Sky Fall

夜表 計

第1話 温もり

 そこは何千、何万もの十字架が鎖に繋がれ、この海岸から解放されずにいた。少年はその中の1つに背を預けていた。

 海から朱い髪の女性が少年に向かってゆっくりと歩み寄る。

「唯名。さようなら」

 女性は少年の胸に手を置く。

 少年は諦める。抵抗することを、戦うことを、願うことを。いや、この瞬間よりも前から少年は諦めていたのかもしれない。

 少年は目を閉じ思い出す。何も考えていなかったころを、命令にだけ従っていたころを。



 骨を砕き、肉を引きちぎり、口元から血を滴らせながら牛を食らう化け物が1体、食事をしていた。

「おい、剃刀。あんまり堕落者を傷つけるなよ、価値が下がるからな。行け」

 白髭を生やした男はカランコロンと鐘を鳴らし黒髪の少年に命令をする。剃刀と呼ばれた少年は、はいと感情なく答えると堕落者に歩み出す。

 獣のような頭部でギョロギョロと周囲を見回す目玉が少年を捉える。大木のような両腕を使って堕落者は少年に向き直る。肥大化している上半身とは異なり、その下半身は小さく不釣り合いだった。

 堕落者が両腕を使って跳躍し、その剛腕を振るう。その一瞬前、少年の顔から黒い泥のようなものが噴出し、顔全体を覆う。そして仮面のようなものに形が整うと右腕が剣へと変わる。

 堕落者の拳が当たる寸前、少年は体をひねりながら避け、その勢いのまま腕を切り落とす。全体の三分の一がなくなったことで堕落者はバランスを崩し倒れる。起き上がろうとするが、少年はすかさず背中から心臓へ右腕の剣を突き刺す。

 堕落者は小さな嗚咽を漏らし沈黙した。

「よくやった、帰るぞ、剃刀」

 白髭の男、八頭は鐘を一度鳴らす。少年の黒い仮面は泥に変わり皮膚に浸透し、右腕の剣はもとに戻る。

「錦、鹿島。後の処理は頼んだぞ」

 八頭は若い部下二人に指示を出すと少年を車に乗せ、走り去っていく。

 残された二人は堕落者の回収社が来るのを待つ。

「錦先輩、さっきのガキは何なんですか?」

「去年、ボスが連れてきたんだよ、いい番犬が手に入ったってな。ボスの予想通りいい犬だよ、従順で騒がない」

 錦はタバコに火を着け、煙を吐き出す。

「犬って、剃刀なんて変な名前ですし」

「あぁ、その名前な。それもボスが付けたんだよ。よく斬れる小さな剣だってな。いいセンスしてるよ、ボスは」

 錦はタバコを銜えながら笑う。

「ですけどさすがに気が引けませんか。あんなガキを戦わせるなんて」

「お前はお嬢と同じこと言うんだな。あいつは“両義”だぞ。堕ちきれなかった堕落者だ。半分はこいつと同じ化け物なんだよ」

 錦は息絶えた堕落者の腕を蹴る。

「ま、化け物でもうまく使えば、あいつは金のニワトリだ」

 鹿島は反論しようとしたが口を閉ざした。小さな偽善で腹を満たすことはできないことをこの男は知っていた。


「今日の依頼は牧場の一軒だけか」

 八頭は自分の事務所に戻るなり仕事の確認をする。

「おかえりなさい、お父さん。今日はさっきのだけみたい」

「チッ、もっと堕落者がでればいいもの」

「もう、平和が一番でしょ」

 毒付く八頭に娘のヨウコはあきれ気味に受け流す。

「あ、怪我してる。すぐに手当てするね」

 ヨウコは少年の額から流れた血の跡に気づく。先ほど戦った堕落者の拳を完全に躱しきれてはいなかったのだ。

「放っておけ、血は止まってる。剃刀、上に戻っていろ」

 八頭の命令に少年は返事をし、二階へ上がり屋根裏へ上る。

「あ、ちょっと―」

そこは狭く小さな空間だった。窓もない為、照らすのはヨウコが秘かに少年にあげた小さな電気スタンドだけだった。

 少年は薄汚れた布団に包まり、電気スタンドの光を見つめる。何も考えず、静かに小さな光を目に焼き付ける。時間を忘れたころ、タラップを上る音が聞こえ、少年はすぐにスタンドの電気を消し、隠す。

