2話
老婆は、しばらくの間、ぼんやりと、眼の前にひろがっている暗黒を見つめていたが、やがて、何かに憑かれたような、もの凄い顔つきをして、死骸の傍へ引き返した。死骸は、まだ、少しばかりのこっていて、その中から、長い髪の毛を一本引き抜いて、それを火の中へ投げ込んだ。
「何とまあ、恐ろしい事をするものだわいの。」
老婆は、息でも切れるような声で呟つぶやいた。同時に、彼女は、また、自分のした事に気がついて、ひどく恐縮の度をましたらしい。今度は、わざと平気な顔をして、ゆっくり、丁寧に、死骸から着物を一枚ずつ剥いでゆく。けれども、しまいに、もうこれで大丈夫だと思った時になって、ふっと不安になったらしく、最後の下着だけは残したまま、すぐ門の外へ出て、闇夜の中へ立ち去った。
それから後の事は、別に記すほどの事もない。家主の家来たちは、その後、八方捜さがしたが、つい、この女の行先は分らなかった。中には、わざわざ京都の方へ出かけて行って、京都の警察へ届け出たものもあったが、何の手掛りも得られなかった。もっとも、この事件については、いろいろ不思議な事があった。まず第一は、あの老婆が、なぜ、あんな時刻に、家の内にいたのかと云う問題である。もし、あれが泥棒であったなら、何も、人の寝静まるのを待って、忍び込む必要はなかろう。それとも、向うの棟に住んでいて、裏の勝手口から、こっそり忍んで来たのであろうか。またあるいは、どこかで、一晩明してから、翌朝早く、出て来たのかも知れない。ところが、老婆は、どこから見ても、宅の女中の服装をしていたそうである。次にはまた、どうして老婆が、門から脱け出したのかという問題もある。これもまた不思議であるが、どうも、その晩は、風が強かったらしい。そのために、だれかしらないが、門を押しあけたまま、釘を打ち込んで置かなかったのだろう。最後に、老婆が、いつ着物を脱いだかの問題が残る。これは、後になってから、死体を発見したものが、調べた結果、判明した事だが、老婆は、着更えをした様子もなく、ずっと、裸のまま、死骸の上に横たわっていた。
こんないろいろな出来事が、みんな不審に思われたけれども、一番あとに残った問題は、下人が、死骸の傍に残して置いて行った太刀についてである。この刀は、もとは主人のものに違いないが、しかし、持ち主はとうに死んでしまっている。下人も、これを承知していたに相違ない。だから、下人は、この屍骸を、斬って棄てるつもりだったかも知れぬ。――門の下に、大きな血溜が出来ていたところから見ても、そう考える方が自然ではないか。それにもかかわらず、その死骸を斬り損ねたのはなぜか。これは、今でもなお、探偵たちの間に大きな謎になっている。
羅生門のその後 kernel_yu @kernel_yu
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