激震編 9話 油、醒ヶ井で、堀川の水Ⅰ 油小路の恋人
[1]
ー 元治二年一月十四日 暮六つ半(19:00頃)ー
藩邸が多いこの辺りは祇園や島原のような大きな花街と違い、灯りをつけた商い中の店が少ない。
夜になれば行き来する人の姿もまばらになってしまう。
その通りを寄り添って歩く男女。
伏せた長い睫毛が影を落とし、しっとりとした色香の猫が平助と指を絡ませ合う。
平助は絡めあった指を意識しながら白々と光る月を見上げた。
涼やかな瞳に僅かばかりの当惑を滲ませている。
すぐ斜め前には
……さすがに気恥ずかしい
「猫、もう少し離れて歩こう…… 」
苦笑しながら何度か繋いだ手を離そうと試みる。
「明日からしばらく逢われへんってこと、平助様はどない思ってはるん?…… 」
しっとりした雰囲気はどこへ消えたのか、いつもの勝ち気な猫に戻る。
「四月には帰ってくるって言っただろ…… 」
そう言って平助が笑みを見せる。
平助様の言うことを聞くつもりはあらへんわ……
拗ねたり甘えたり、果ては怒りながら指をさらに強く絡めた。
呆れ顔をしながらも微笑んでくれる平助に腹立たしい気持ちになる。
明日、平助様が江戸に発つ
砲術免許の残りの課程を勉強するためと隊士の募集のお仕事のためやと聞いてる……
せやから二人きりで過ごしたかったのに……ほんま、気ぃの利かん
平助が平助なら斎藤と新田も同罪や、猫は恨めし気に二人を見た。
江戸は……遠いわ
いつか世の中が落ち着いたら会津のお殿様も新選組も京にいる必要がなくなる。
そしたら平助様は江戸に帰ってしまう……その時こそ、もう京へは戻って来おへん。
そしたら……うちはどないするのか
……何も迷いはあらへん。
誰に反対されても、平助様に断られても、うちは一緒に行くって決めてる
せやけど……
話は二日ほど前に遡る。
ー 一月十二日 ー
巡察の後に一力を訪れた平助の身体に新しい傷を見つけた。
傷は浅く小さいものだったがまだ血が滲んでいる。
「……平助様、これ…… 」
「ああ……さっき 」平助が思い出すように「切っ先が少しかすっただけだよ 」
「少しって……まだ血が止まってないやない 」
焼酎で消毒をしてから、こういう時のために取り寄せた高い塗り薬を準備をする。
「……不逞浪士を見つけても殺さず捕縛することにした。
そちらのほうが難しいかもしれない 」
薬を塗る猫の手を止めるように自分の手を重ね、黙って先日の伊東の話を思い出していた。
[2]
ー 先日 ー
伊東先生から『巡察で不逞浪士を見つけて斬りあいになっても殺生するのはやめて頂きたい。
もちろん逃走されるなどはもってのほかですが。
必ず捕縛して番所へ引き渡すようにしてほしい』と隊士全員に通達があった。
「不逞浪士とは言うが……勤王の志の篤い者も多いというではありませんか。
そういう者たちを浪士というだけで斬り殺すなどは野蛮な行為。
諸君は正しいことをしていると胸を張れますか?
こんなことを続けていたら新選組は時代に取り残されてしまいます 」
そう言って優しい笑顔で問いかけるように皆を見回す。
もちろん、今までも相手がおとなしく連行されてくれればそのようにしていた。
でも……新選組だと分かるとだいたいの浪士は刀を向けてくるか逃走を図るか、そのどっちかだった
ほんの一瞬の迷いも許されない現場
自分の刀で相手が死んでも、それまでのこと。
そこには何の意味も無い……
逃走を防ぎ、部下や自分の身も守るには最上の手段だと割りきらなければ……そう思ってきた
殺さず、しかし逃がしてはならない。
捕縛一択に切り替えるなら少し手加減しなければいけなくなる。
その加減具合を間違えれば逃げられてしまうか、今日みたいに手傷を負うことになる。
それでも……伊東先生たっての希望とあれば従う。
新選組に新しい風を望んだのは自分だったのだから……
ただ……
平助は端正な面差しに憂いを浮かべた。
幹部の会議で事前に話し合ったことではなかった。
平隊士は新しい風が自分たちにとって都合がいいのか悪いのか、こそこそと見交わしあっているだけで問題はない。
が、突然の伊東先生の個人的な見解の通達に試衛館の人たちは納得がいかないだろう。
特に……黙って汗をかいている近藤先生と違い、土方さんは露骨に顔に出ていた。
それに気付かない伊東先生ではない。
俺のほうを見てお気に入りの扇子を忙しなく動かしている。
俺はわずかに頷いた。
これ以上は無いというくらい怖い顔の土方さんが新入り隊士達が怯えるほどの大きな音を立てて襖を開け放って出て行く。
俺もすぐに立ち上がり、伊東先生の考えを理解してもらうため土方さんの後を追った。
こっちの襖にも八つ当たりしたのか、建具が歪んでしまっている。
「……土方さん、よろしいですか? 藤堂です 」
返事が無いので壊れて閉めることができない襖の間から部屋を覗く。
例の脇息がものすごい勢いで飛んできた。
広間の襖と土方さんの私室の襖の建具に加えて脇息が後日修理に出された。
[3]
ー 一月十二日 ー
「猫……先に言っておく。
俺は過激派浪士を逃走させるつもりは無い。
それでいて殺さぬように手加減するとこんなふうに怪我をすることもある。
俺の仕事はそんなものだと思って心配しないでいてほしい…… 」
重ねた平助の手を払い、薬を丹念に塗り終えた猫が油紙を当ててサラシを巻いている。
「そうどすか。それやったら平助様も、うちのお座敷のことで妬かんといて 」
「……妬いたことなどないと思うが 」
「一回も?…… 」
「ああ、無い 」
「嘘……こないだのお座敷で近藤先生に妬いてはった 」
「そうだった……な 」平助がため息をつきかけてそのまま笑いだす。
こんなやり取りが明日も当たり前のようにあるとは限らへん……
平助様みたいに新選組の仕事に真面目に取り組むほど、その命は危険に晒される。
いつ平助様を失うかもしれないと思うと心配なんかせんでいられるわけないのに……
ほんまに憎らしい
でも……うちをそんな気持ちにさせてええのも、うちの仕事のことで妬いてええのんも、
この世でただ一人、藤堂平助様だけやから……
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