの信念は持っていないと高をくくっていたのだろう。
十年近く逃げ延びれば、そうもなる。誰だってそうなる。
だが刑事には信念があった。悪いがこの信念だけは、男の十年に劣らない。いや、重いに決まっている。
十年前、人が不死になる前夜。刑事は妻の死を看取るはずだった。
◇
当時捜査中だった事件を放り投げ、病院に駆けつけるまでの記憶は定かでない。
思い出せるのは、手術室のランプの前で、妻の事故について担当の警察官から事情を聞いている時。その時からだ。
「奥様は、歩道を渡ろうとした際、対面から来た自転車と一緒にトラックにはねられたようです」
ただ妻をひたすらに心配する男から、事件を操作する刑事へ。警察官からの報告は、刑事のスイッチを自然に切り替えた。
「つまり、関係者は妻を含めて三人ってことかな。妻とトラックの運転手、それに自転車に乗ってた人」
「はい。トラックは奥様と自転車に乗っていた男性をはねた後、電柱に激突。もう治療は……」
「ああ。ウチの妻より、ヒドいことになってるんだ。まいったな、それじゃ話も聞けない」
現在この第一手術室では、刑事の妻の手術がおこなわれている。
生き延びられる確率は半々。無事な身体を取り戻せる確率は、0に極限まで近いパーセンテージ。
刑事は妻の負った怪我について詳しくは聞いていない。ただ、覚悟を求められた。
「現場は見通しの良い十字路。妻が信号無視をしたとは思えない。なにせ、彼女のことは僕がよく知っている。それでも、僕の主観だけで決めつけるわけにはいかないよね」
刑事は冷酷でも冷静でもない。ただひたすらに、自分の職業意識を現状に絡めているだけだ。
でなければ、すぐにでも取り乱して泣き叫んでしまうだろう。そして、死ぬ定めにある運転手をわざわざ殺しに行くだろう。
刑事は妻を、心底愛していた。
「自転車の人は?」
「それが……無傷だったようでして」
警察官は若干口ごもる。きっと、彼なりの気遣いなのだろう。
「それはよかった。トラックにはねられて無傷なのは、奇跡だ」
刑事は、妻の不運と男の幸運を受け入れた。
あまりにあっさりとしすぎていて、むしろ警察官は怪訝そうな顔をした。
「ん? いや、三人話せないんじゃ、事故のことが何もわからなくなるからね。一人だけの証言に寄り添うのは危険だけど、誰も居ないよりはきっといいはずだ。それに一人でも命が助かることは、喜ばしいしね」
「失礼しました」
この人は、自分たちに降り掛かった悲劇を、職務への意識で抑え込んでいる。幸運な男への恨みや妬み、もしかしたらその幸運な男が事故の原因なのではという先入観や不信も抑えている。
同じ職業に就く者として、警察官は敬礼をした。
「何もそんなすごいことは言ってないよ。たださっきも言ったけど、僕は妻を信じている。彼の証言が、僕の期待を裏切らないものだといいんだけど」
これからの捜査に、自分の願う救いがあってほしい、特に身内ならば。たとえ警察に属する者でも、そんな祈りくらいはゆるされるだろう。
そんな刑事の心境とこれからを捻じ曲げたのは、廊下の先から聞こえてきた悲鳴だった。
刑事と警察官は思わず目を合わせる。
「私が見てきます」
「いや。僕も行こう」
警察官の申し出を聞くより先に、刑事の足は動いていた。自然と警察官が付き従う形となる。
妻の元にいたいというのは当然ある。だがあの悲鳴は、尋常ではなかった。
転んだとか、ゴキブリを見たなんてものではない。
似た悲鳴を記憶から探る場合、刑事も目を背けたくなるような酷い事件からまず探し始める。それくらいの悲鳴だった。
駆けつけた刑事と警察官が目撃したのは、手術着のまま腰を抜かしている医者と気絶した看護婦。そして、開けっぴろげな第二手術室のドア。
「うぐぁ! がふぉ! げぶぅ!」
手術台の上では、下半身がすり潰され、半分以下の体しか残っていない男が血反吐とともに言語と呼べない音を喉から発していた。
無理もない。その喉も歪み、口も半分裂けている状態で声を発するなど無理に決まっている。
治すのではなく、苦しみを和らげるため、奇跡にかけるための手術。だが彼は、手遅れのはずのトラック運転手は、健康的と思えるほどに生き生きと死にかけていた。
手術室の中に居た医師や看護師の顔は、命を救うという奇跡をなし得た得意げな顔ではなく、目の前で何が起こったのかわからないという戸惑いしかない。
「なんだこりゃ……」
駆けつけた刑事も、呆けるしかなかった。
刑事が異常な光景を目にしたこの時こそが、地球上の全人類が死ねなくなった瞬間であった。
直後に起こった社会的な混乱。そしてこの事故で唯一無傷であった男こそ、この世界にてまともに怪我を負うことが出来、死ねる男であるという事実。
様々な混乱を前に、刑事の妻が巻き込まれた事故のことなど、あっさりと忘れ去られてしまった。
