赤いきつねと緑のクオリア
山南こはる
第1話
「僕の見ている緑が、君の見ている緑と同じだと思うかい?」
今思えば、何とも奇妙な出会いだったと思う。
あの時、僕たちは学生で、僕たちはふたりとも男で、そしてその後、僕たちは愛し合った。当時、僕には彼女がいたのだけれど、もうほとんど破局寸前で、彼が僕の目の前に現れた瞬間、そのふつうの男女交際はあっさり終わりを告げた。緑のたぬきの天ぷらを、先に入れるか後に入れるかという、とんでもなく些細な理由で。
僕は甘酸っぱい青春を終えて社会人になり、彼は相変わらずとなりにいて、そして僕たちはカップルになった。僕たちは今、ともに暮らしている。世間一般の人たちに、僕たちがどう見えているのかは分からない。でも今、僕は間違いなく幸せで、それは彼も同じだと思う。彼の感じている幸せが、僕の感じている幸せと同じかは分からないけれど。
「ただいま」
「おかえり。遅かったじゃないか」
「ああ。……ちょっと、いろいろあって」
機嫌が悪い。
何かあったのだろう、と思う。
時計の針は、もう少しで十一時になろうとしている。散らかった部屋と、脱ぎ散らかしたままの部屋着。僕も少し先に帰ってきたばかりで、家事は溜まったままだ。こういう時、自分たちはふたりとも男で、それは世間一般から見れば少し異質で、そして『男所帯にウジが湧く』という言葉を噛み締めずにはいられない。
「何か食べる?」
「軽く」
でも冷蔵庫には、何もないんだけど。
「カップ麺あるけど」
「それでいい」
彼はソファーにどかりと腰を下ろすと、ビジネスバッグからノートパソコンを取り出して起動させる。彼のメガネのレンズに、目がチカチカするようなデスクトップの光が反射している。腕まくりしたシャツ、乱暴に緩められたネクタイ。ゴツい腕時計をはめた筋肉質な腕に、シャツの首元からのぞく喉仏に、思わずどきりとしてしまう。
「どうした?」
「ううん、なんでも」
せめて着替えればいいのに。シャワーくらい、浴びればいいのに。
「悪い、コーヒーくれない?」
「はいはい」
僕はやかんに、コーヒーの分の水を注ぐ。一人暮らしには大きくて、でも二人暮らしには少しだけ小さいやかんは、並々とした水を蓄え、火にかけられる。
「何かあったの?」
「べつに、何も」
ウソ。
「……きつねとたぬき、どっち食べる?」
赤いきつねと緑のたぬき、とは訊かない。
彼のメガネの中に、鮮やかなデスクトップの光がまだかがやいていて、
「たぬき」
「そう言うと思った」
僕はキッチンに寄りかかってお湯が沸くのを待ち、彼の手がキーボードを叩く音に、耳を傾ける。
『僕の見ている緑が、君の見ている緑と同じだと思うかい?』
彼との世界に、色の話題は禁句だ。
実際、彼の見ている緑と、僕の見ている緑は違う。彼には色覚異常がある。彼の世界において、少なくとも色だけでは、きつねとたぬきの区別はつかないのだと、かつてボソリとそう言っていた。
やかんの口から蒸気が吹き出し始める。僕はカップ麺のフタを取り、スープの封を切る。別包装になった七味をぺりぺりと剥がし、無くさないようにフタの上に置く。
「またそれかよ」
僕と一緒に暮らしていなければ、彼は赤いきつねも緑のたぬきも食べなかっただろう。
「いいじゃない。好きなんだからさ」
赤いきつねと緑のたぬき。
僕からしたら何ともない、このキャッチフレーズ。それが嫌いで、赤と緑という言葉に、彼は世界から締め出された気がしたのだという。だから彼は、赤いきつねも緑のたぬきも食べなかったらしい。僕と暮らすまで、ただの一度も。
やかんの口がはげしく湯気を吹き出して、僕はやかんを火から下ろす。ドリップにセットしたコーヒー豆に、ゆっくりとお湯を注ぐ。彼がキーボードをカタカタやる音が響く中、カップ麺にも湯を入れる。
「天ぷら、後入れで頼むぞ」
「分かっているよ」
そうした方が天ぷらがサクサクしておいしいのだと、かつて付き合っていた彼女も言っていた。
右手のやかんを傾ける。きつねにはたっぷりのお湯をかけて。たぬきの天ぷらは取り出して、七味の小袋と並べて、フタの上に乗せておく。
タイマー、セット。きっかり三分。コーヒーの香りが漂うキッチンの中で、僕は改めてじっくりと彼の顔を見た。
きれいな顔だ、と思う。
悲しそうな目をしている、とも思う。
僕は流しに寄りかかったまま、彼のきれいな顔を見つめる。メガネには緑と赤の円グラフが映っていて、きっと彼の目には、その二色は同じに見えているのだろう。
「なあ」
「ん?」
「色の分かる世界って、どんな世界なんだ?」
タイマーが少しずつ数字を減らしていて、その間、彼はぽつぽつと今日の出来事を話しはじめる。同僚の顔色が悪いというのが理解できなかったこと。同僚が広げていた弁当の彩りが分からなかったこと。なるべく自然を装って、何気なく周囲の話に身を任せたこと。いつも通りの話。赤と緑の見分けがつかない彼の、いつもと何ら変わりないはずの、日常。
僕は目をつむる。そして想像する。濁った色彩の世界を。同僚の弁当箱の色も、彼女のネイルやリップの色も。机の上に転がる二色のボールペンの色も、ネクタイの色も、付箋の色も、円グラフの色も、何もかもが他の人と違って見える世界。
世界から爪弾きにされたような気分。
だから彼は今、苛立っている。
コーヒーの匂いに呼び出されて、僕は濁った色彩の世界から蘇る。淹れたばかりのコーヒーを渡してやると、彼はやっと表情を緩めてくれて、
「……ありがとう」
きれいな目をしている。
この目が、この瞳が、ほんとうに自分と同じ色を見られないだなんて、にわかには信じられない。
「……何だよ?」
「べつに」
タイマーが鳴って、僕はきつねとたぬきの封を剥がす。食べごろになった麺の上に天ぷらを乗せると、天ぷらはたちまち汁を吸ってふやけはじめる。
「はい」
「さんきゅ」
たぬきを受け取った彼の手は、骨張っていて、大きくて優しくて、それでいて温かい。
緑のたぬき。彼の目に、その緑が何色に映っているのか、僕には分からないけれど。
でも彼が、うどんよりそば派なのを、僕はちゃんと知っている。それだけで、十分だと思う。
「うまいな」
「でしょ?」
彼の右手の箸が、天ぷらを汁の中に沈めている。その箸の先が麺をつまみ、そしてズルズルと啜るたびに、彼の表情は、少しずつ溶けていく。
赤いきつねと緑のたぬき。
その言葉の意味が分からなくとも、たとえ世界から爪弾きにされたとしても、
「何笑ってんだよ。お前、さっきから気持ち悪いぞ」
「ううん、何でもないんだ。何でも」
僕と君が見ている世界は違うのかもしれないけれど、それでも今、君と食べているこの麺の旨さは、きっと同じものなのだと思う。
それだけで、僕たちはもう、同じ幸せの中にいるはずだ。
赤いきつねと緑のクオリア 山南こはる @kuonkazami
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます