四_048 隠し道の虫の知らせ
サナヘレムスには勝手に入ってはいけない場所がある。他人のプライベート空間とかそういうことではなく、公共的な施設で。
書殿もそう。黄の樹園も余人が入ってはいけないのだと。もう一つ、深緑卿の御苑。
中央礼拝堂ポルタポエナの東に大きな区画を取っている衛士や聖職者見習いの居住区。その居住区中央から町の北にはみ出すまで、森がある。
町の中に森があるというのも妙な話だが、実際にそう表現するしかないほど緑多い場所だという。
深緑卿の御苑。
迂闊に入って迷う者が多いことと、深緑卿が住む場所を騒がしくするのはいけない、とも。
誰なのかと言えば、実在が確認されている精霊種の一つ。見たという人は少ないが嘘ではないのだとイルミーノラークが言っていた。
「偽りや悪事を重ねると、ヘレムが回す糸車から離れてしまうんですよ」
女神の糸車というのが輪廻とかそういうものを表しているらしい。
紡がれた糸が世界を作り、零れ落ちた糸くずがまた紡がれて世界に戻っていくのだとか。離れたら紡がれなくなってしまう。
精霊種というのに興味も抱くアスカだが。
(いくらなんでも、それは怖いかな)
人間と精神構造が大きく違うと言われる精霊種だ。面白半分で覗くのはリスクが高すぎる。
これまで会ってきた妖魔だって、人間が対処するには難しいレベルの生き物だった。精霊種ともなればそれを上回ることも考えられる。
ヤマトやフィフジャにも言った。精霊種と関ったりしません、と。
信用されていない。こんな宣言が必要だなんて。
偽りや悪事はいけないと言うのに、こういうのは良いのだろうか。
大聖堂は進入禁止区域ではないらしいけれど、隠し通路から入るというのは違うような気がする。
コカロコ大司教の管理区域の建物はドアが少ないし、施錠もされていないものが多い。悪いことをする人などいないと言うけれど。
数十と並ぶ同じような建物、部屋がいくつもある中で、イルミが案内してくれた一室。
やはり他と同じように長椅子が並んでいる。
それらは並べてあるのではなく床に固定されていて、整然と揃った状態だ。
「うん、しょっと」
その一つをイルミが押すと、ずずっと横にずれていった。
「……」
フィフジャの口が開くけれど言葉は出てこない。
椅子がずれて隣の椅子とぶつかる直前で止まった。長椅子があった床に地下への下り道が現れて、呆気に取られている。
息を潜めていって、様子がまずそうだったら引き返そうということになった。
「あんな隠し階段、どうやって見つけたの?」
「教えてもらったの」
イルミにこれを教えた者は、どうやってこれを知ったのか。彼女に聞いても知らないだろうが。
悪い友達がいるんじゃないかと心配になってしまう。
灯りを忘れたという彼女にアスカが懐中電灯を見せると、たいそう驚いて目を丸くする。
「魔導具?」
「そういう感じ、かな」
貴重品だから秘密にしてと言うと、素直に頷いていた。イルミの様子ならあれこれ心配しなくてもよさそうだ。
長椅子の奥行分の幅しかない隠し通路なので狭いかと思ったが、降りてしまえば少し広くなっている。
蜘蛛の巣の類がいっぱいではないかと思ったが、意外とそういうものはなかった。
小さな虫は隙間にいるのだけれど。
「フィフ、こういうの知ってた?」
「噂話くらい、だな」
古い町なら秘密の道などの噂くらいはあるのかもしれない。実物を目にする機会はなくとも。
「……道が分かれているけど?」
先頭を進むヤマトが立ち止る。イルミの案内だとはいえ、暗い通路を女の子を先頭に歩かせるわけにはいかない。
「その先は書殿です」
「そうなの?」
なんだ、じゃあ許可なしでも入れるじゃないか、とか。
「でも、本棚の裏みたいで重くて動きません」
「そっか」
思い通りにならないものだ。
本棚の裏の隠し扉。
どういう目的でこの道が作られたのか知らないけれど、本棚が重くて動かないのでは意味がない。
「開ける仕掛けとか、何かあるんじゃない? 通れない隠し通路なんて作る必要がないんだし」
「そうかもしれないけど、暗くてよく見えなかったから……」
蝋燭などの灯りでは周囲の様子がはっきり見えなかった。
今なら、LED懐中電灯の明かりがある。これなら見えるのでは。
同じことを思った様子のイルミと顔を合わせて頷くと、フィフジャとヤマトが少し肩を落とすのを感じた。
クックラとグレイは庭で待っている。というか休んでいる。
休憩していてというアスカに、うんと頷くクックラだったが、その手はいつまでも木板を炭棒でなぞっていた。少しでも早く文字を覚えたいのか。
ひたむきな様子にそれ以上は言わず、グレイに見ていてもらうよう頼んだ。
「中に入るのは無しだ、アスカ」
「わかってるってば」
許可を得られるように頼んでいるのに、無許可で勝手なことをするのはよくない。
コカロコ大司教にも迷惑をかけることになる。罰せられる可能性だってある。
暗いせいか、ただでさえ長い距離を余計に長く感じる。
「イルミはこの通路を一人で歩いたの?」
蝋燭の灯りを頼りに、こんな場所を少女一人で歩けるだろうか。
「ううん、教えてくれた人と」
「誰?」
ふとイルミが立ち止り、首を傾げた。
「……知らない」
何を言っているのだろうかこの子は。
「名前は知らない。そうね、誰だったのかしら」
そういう意味か。それもおかしいけれど。
見ず知らずの誰かとこんな暗い場所を歩くなんて、気が知れない。
「男?」
「うん、男の子だった。あれ、たぶん男の子なんだと思う?」
「知らないわよ。ほんっとに危機感ない子ね」
女の子だったのかも、と言うイルミの様子からすれば、若く中性的な子だったのだろう。
アスカに対してもそうだったが、同世代の誰かを見ると疑念や警戒より興味関心が先に立ってしまうようだ。
ゼ・ヘレム教の敬虔な信徒であるイルミは、悪意を持つ他者というものを遠くに捉えているようで。危なっかしい。
誰も彼もが善人というわけではない。
この隠し通路を教えてくれたという人は、イルミに対しては害を為さなかったようだが、どうしてこんなものを知っていたのか。怪しいものだ。
そうこうしているうちに終点らしい場所が見えてくる。隙間から差し込む光が見えた。
真っ平らな壁の上の方に横線のように光が差す。
なるほど、本棚の裏なのかもしれない。
「それにしても」
「っ!」
戦慄が走った。
思わず身を固くして、息を殺す。
声が聞こえたのは本棚の向こう側。
書殿の中から、だ。
「ヅローアガ聖下にはどう申し上げたものか……」
「失礼ながら、あれは御病気のようなものです。仕方がありません」
二人の男性の声。
後から聞こえた声には聞き覚えがある。
サロル助祭長。コカロコ大司教の補佐役。
相手の声はわからないが、教会の関係者なのだろう。
話している内容は教会トップに対しての愚痴というか、批判か。聞いてはいけない内容のような気がする。
「こんな奥にまで来たところで、役に立ちそうなものはないな」
「そのような知恵を納めた書物があると期待したわけではないのでしょう? この書殿に、そのような下賤な……」
「驚くべき神の御業などがあれば万事解決……すまない、逃避だ」
「構いませんよ。私も、神のお力で後の憂いを断てるのならそれも有難いかと」
何の話をしているのか。
彼らはヅローアガ主教のことで何か悩んでいて、その解決策を探している。
下賤と言われるような内容で、書殿に置いている可能性の低い事柄。
神の力なら解決できるかもしれない、ヅローアガの病気のようなもの。彼らの憂い。
(……悪だくみ?)
どうしようか。予期せず、何だか不穏な話を聞いてしまっている。
暗がりの中でも、ヤマトもフィフジャも気を張り詰めているのを感じた。
イルミはよくわからないのか、ただ見つかってはいけないという気持ちはあるようで静かにしているけれど。
「しばらくは様子を見るしかないでしょう。迂闊なことを言っては……」
「ああ、また誰ぞ自死などされても困る」
「本当に自死だったのですか? あれは」
「さて」
ぱたん、と。紙の本を閉じる音が響いた。
「それこそ、神のみぞ知るといったところか」
「失礼、詮索ではありません」
「構わんよ。聖下もあれで少しは肝を冷やした。職人に死なれるのも困るが、我々にとっては有益な死だった」
自死。誰かが自殺したか、あるいはそう見せかけて殺されたのか。
話しぶりからすれば少し昔の話のようだが。
「死んだのは彼だけではない。それまでに失われた命も、きっとヘレムの糸車に紡がれているだろう」
「まさに。紡がれる世に感謝を」
「差し当たり、この周期ではどれだけの影響を及ぼすか……」
遠ざかっていく話し声が完全に聞こえなくなってからしばらくして、ようやく息を吐く。
もう初夏だが、地下通路はさほど気温が高くはない。なのに嫌な汗を掻いていた。
「……ヅローアガ主教ってどんな人なの?」
知っているだろうフィフジャのイルミに問いかけるが、どちらも曖昧に首を振るだけ。
「俺は会ったことがない」
「何度かお見掛けしたことはありますけど、お話は……」
ゼ・ヘレム教会のトップだというのだから、そうそう会える相手ではないだろう。
教会本部に勤めているわけでもなければ面識などなくて当然。
「噂では、厳格な性格の老人という話なんだが」
「ヘレムの教えを守ることを第一とする方のはずですけど」
「たくさん死んだって言ってたじゃん」
「アスカ、よせって」
イルミへの言葉をヤマトが遮った。
「僕たちの感覚で話すな。イルミは……」
「あ、ごめん」
生き死にについて間近に触れてきたアスカと違い、イルミはこの町で穏やかに生きてきたのだ。
顔色が暗く見えるのは、この暗がりのせいばかりでもない。
「大丈夫です」
子ども扱いされたと感じたのか、少しだけ不満そうに言い返すけれど。
「ここで話すのはやめておこう。戻るぞ」
フィフジャに促され、来た道をまた歩く。
暗い通路を電灯が照らすが、来た時よりも暗く感じる。
「……」
言葉が出てこない。
内容がわかったわけではないけれど、決して良い話ではなさそうだった。
「後でコカロコ様に聞いてみましょう」
「イルミ?」
押し黙るアスカたちを気遣ったのか、イルミの声は大きくはないけれど案外とすっきりとしている。
元気づけようと、そういうつもりで?
「平気、なのか?」
「なにがですか?」
からっと返されて、またフィフジャが言葉に迷う。
「大丈夫って言いましたよ」
「それは……そうなんだが」
「あんな話聞いて平気なの?」
アスカも重ねて訊ねると、向けられた電灯の明かりの向こうで首を傾げる様子。
「ヅローアガ聖下が御病気なのは心配ですけど」
「……いや、あれって悪だくみじゃないの」
「そんなわけありません、アスカ」
珍しく少し怒ったような声音で、何を勘違いしているのかと責めるように。
「そう、なの?」
あまりに当然のように言われて、自分が間違っているような気がした。
「そうですよ。先ほどの声はサロル助祭長とポシトル助祭長なんですから」
なんですから、と言われても。
「純粋なヘレムの信徒である助祭長が悪だくみなんて、考えるはずがないでしょう」
「……そうかな」
「そうです」
皆がイルミのような考えだったら確かにそうなのだろう。
今耳にした話だけでは中身がわからない。前向きな話ではなかったことはわかるが、彼らが何か悪いことを企てているという箇所はなかった。
ただ何か都合が悪いことがあって、それの影響で命が失われるかもしれないと。そう案じていただけと言われればそうなのかもしれない。
「フィフ、どう思う?」
「そう言われてもな。ヅローアガ主教とやらが何を抱えているのかわからない以上、憶測にしかならない」
「ですから、コカロコ様にお聞きしてみましょうと」
どうする、とヤマトとフィフジャに目配せしてみるが、どちらも困ったように首を振った。
「わかったけどイルミ。こんな隠し通路で盗み聞きしたなんて言っていいの?」
「盗み聞きなんてしていません。ただ、お二人の声が聞こえる場所にいただけです」
「……本気で言ってるみたいね」
実際、悪意があって聞いたわけではない。ただ偶然あの場所にいたら本棚の向こうで二人が会話していただけだ。
「私は書殿にも入れますから、中にいてもおかしくないんですよ」
「まあそういうことなら……私たちも聞いてたっていうのは困るんだけど」
「もう、アスカったら。私はそんなにお馬鹿さんじゃありません」
今度は拗ねたように唇を尖らせる。
イルミの様子だと言ってしまいそうだから心配になっただけだ。それが侮っているということか。
ごめんと苦笑交じりに謝ると、イルミもくすりと笑った。
「ここは秘密の道ですから。ちゃんと内緒に――」
「聞いちゃった」
がばっと、即座に戦闘態勢を取る。
暗がりから響いた声に驚きながらも、武器は手にしていないので無手で身構えた。
「って、待った待った。待って下さいよフィフジャさん」
殺気を感じたのか、慌てたように言い募る声。聞き覚えが……?
「やっと仕事から逃げ……片付けて、理由をつけてこっちにきたらクックラしかいないし。イルミーノラークと一緒に大聖堂に行ったとか言うから」
「ああ、この子です」
アスカが電灯で照らした顔を見てイルミが、ほらほらと言うようにアスカに指し示す。
「?」
「この隠し通路を教えてくれた子……男の子、ですよね?」
「そこから疑問ですか……」
疲れたように吐いて、小柄な体をさらに小さく見せるように肩を落とす。
大聖堂と書殿との分かれ道辺りで待っていた少年――いや、小柄で童顔だが年齢はフィフジャと同じくらいのはず。
「虫のようにどこにでも現れる奴だな、エンニィ」
「もう少し労わりの言葉があってもいいと思うんですよね」
こんな隠し通路に姿を現したのだから、仕事をさぼってきたとかよりもう少しマシな理由があってもいいと思うのだが。
へこたれた様子でもなく無邪気な笑顔を浮かべるエンニィは、この暗がりでは確かに男女を間違えかねない。声も幼げだし。
ただ、本当に失礼かもしれないが、思う。
どこにでも現れる昆虫のようだと。
◆ ◇ ◆
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