死にかけのまま生き続けなければならないという悲劇も、この世界ではありふれたものであった。
◇
十年前にあったある交通事故により、刑事の妻は人としての機能の大半を失い、その後、世界中の人々と同じように不死となった。
そして、その現場にいたもう一人の関係者が。いや、もう一人の被害者が、あの死ねる男である。
誰も言っていない、誰も気づいていないことではあるが。
おそらく、男が不死より逃れられた理由は、あの事故である。少なくとも刑事はそう確信していた。
妻と一緒に事故にあった男は、五体満足のまま不死の呪いや説明責任から逃れ、今に至っている。
あの事故の真相を妻は語れない。ならば、男から聞き出すしかない。
何故、死んだほうが楽な妻は死ねなくなり、五体満足な男は死を背負い逃げ続けているのか。この状況は正さねばならない。
謎がある以上、刑事として解かねばならない。
信念の数と重さでは、世界中に追われているあの男に負けない。
実際の勝ち負けではない。これぐらいのことを思えなければ、男の影すら踏めない。追手にとって、最低限の資格である。
刑事はひたすらに人をかき分け男を追う。何人か突き飛ばされて転んだ客もいるが、それもまた一つの狙いであった。
「お客様! お待ち下さい!」
刑事を追ってきた警備員が、力いっぱい刑事の肩を掴む。
事情を知らない人間目線では、刑事はただの無礼な不埒者である。
「待ってたよ」
「へ?」
そんな不埒者らしからぬ穏やかな声に思わず警備員の気が削がれ、その力も抜ける。
刑事は警備員の手を振り払うと、ひそひそ耳打ちするように事情を告げた。
刑事の手には身分を示す刑事手帳もあった。
「本当ですか?」
死ねる男を追っている。刑事にこう聞いた警備員は、刑事から逃げようとしている男の存在に気がついた。
「ああ。デパート中をひっくり返す騒ぎにはしたくないが、あいつを逃したくもないんでね。君はデパートの関係者に連絡して、出入り口を塞いでくれ」
それだけ言うと、刑事は男の追跡を再開する。
警備員は無線で何やら連絡している。全世界垂涎の獲物を前にして、慌てず職務を遂行する。中々に冷静で優秀な警備員だ。
警備員を捕まえるよりも、来てもらったほうが早い。無茶苦茶な話ではあるが、無茶な相手を追う以上、仕方のないことだ。むやみに数に頼る気はない。だが、使えるものは使わせてもらう。大事なのは信念と理屈の取捨選択だ。
粗雑なやり方ながら、これでデパートは封鎖できた。
後はスキを見て、後輩に現状を伝えればいい。
彼もまた、余計な感情を持たず、速やかにこのデパートの周囲を封鎖できるくらいには、優秀な警察官である。
男を追っていた刑事は、男の足取りが変わったことに気づく。そそくさと人の隙間を縫うのではなく、大股で多少強引になっている。
なるほど。きっと刑事と警備員のやり取りを見ていたのだろう。ならば、このデパートが封鎖されることにも気づくはずだ。
多少の無理は承知で、強引にデパートから出る気か。まだデパートに連絡は行き届いていない。
この先、デパートに閉じ込められるリスクを考えるなら、現状最良の一手である。
だが、そんなことを許すほどお人好しではない。刑事は自分が持つカードの中で、切り札とも言える一枚を切った。
「俺が知りたいのは、あの夜中の事故だ!」
僕という一人称や飄々とした雰囲気も捨てた、刑事の素の絶叫である。
夜中の事故と聞き、男の足が一瞬だけ鈍った。いつもなら追っ手の事情など一切気にしない男が、むしろ気にしていたら逃げ続けることのできない男が、始めて刑事がただの追っ手でないことを知り、その足を止めた。
相手の動揺を誘う決定的なカードとしてもっと後で切りたかったが、その効果は確かにあった。
男の足が止まったことにより、男と追う刑事の間の距離が僅かに縮まる。ほんの僅かな距離であるが、無理矢理の脱出に迷いを生じさせるには十分な距離である。その迷いにより勢いは落ち、更に複数人の警備員が、男の向かっていた出入り口の辺りに到達した。
これは無理だと悟った男は、階段へと向かう。上に行けばどん詰まりだが、これ以上平面を移動していてはすぐに捕まる。せめて立体移動で捕まるまでの時間を引き伸ばす。多少のミスがあっても、まだ男は一流の逃亡者であった。
刑事は男を追いつつ、さらなる執念を燃やす。
あの逃亡中は世界一の鉄面皮である男の心が、夜中の事故の一言で揺らいだ。
男の心を揺らがすだけの何かが、あの事故にはあったのだ。
男は秘密を抱えたまま逃げ続けている。その事実が、更に刑事の心を燃やす。
刑事として、夫として、秘密は暴かねばならない。
刑事の手は、いつでも拳銃を引き抜けるよう準備していた。
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