四_075 本の海の中で
「こういう気分だったんだな」
深く息を吐いて、大きく伸びをする。
「あてもなく待つのって」
「ノエチェゼのこと? 反省してよね」
見ていた本から目を離して首を回すヤマトに、近くのアスカは顔を上げることもなく応じた。
「勝手に飛び出してってどんだけ心配させんだか」
「悪かったよ」
謝る。これについては謝るしかない。
ノエチェゼで喧嘩をして離れ離れになった時、アスカ達がどういう心境で待ち、探していたのか。
ヤマトは森で迷子になって祖母に心配をかけたこともある。
反省した。今さらだけれど。
「お前、よく落ち着いてるな」
正直なところ、ヤマトは目を通している内容の半分も頭に入ってこない。
不安な気持ちがふらふらと思考を迷わせ、集中して読めない。ただでさえまだ読みなれない文字なのに。
「誰かさんのせいで経験あるし」
耳が痛い。
「それに」
ようやく顔を上げた妹の口からも溜息が漏れた。
「フィフがそう言ったんだったら、とりあえずどうしようもないでしょ」
「……まあな」
どうしようもない。動きようがない。
何をすればいいのかわからないヤマト達に届けられた伝言。
――俺の身に危険はない。このままでいい。
バナラゴはフィフジャに会うことが出来たのだと言った。
怪我はなく、食事もなにも生活に不自由はしていなかったと。
また十日後に面会の約束も取り付け、少なくとも黄の樹園でフィフジャが明日にでも殺されるようなことはないと言われた。
――無茶をされる方が困る。出来れば町を出るように。
バナラゴから伝えられた言葉を聞いて、やはりフィフジャ本人からだと思った。
出来れば、と。
物理的に可能ならという意味ではなく、心情的にヤマト達が素直に聞くと考えなかったのだろう。
言っても聞かないだろうが。そんなフィフジャの溜息も感じられる伝言。
無論、素直にそうしようなどとは言わない。
十日後にバナラゴが会うのなら同行できないものか。居場所がわかるのなら助け出す手段を探す。
今は、無茶は出来ない。
「お前、落ち着いてるな」
時間が出来たのだから、どうするか。
黄の樹園に近付くのは危険だ。敵の領域で、その中では治癒術士の権限が強い。
衛士に命じてヤマト達を捕らえることだって出来るだろう。
黄の樹園の外では、そこまで無法な行いは出来ない様子。
教会周辺で人目がある場所でなら、その場の警備の衛士もいる。彼らは治癒術士の部下ではない。
治癒術士の非常識な行いで巡礼者などと揉めることもあって、そうした場合に衛士は治癒術士を宥め抑える役割もするらしい。滅多に表に出てこないという話でもある。
書殿を訪れることはほとんどない。
それこそ書殿には衛士もいるし、格子の嵌まった窓を除けば出入り口は正面大扉の一つしかない。
差し当たり、当初の予定通り書殿で調べ物をすることにした。
ここで治癒術士と争うことはないだろう。
「焦ったってどうしようもないじゃない」
言う通りなのだが、感情を理性で制御出来ていることが気になったのだ。
アスカが愚鈍で短慮というわけではないけれど。
我が侭なのだ。祖父母や両親はアスカのことを可愛がったし、要領のいいアスカは大抵のことをうまくやれた。
これまでの人生で思い通りにならないことが少なかった。だから我が侭。
ノエチェゼで赤い怪盗なんてやっていたのは兄とはぐれた不安からだとして、今はどうなのだろうか。
自分の思い通りにならないことを、ただそのままにしておける性格ではない。
やりたいことを諦めるような性分ではないと知っている。
「やるからには、確実に勝つ」
つまらなそうに言ってから、ふんっと笑った。
「そういうもんでしょ。イダ森林流は」
「……そうだな」
アスカの指が軽く叩いた本は、サナヘレムスの町の歴史が書かれたもの。
町の造りや文化もわかるし、治癒術士の功績として書かれた歴史的事実もあった。
参考になる。
知識は武器になる。
「敵の生態を知るのは基本じゃん」
森で獣を狩るのと同じ。
新しく見た知らない生き物で、教導区という不慣れな環境。それらの情報を集めていた。
諦めてなどいない。
アスカが諦めるはずもなく、その準備期間として冷静に見定めている。
間違っても、フィフジャの言うように自分たちだけ逃げ出そうなどいう考えもない。
やる。
やるからには絶対に勝つ。
森で生きるにしても、町で生きるにしても。得られる知識は何でも吸収し、その情報を活かして目的を果たす。
「おかえり、大丈夫だった?」
「ん、グレイうんちした」
「ありがと」
グレイを連れて戻ってきたクックラが、卓に向かって彼女が読めそうな本の続きを読み始めた。
建物の中には、ヤマトたちの他にはだれもいない。入り口に衛士が数名立っているだけ。
書殿にもトイレはある。
水洗式というか、常に排水用の水が流れている溝があるトイレ。
お尻を拭くのは伊田家でもお馴染みだった広葉樹の葉だ。年中枯れないこの木は世界中に生えているということだから問題ない。
お尻を拭いた葉っぱも排水溝に流してしまうと、サナヘレムスの町の下水路を通り町の外に流れていく。
そういえばノエチェゼもそんな風だったが、他の町も基本はこのサナヘレムスを模して造られたものが多いらしい。
書物の中に書いてあった。
「右奥の小さな階段から奥の棚に、もっと古そうな本がありました」
「とりあえずこれだね」
イルミとニネッタが、それぞれ分厚い本を手に戻ってくる。
二人もヤマトたちに協力してくれていて、まだ読めない文字なども手伝ってもらっていた。
「ありがと。大体どうしてこんなにバラバラなんだか。中も迷路みたいだし」
ぼやくアスカの気持ちはわかる。
書殿は世界で最も多くの本を集めた建物。
それだけの書籍を収めてまだ余るほどの空間と、棚が足りずに継ぎ接ぎしていったような階段と二階や三階など。
あちこちにある階段や梯子が、同じ二階でも別の場所に繋がっている。まさに迷路だ。
「本棚を増設しすぎて、もう誰も整頓できないんじゃないかしら」
イルミの返答が正解だと思う。
百年では足りない年月を積み上げたこの内部を、誰も管理しきれない。
するつもりもないのか。
「だけど」
ヤマトに疑問が浮かんだ。
「それだと本が傷んでダメになっちゃうんじゃ?」
虫が食ったりすることもあるし、まるで開かれずに何十年も経つと、湿気などのせいで紙同士がひっついたりしてしまうのでは。
「神々の時代の本は劣化しないんですよ」
今度はヤマトの疑問に答えるイルミ。
道路の舗装や大聖堂などの建物もそうなのだから、そんな便利な材質の本があってもいいのか。
「書殿の中は、そもそも紙が傷まないよう神の祈りが刻まれているとも言われていますね」
風呂のお湯を沸かす永久機関のように、物の経年劣化を防ぐ技術もある。
だから世界中の本をここに集めているのかもしれない。
そういえば空調も効いているのだろうか。初夏で天気は悪くないけれどあまり暑くない。
「読んだりすれば擦り減ったり破れたりするんじゃないの?」
場合によっては飲み物を零したり。
屋内は飲食禁止なのだけれど、読んでいる人がくしゃみをしたりもするだろう。
「見習いの聖職者や衛士が書き写したりしているんだよ。修練研鑽の一環でね」
今度はニネッタが教えてくれた。
神々の時代の本ではないものについては、見習いの勉強のついでに写本させている。
「余った本は売り出されることもある。と言っても本を買うのは金持ちの道楽だ」
製紙も製本も手作業となれば本など高級品になってしまう。
そこらの庶民が簡単に買えるようなものではない。
識字率の低さもあるが、供給も需要も少ないのは当たり前だった。
地球の歴史でだって、紙による情報のやりとりが容易く行われるようになったのは相当に文明が進歩してからのこと。
竹簡や木簡で他者に伝えていた時代も長い。
平安時代に貴族階級が手紙で唄などを伝え合ったというのも、文化人として時代の最先端という恰好もあったのではないか。
電話から進化した携帯電話が普及して、メールやインターネットというサービスが当たり前になったのはつい最近の急速な変化。
