四_047 学び、確かめ
「これ、なんて読むんだっけ?」
「さっきもあったじゃ……あれ、なんか違う?」
「それは『青』です。さっきのは『空』でした」
「ややこしいわね」
ぶつぶつ言いながら、木板に何度も同じ形をなぞるアスカ。
ヤマトも同じようにしながら、青、青と口の中で呟く。その横ではクックラも真似ていた。
「時々、間違えて書いてある本とかもありますよ。わかっていれば自分で読み替えて進めますけど」
そんな三人を見ながら、やんわりと笑う少女。イルミーノラーク。
今はヤマトたちの先生になる。
書殿を見たいというヤマト達だったが、ヅローアガ主教という人の許可なく外部の人を入れられないと言われた。
コカロコ大司教にはすぐに会えたので少し甘く考えていたが、本来は彼も簡単に会える相手ではない。
どうしようかと考えるヤマト達にサロル助祭長と名乗る人が、コカロコが仲介してくれるから滞在して待つように言う。
サロル助祭長。コカロコの補佐をしている二人の助祭長という役職の片割れだそうだ。
ゼ・ヘレム教会の聖地サナヘレムス。町の三分の一を占める教会の敷地はいくつかの区画に分かれている。
町の北にある大聖堂と、その正面に立つ大教会ポルタポエナ。教会建物の名前だそうだ。
一般の礼拝は、町の南の正門から水瓶を持つ女神像の前を通り、このポルタポエナで祈りを捧げるのだとか。その後ろにある大聖堂には通常は入らない。
ポルタポエナの東側には衛兵――ゼ・ヘレム教会では衛士と呼ばれる人たちや、聖職者の見習いなどが暮らす区画がある。
西側はまたいくつかの区画に分かれているが、北西側は主にカリマ・セスマムコーレが管轄する黄の樹園が。南西側はコカロコ大司教の管理する教育区とそれ以外の行政の実務的な区画になっているということだった。
先日、アスカが迷い込んだのが南西側の区画。ヤマトが入ってしまったのが北西側の黄の樹園の端。
書殿は大聖堂のすぐ西にあり、書殿と大聖堂、そしてポルタポエナはヅローアガ主教の管轄。
コカロコがどのような立場でも、管理者の許可なく部外者を入れることは出来ないとのこと。大聖堂は手続きさえすれば入れるそうだが、書殿の方は貴重品もある。
滞在するということについてフィフジャがどう思うか聞いてみたが、簡単に頷かれてしまった。
色々疲れたから少しゆっくりしたいと。
確かに気の休まらない日々が続いていた。そうは言ってもフィフジャは教会が嫌いなのでは、それこそ気が休まらないのでは、と。
――黄の樹園にいかなければ別に問題はない。
はっきりと答えられた。
元々、ここに来るのには億劫そうではあったが、いざ着いてしまえば心境が変わったのかもしれない。
やる前は何だかんだと消極的でも、やってしまえば大したことはない。そんなこともある。
コカロコが管轄する敷地の中だけでも、半径で二キロメートルくらいはありそうだ。行こうと思わなければ間違って入ることもないか。
――それに、文字を覚えるのにもかなり時間がかかるだろう。
言われて見て、アスカと顔を見合わせた。
読めない。
そういえばそうだ。書殿に入れたとしても文字が読めない。
正直に言えばヤマトは、何となくアスカが読めるんじゃないかと思っていたりもしたけれど、さすがの妹も学習もせずに知らない文字は読めない。
フィフジャに読んでもらってもいいが、それも頼りすぎだし、自分たちの求める知識を取りこぼすことも考えられる。
そんなヤマト達に、進んで申し出てくれたのが彼女。イルミーノラーク。
物陰から、ヤマトたちの話を聞いていたらしい。コカロコ大司教の区画の建物はドアが少ない。密閉しないのは神様の前で隠し事をしないとかそういう教義なのかもしれない。
アスカとは既に知己であったようなので、再訪したのを見つけて様子を窺っていたらしい。