「剃刀、額の傷見せて」

 ヨウコが救急箱を持って屋根裏へと上がってきた。

「ヨウコさん…、オレは大丈夫です」

「私が勝手に心配してるだけだから、好きにさせて、ね」

 ヨウコは少年の目元まで隠れた髪をかき上げる。少年の左目とヨウコの視線がぶつかる。少年はすぐに目を伏せ、自身を見られないようにする。ヨウコはその仕草に少し笑う。

「君のカワイイところまた一つ知れた」

 ヨウコはそうはにかみながら、自分の髪留めで少年のかき上げた髪を留める。

 額の傷は浅く、血は止まっていたが、ヨウコは丁寧に手当てをする。

 テープでガーゼを留めると、ヨウコは少年を強く抱きしめた。

「ごめんね、ごめんね。いつか必ずここから一緒に逃げようね」

 ヨウコは僅かに震えながら小さく宣言するが、少年には『逃げる』ということが一体何なのかわからなかった。

「ヨウコ!帳簿はどこだ!」

 八頭の怒声でヨウコは我に返り、涙を拭うとそれあげる、そう言い残し下へ降りて行った。

「逃げる?にげる…」

 少年は考えるのを止め、布団に包まる。

「人間って、温かいこともあるんだね」

—そうだな、ワタシも初めて知った—

「抱きしめられるのって、すごくうれしいことなんだね」

—そうだな、ワタシも嬉しかった—

「なら、オレが君を抱きしめてあげるよ」

 少年はヨウコのように強く、そして優しく自身の体を抱きしめる。先ほどの温かさが戻ってきたのか自身の心が温かくなるのを感じ、少年は眠りについた。


 カランコロン。

 鐘の音が少年の耳に届く。少年は飛び起き、下へ飛び下りる。と、二階の床が爆ぜ、昼間に見た大木のような腕が見えた。

 崩れ落ちた床から一階へ降りると、そこは血で赤く染まっていた。

「剃刀!遅いぞ!やつを、堕落者を殺せ!ッゴフ、ゴフ」

 肋骨が数本肺に刺さり、息をするのも激痛が走るなか、八頭は少年に命令する。

 少年は八頭の部下を頭からむしり喰らう堕落者を見やる。昼間と似た姿をしていたが上半身と下半身の均整は整い、少しばかり体長も小さくなっていた。だが、明らかに昼間の堕落者よりも強い個体であることを少年は感じた。

「クソッ!錦め、やれ!ゴホッ、殺せ!」

 八頭は再度鐘を鳴らす。少年の顔から泥が噴出し、仮面を形成する。

 少年は走り、剣となった右腕で堕落者の首を撥ねようと振るうが堕落者は両腕でガードする。硬い感触が右腕に響く。

 堕落者が腕を振り上げる。少年は避けられないと判断し、後方に飛びながら右腕を盾にする。その一瞬後、衝撃が全身を貫き右腕が吹き飛び、肋骨は砕かれ肺をズタズタに引き裂いた。勢いは止まらず少年の体は壁に激突し、血が左目に入り、さらに視界を朱く染める。その視界の中で少年は瓦礫の下敷きになっている女性を見つけた。

「ヨウ—コ、さん」

 少年は左腕で這いながら瓦礫に埋もれるヨウコに近づく。血の気のなくなったヨウコの手に触れると言いようもない感覚が少年の全身を駆け巡る。

 死ぬ。少年はその感覚を知った。

—すまない、これもワタシのせいだな—

 ずっと少年に寄り添って、少年を見守り続けていたその声は悲痛な声で謝罪する。

 堕落者が少年の体を掴み、喰らおうとする。

—君はワタシの願いを望みを叶えてくれた。だから、これが最後のワタシの願いだ。どうか君の願いが見つかり、叶いますように—

 少年は叫ぶ、だが声は出ない。

 堕落者が少年を丸呑みにする。満足気に口の端を吊り上げた堕落者は一瞬にして苦悶の表情へと変わった。腹を抑え、苦痛に顔が歪む。

 腹を切り裂いて、両腕黒い剣で刃のような突起のついた黒い仮面の怪物が出てきた。

「ギャアアアアアアアアッ!」

 堕落者が叫び声をあげる。

 怪物の黒い仮面が口元で割れ、刃のような歯が見える。

「ア゛ア゛ア゛ア゛アァァァァッ!」

 堕落者の悲鳴は怪物の悲痛な叫びにかき消された。堕落者は血と内臓を零しながら、怪物へと襲い掛かる。

 その後は一方的だった。刃の通らなかった腕は豆腐を切るかのように簡単に切り落とされ、その巨体は一晩かけて小さく細切れにされた。

 そして、その場で生きているのは怪物ただ一人となった。

 割れた窓、崩れた壁から光が差し込み、惨状を克明に映し出す。

「民間の処理社に堕落者が出たって聞いて来てみたら、ひどい有様だね」

 入口だった場所に長い黒髪の女性が立っていた。

「堕落者でしょうか?」

 女性の後ろに控える男性二人は武器に手を添えながら警戒していた。

「いや、あの子は—」

 そう言いかけ、女性は怪物に近づく。両腕の剣の間合いに女性が入っても怪物は動かなかった。ただ一言だけ発する。

「だき、しめて…」

 怪物は懇願する。その声はあまりにも悲痛で孤独なものだった。

「いいよ」

 女性は返事と共に怪物を抱きしめる。その瞬間、黒い仮面は泥へと変わり、両腕の剣は年相応の子供の手に戻った。そして安心からか、疲労からか、はたまたその両方か少年は眠ってしまった。

「うん、人間だった」

 女性のその言葉に警戒していた二人は武器から手を離す。

「この子、うちに連れて行こうか」

 女性は少年を抱き上げ、車へ戻る。

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Sky Fall 夜表 計 @ReHUI_1169

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