ヤマトはその文明を直接知らないが、家で読んだ本の登場人物たちは、それらがある生活がごく普通の日常だった。
きっと両親たちにとっても見慣れた日常。
だけどヤマトにとっては、見知らぬ世界。
「とにかく、さっさと読む」
ぼうっとしているヤマトをアスカが急かした。
「どこに手掛かりがあるかわからないんだから、ぜぇんぶ読まなきゃならないかもしれないのよ」
「うげぇ」
休んでいる暇などない、と。
さすがに全部は言い過ぎだが、本の海の中でどこに使える情報が眠っているかわからない。
それらしい表題のついた本を探し、あるいは題もない本の数頁をめくってみて、手掛かりになりそうなものを読み込む。
そんな作業の繰り返しを、既に三日。
町にはある程度詳しくなったが、情報が多すぎて混乱しているところもある。
日本史を三日で詰め込んでいるような。
使えそうな箇所を見つけたらアスカと共有して、また違う本を探す。
「これは……」
イルミが声を漏らした。
「衛士の記録帳、かしら?」
自分の読んでいた本に少し飽いていたこともあり、興味を移す。
古い衛士の記録。
「年代は四百年以上前になっているから」
「深緑卿の御苑周辺の記録?」
表に題はなく、最初の数行にそれらしいことが書いてあった。
イルミがなぜこれを選んで持ってきたのか知らないが、そういえば深緑卿の御苑に関する記述は少ない。
特筆することがないから、とも思ったが。
「警備の必要が発生した為、ここに記す」
書き出しはそんな風だった。
「願わくば何も起きぬよう。永劫の眠りから怒れる聖霊の目覚めなどないよう祈りつつ」
随分と畏れている様子だが。
「聖霊って、精霊種とは違うの?」
「神の魂そのもの、と言われますけど」
初めて目にする言葉をイルミに訊ねたが、イルミの方もぼんやりとした認識しかない。
読み進めていったが、本当にただの警備日誌のようだった。
夏四旬の四日、異常なし。秋二旬の十日、子供が奥から帰らぬと通報があったが町の方にいた。異常なし。
何となくわかるのは、深緑卿の御苑も外周付近の出入りについては許されているのかな、とか。
それと、警戒しているのは侵入者ではない。
御苑奥から何かが出てくることを。
内容が似たり寄ったりになってパラパラとめくっていくイルミが、最後の方で手を止めた。
数年後、特別警戒の終わりを示す文章に添えて。
「依頼するべきではなかった?」
ただの業務報告ではなく、後悔を書き綴っている。
「声は止んだが、これで良かったのか。聖下の命とは言え余所者を立ち入らせるべきではなかったのではないか」
書いているのは当時の衛士長らしい。
声。
深緑卿の御苑には太古からのお化けがいるとかなんとか。
ただの怪談話だと思っていたヤマトだが、やや寒気を覚える。まさか衛士長が記録に法螺話を書くはずもない。
事実として何か声が聞こえていて、それをどうにかする為に誰かが御苑奥に入った。
そしておそらく戻らなかった。だから警戒している。
悪いものを呼び起こしてしまっていないか、と。
「うん?」
不意に声を上げたニネッタに、びくっと振り向いてしまった。
「ああ、申し訳ないね」
ヤマトを驚かせてしまったと謝るニネッタは、別の本に目を通している。
「あ、ううん。なんでも……どうかしたの?」
ビビッていた自分を誤魔化すように訊ねて、ニネッタの手にある本に目を向けた。
装丁が違う。
紙質が違う。
古いようには見えない。真っ白な紙で随分と新しいようにも見えるし、不思議な印象のもの。
「いや……落書き、なのか」
「落書き?」
そんな馬鹿なことをする者がいるのだろうか。こんな綺麗な本に。
覗いてみると、最後の余白部分に明らかに後から書き足したような文言があった。
女性の文字に見えるが。
「……裏切り者は、私」
他の書物と違う、滑らかで真っ白な余白に。
殴り書きのように書かれた言葉は、許しを請う懺悔のようだった。
◆ ◇ ◆
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