ヤマトとアスカ、そして幼いクックラにとって、彼女は良い先生になった。
「文字を読めない人は多いですけど」
識字率は高くない。一般の庶民では一割もいないと聞く。
「学びたいという人もそう多くはいないんですよ」
「読めないと不便じゃない」
アスカの言い分に、イルミもうーんと首を傾げる。ヤマトも自覚はあるが、このイルミも世間と少しズレている気がする。
「別に文字が読めなくても食うことは出来るからな」
少し距離を置いた場所からフィフジャの言葉があった。
食事に困らなければ、急を要するわけではない。
皆が読めないのなら、文字による情報伝達を主とすることもない。それなら広まることもないか。
「読めるから便利だと知っているだけで」
日本語なら読める。だから、読めないことを不便と思うのだけれど。
「でも、読めないんでしょう?」
フィフジャの言葉を受けて、イルミがきょとんとした顔で再び首を傾ける。
読めないから勉強しているはずなのに。
「……」
余計なことを言ってしまったと顔を逸らして、先ほどまでそうしていたようにやや遠くに何かを投げるフィフジャ。
つる草を丸めて樹液で固めたボール。
グレイはそれを駆けて取りに行き、フィフジャの下にまたそれを咥えて戻ってくる。遊んでいる。
イルミの授業は屋外でやっていた。天気の良い日はということだが、この辺りは晴れる日が多いのだとか。
既に数日、こうして教えてもらっている。
「フィフは読めるんだもの、ずるいじゃない」
「別にずるくはないと……ふふっ」
言いかけてくすくすと笑うイルミは、先ほどの疑念を忘れてくれたようだ。
ずるいのは、都合が悪くなって顔を逸らしたことだ。
手持無沙汰になるフィフジャは、グレイと共に運動したりしながら時間を潰していた。
学び疲れたアスカやクックラも時折混ざって遊んでいる。イルミも一緒に。
休憩を挟みながらの文字の学習。読み書きを覚えるというのはやはり難しい。
主に使われるのは表音文字。アルファベットのようなものではなく、平仮名やカタカナのようにほとんど文字一つで一つの音を示している。
濁音などで違うものもあるけれど。
それとは別に、色や自然を表すものは一つの形で文字を形成していた。漢字や象形文字のように。
表意文字と表音文字の組み合わせで出来ている文章。似た形式の日本語を習得していたのは幸いだったと思う。
クックラと一緒にというのも恰好が悪いけれど、恰好をつけても知らないものは知らないのだから仕方がない。一緒に学習できることを幸いとしよう。
たかが数日でどれだけ理解が進むのかと思ったが、先に会話を覚えていたおかげか案外と覚えやすい。
紙は貴重品ということで、使うのは木の板。使い終わったら焚き木として使えるから無駄にはならないと言う。
三十万人が暮らす街ともなれば、それ相応に木材が必要になる。サナヘレムス周辺は自然豊かなで山などもあり、資源に不足することもないようだが。
製鉄には大量の火が必要になると聞くけれど、その辺りはどうなのだろうか。
人が暮らすには様々なものが必要になる。
森の奥で生まれ育ったヤマトたちは知らなかったこと。
日本でなら、社会の授業でこういった知識も学ぶのだろうか。それなら、どういう成り立ちで世界が回っているのか余さず知識を得られるのかもしれない。
「なんで布って文字が二つあるの?」
イルミも知らないことはあるが、知っていれば教えてくれるし、フィフジャが横から教えてくれる場合もある。
「ええと、虫の繭から紡いで作るものと、植物から作るものがあるから? だったような」
「ああ、そういう」
聞いてみれば納得できることも多い。日本の漢字ではそういう区別はなかった。
糸を紡ぐ際の素材の違いか。
