第37話 あぁ、これが恋というものなのか


 夜も更けた頃、月が昇りきり、暗い空を星々が飾っている。人々が寝静まっている中をツバキは歩く。宿舎を出て裏側に回って洗濯場へと向かう。誰もいない空間にふっと息を吐いた。


 今、ツバキは一人っきりだ。ロウにも「少し一人にさせてほしい」と言って抜け出している。同室のレイチェルはぐっすりと眠っていたので問題はないだろう。


 洗濯場の側に座って空を眺める。淡い月は黙ってツバキを見下ろしていて、少しばかり冷たさを感じた。



「どうしようかしら……」



 兄と元婚約者は迎えにきた。兄は傍観に徹するかもしれないけれど、ムサシの様子を見るに諦めてはいない。戻るなんて考えられなかった、裏切った男の元になど。


 はぁと溜息を吐く。視線を自身の足元へと向けて、ツバキは目を瞬かせた。そこにはパンプキンゴーストが立っていた。幼児ほどの大きさの彼はじぃっとツバキを見つめている。


 アリーチェの足元にいることが多いのだが、夜はゴーストたちが活動する時間だからだろうか。パンプキンゴーストは元気そうにひょこひょこ跳ねている。もしかしたら、夜はここで一人遊んでいたのかもしれない。



「ごめんなさいね、遊んでいた邪魔をして」



 そう謝るとパンプキンゴーストはふるふると首を振った。様子を見るに邪魔には思っていないようだ。ツバキの側に座ると彼はゆらゆらと揺れている。どうしたのかと言いたげに見えて、ツバキは「ちょっと色々とあったの」と話す。


 愚痴るように元婚約者のことを言って、ツバキはたま溜息をついた。何度、吐き出しても晴れない心に嫌気がさして。



「戻りたくはないのよ、戻りたくは。でもね、父上は戻ってきなさいって言っているの……」



 婚約破棄された時は家を出て行けなんて言って追い出したくせに、自分から家を出たら戻ってこいと言う。死に戻ってやり直したとはいえ、身勝手な親だなと思わなくもなかった。


 婚約者だったムサシもそうだ。別の女の元へと行ったというのに今更、「君一筋だ」などと言うのだから。どの面を下げてやってきた、その口で言うのかと怒りが込み上げてくる。


 けれど、戻ってこいと言う父の言葉が頭に木霊する。戻らなかったらどうなるだろうか、怒るのだろうか。


 ムサシと婚約するなど嫌だけれど、戻った方がいいのだろうか。イザークやレオナルド、レイチェルに面倒をかけるぐらいならば。



「……戻った方がいいのかしら」



 ツバキの紅玉のような瞳から涙がこぼれ落ちる。それを見たパンプキンゴーストは立ち上がって、慰めるように周囲をひょこひょこ跳ねる。ツバキは溢れる涙を拭うこともせずに、膝を抱えて俯いてしまった。


 膝に額を押し当てて静かに涙を流す。その様子を見てパンプキンゴーストは何をか思いついたように駆けていった。彼がいなくなったことにツバキは気づいていない。ただ、静かに泣いていた。


 あぁ、戻りたくはないな。戻って好きでもない人と一緒にいるなんて嫌だと心は破裂しそうに叫んでいる。


 どうして放っておいてくれないのだ、どうして裏切ったのに戻ってきたのだ。愛してもいないくせに、一筋だなんて言うのだ。


 声を殺して泣く、ぼろぼろと溢れる涙が止まることはない。ぎゅっと膝を抱えて怒りと悲しみを抑え込む。


 どれほどそうしていただろうか。ふと、何かの気配を感じた。



「ツバキ?」



 そう声がして、ツバキは顔を上げた。誰だろうかと見遣れば、イザークで。彼はツバキの涙を見て目を開き、慌てて駆け寄ってきた。



「どうした、ツバキ」

「……どうしてイザークがいるの?」

「パンプキンゴーストに呼ばれたんだ」



 イザークがツバキの疑問に答えれば、パンプキンゴーストがひょこりと顔を覗かせる。彼はツバキの様子を心配して人を呼びにいったらしい。気を遣わせてしまったのと同時に、こんな姿を見せてしまった申し訳なさに襲われた。


 涙を拭いながら「なんでもないのよ」と笑って見せるけれど、イザークの表情は険しいものだった。そんな顔を見るのは初めてだったからツバキは目を瞬かせる。


 気分を害してしまっただろうかと不安になってツバキが「大丈夫なのよ」と言った時だ、イザークは「大丈夫なわけがないだろう!」と声を張った。



「どこをどう見たら大丈夫に見えるんだ。こんなにも、こんなにも泣いて、悲しげにしている姿を見て」



 イザークはツバキの頬を伝う雫を拭う。涙は流れ落ちていて止まることを知らない。


 悲しげに泣いている。ツバキは言われて気づいた、自分は怒りよりも悲しんでいるのだと。どうして、悲しいのだろうか。戻らなければならないかもしれない、そう思ったからかもしれない。



「ツバキ、話してくれ」

「……戻ったほうがいいのかなって、そう、そう思ったのよ」



 戻りたくはないけれど、みんなに迷惑をかけてしまうかもしれない。戻らなくていいと言ってくれたけれど、負担にはなりたくなかった。だからと言葉を続けようとして、ツバキは抱きしめられた。


 優しく、けれど強く抱きしめられる。イザークに抱き止められて、ツバキは言葉を続けられなくなった。



「誰も負担になど思ってはいない」

「でっも、ね」

「レオナルドも、レイチェルもそんなことは言っていなかっただろう」



 二人はツバキの味方だ。話を聞いて、自分のように怒ったレイチェルも、相手の男の言動に呆れたレオナルドも戻る必要はないとはっきりと言った。負担になるなど二人は思ってはいない。



「俺だってそうだ、負担など思っていない」

「でもっ」

「ツバキ。キミが悲しみながら消えていくほうが辛いんだ」



 自分の気持ちを押し殺して、悲しみを持って皆のもとから去る。そのほうが辛いのだ、イザークは強く言った。



「戻りたくないのだろう?」



 イザークの問いにツバキは頷く、戻りたくはないと。それに彼は「なら、自分の意思を大事にしてくれ」と返した。



「自分を、ツバキ自身を大事にしてくれ。キミが何もかも我慢する必要はないんだ」



 自分を大事にしてくれという言葉が胸に響く。抱きしめられてイザークの表情は見えないけれど、彼の額が肩に当たったのを感じた。ぎゅっとまた強く抱きしめられる。



「ツバキが我慢する必要はない、消える必要もだ」



 震える声だった。悲しいのか、寂しいのか、それとも怒りなのか。それらが混じり合った声音だったように感じて。


 心配しているのだ、彼は。心配を、不安を、悲しさを和らげたくて、ツバキはイザークを抱き返す。優しく、あやすように頭を撫でる。



「私はいてもいいのかしら……」



 確かめるように涙で震える声で問うと、イザークは「当然だろう」と返した。はっきりとした言葉が耳に響く、ツバキはまた涙を流した。


 あぁ、きっと自分は彼と離れるのが悲しくて、嫌で。ツバキは気づいた、これはと。



「ありがとう、イザーク」



 共にいたいと、そう思った。これが、答えなのだと気づいたツバキはイザークのことを強く抱き返した。




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