「私が着ているのは、南国から教会に納められた布の服という話ですね」
古代では税として布を納めることもあったとか。質の高い織布は金銭にもなるのだから。
「……って、イルミ?」
さわさわと、ヤマトの足を撫でられた。
イルミの指の感触にぞくりとしてしまい、慌てた声を上げる。
ふわふわして取り留めのない雰囲気の少女だが、整った顔立ちは可愛らしい。そんなイルミに急に触れられてはどきりとする。
「珍しい布地?」
「あ……そう、かな」
別に他意があったわけではなく、話していてヤマトのズボンが気になっただけのようだ。
デニムのジーンズ。父のおさがりであちこち繕ってあるけれど、丈夫なズボン。
水を吸いやすいので雨の日などは結構困るけれど、耐久性を重視してこれをよく着用していた。他の荷物を失い、替えはウェネムの港で買った服になる。
「糸、太いのにすごく細かに織り込んでいる」
「そうかな……その、ちょっとくすぐったいんだけど」
興味を抱いたのか撫でる手が止まらないので、なんだか恥ずかしくなって逃げた。
ヤマトも色々と興味の尽きない年齢だ。可愛い女の子に触れられると変な気分になってしまう。
つい先日、同年齢のズィムが年上のネフィサと良い雰囲気になっていたような話もあり、余計に。
(……ラッサ、元気かな)
アスカという妹がいるせいか、イルミのような年下の女の子に性的な興味を抱くのに忌避感がある。
代わりに、自分に好意を寄せてくれていただろう同年代の女の子を思い出した。
(いや、代わりは失礼か。聞かれたら蹴られそう)
ラッサの見事な蹴りを思い出して、ふと笑みが浮かんだ。
「ズァムーノの布かしら?」
「まあそうかな。この辺じゃ見ないね」
相変わらずふわっとした様子でデニム地のことを訊ねるイルミは、ヤマトを男性的に捉えている様子はない。
遠い場所から来た年齢の近い友人としてアスカを迎えて、ヤマトはそのおまけというか。
寝食の手配をしてもらっている上に勉強の手伝いまでしてもらって、来る前までのサナヘレムスの印象とかなり違う。
平穏でのんびりとした空気。
これまでが殺伐としすぎていたせいで、少し落ち着かない。
フィフジャはどう感じているのだろう。彼は当初、サナヘレムスに来るのを嫌がっていたのに。
いや、リゴベッテ大陸の方が平和に暮らせると言っていたフィフジャの根拠は、こういう場所を基準に言っていたということか。
危険が少なく、安心して暮らせる。
確かにそうなのだろうと思うけれど。
(……なんか、場違いな気がする)
三つ子の魂百までなんて言葉もある。自分の生きてきた世界と違いすぎて怖い。
日本も平和だったのだとか。殺したり殺されたりなんてことは、ゼロではなかったにしても身近ではなかったという話だ。
戦地で生まれ育った子が日本にきたら、こんな違和感を覚えるのかもしれない。自分の世界じゃない、と。
仮に日本に行く手段が見つかったとして、そこでヤマトたちは普通に暮らせるのだろうか。
祖父母も両親も、日本に帰れることがあればと口にしていた。それはきっと彼らの願いであり、出来ることなら家族の願ったことを叶えたいと思うのだけれど。
「アスカの下穿きもなんかすごかった」
「……知ってるけど、言わなくていいんだよ」
「知っているの、ヤマト? 綺麗で可愛いの」
「……」
アスカの穿いているパンツを思い浮かべてしまって言葉が出てこない。
そんなヤマトをニヤニヤと横目で見ているアスカと、どうしたのかと見上げるクックラ。
こういう時、フィフジャは口を出さない。投げた球をグレイと競争するように追いかけて離れていった。やはり彼はずるい。
「なんていうのか……そういうの女の子が言うのは、あれだよ。はしたないんじゃないかな」
「そうなのかしら?」
彼女の事情は知らないが、ずいぶんと純粋に育てられているものだ。
男女の関係など考えたこともなさそう。
「イルミぃ、あなたみたいに可愛い子に下穿きの話されたら、ヤマトがえっちぃ気分になっちゃうじゃん」
「そうなの? いけないわ」
「これは僕が悪いのか?」
納得がいかない。けれど、ぽむと腕を叩くクックラの小さな拳に罪悪感を覚える。
「……だめ」
「わかってるよ、クックラ。アスカが馬鹿なことを言ってるだけなんだから」
はぁと息を吐く。
やや強くなってきた日差しを避けて、木陰に卓を置いて勉強をしていたはずなのだが。
屋外で、というのには明るさのこともあった。窓の少ない屋内では暗く、字を書いたり読んだりという作業には向かない。
伊田家なら、大きな窓があったから日中は十分な採光があった。
サナヘレムスの教会施設でも、大きなガラス窓などほとんどない。
ヤマトがカリマと会った近くの建物は特に窓が少なかった。
それに比べれば、十字に桟を挟んだガラス窓がはめ込まれているだけ明りは入るけれど、やはり中は暗い。
蝋燭など明りは灯せるが、日中なら外の方が気分も良い。
「そういえば、ガラスを作るのにも火がいるか」
製鉄とどちらがどれだけの熱を必要とするのかヤマトは知らないが、ガラス板の製造にもやはり薪は必要だろう。
「ガラス……サナヘレムス以外だと少ないと言われてましたね。本当に?」
「お金持ちの家に少しくらいって感じね」
一般庶民の建物には木窓しかない。通気や多少の灯りとりの為につっかえ棒で開けるような。
「もっとすごいガラスもあるのですよ。赤とか青とか黄色とかの」
色ガラスか。教会なのだからステンドグラスがあるとしたらそれっぽい気がする。
「大聖堂に?」
「どうして知っているのです?」
アスカが勘で言ったことを不思議そうに問い返された。
「見たことがあるの?」
「ううん、ないけど。そんなにすごいの?」
既にアスカが見知っているのかと残念そうになったイルミだが、そうではないと聞いて自慢げな笑顔で頷く。
「それはとても……そうだわ」
良いことを思いついたと言うように手を合わせた。
「見に行きましょうか」
と、提案されるが。
正面の教会ポルタポエナ、書殿、大聖堂はヅローアガ主教の管轄区域のはず。
許可もなく入っていいのか。
「書殿は駄目かもしれませんけど、大聖堂はただ広いだけで何もありませんから。大きな集まりの時はたくさんの人が入りますし」
「じゃあいいかな」
「待てってアスカ、勝手なことをしてまた……フィフ!」
少女二人が安易に話を進めようとするので、年長者として諫めつつ保護者を呼ぶ。
目の届く所にいたフィフジャが、ヤマトの声を聞いて小走りに駆けて来た。
「どうした?」
「大聖堂のガラスを見せてくれるって言うんだけど……勝手に入ったらまた怒られるんじゃないかって」
「ああ、そうか」
簡単な話だったのか、フィフジャの表情が和らぐ。
頬に髭は目立たない。アスカに言われて、まめに顔剃りをしているようだ。
「あそこは大きな集会所のような建物で、書殿のように貴重な物があるわけじゃないからな。賓客でもいなければ封鎖されているわけでもないだろう」
「入ってもいいんだ」
「駄目な時なら入り口前で止められる」
フィフジャに確認をするヤマトに、ほら見なさいというようなアスカの表情。わかっていなかったくせに。
何がきっかけで困ったことになるともわからない。確認は大事だ。
「大丈夫ですよ、ヤマト」
「みたいだね」
とりあえず今回は何も失敗せずに済みそうだと、イルミの笑顔に安堵する。
「ちゃんと秘密の抜け道を知っていますから」
「……」
それは、駄目なやつじゃないだろうか。
◆ ◇ ◆
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