四_040 聖堂都市
赤い。
黒い。
暗い。
温かくて、熱くて、冷たい。
血溜まり。肉塊。臓物。
ひどい臭いもするはずなのに、涙と鼻水で何もわからない。
まともにものも見えず、痙攣した喉は声も満足に出せない。
苦痛と悔恨と、何も理解できない薄闇の中。
ただ、殺してと。
妙にはっきりと、誰が言ったわけでもないそんな言葉だけは耳の奥に響いていた。
◆ ◇ ◆
がばっと、珍しく覚醒直後に目を大きく見開いて瞳に物を映す。
本当に珍しい。
けれど、驚きはしない。
「ずいぶんうなされていたけど」
寝苦しそうな様子を見ていたから驚くことはなく、ヤマトは静かに声を掛けた。落ち着けるように。
水筒から注いだ水を差しだした。
「大丈夫?」
妹も訊ねる。
「……」
呼吸をしていない。二度三度と瞬きをしてから、ふぅ、はあと息を吐き、吸う。
自分がどこにいるのか思い出したように。もう一度息を深く吸って、吐いた。
「ああ……すまん、驚かせたか」
そうでもないのだけれど。
「ん」
答えに迷ったヤマトの代わりにクックラが小さく頷いた。
その声を聞いて次第に意識が現実に戻ってきたのか、差し出されていた水に気が付く。
「あ……ああ、助かる」
喉はカラカラだろう。
「かなりうなされてたから」
「悪い夢でも見てたんじゃない」
水を飲むフィフジャに、もう一度声を掛けた。
ヘレムス教区に入ってから、フィフジャはどうも悪夢を見ているようだ。
今日のように飛び起きたのは初めてだったが、ここ数日はいつも寝汗がひどいし苦し気に唸っていることもある。
サナヘレムスがいよいよ近付いてきて、過去の悪い記憶を呼び起こしてしまっているのかもしれない。
「そんなにイヤだったら、無理に行かなくてもいいんじゃない?」
「そうよ、あのニネッタさんに本を預けて届けてもらうとか」
ズァムナ大森林を探索した何かしらの成果を依頼主に届けるのが仕事。
だとしても、他の誰かの手から渡っても同じなのではないかと。
これほど精神を苛んでまで行く理由があるのだろうか。
「ああ、いや……大丈夫だ。どっちにしても、どういう状況で手に入れたのかとか話さないとならないから」
探索の成果というのであれば、物品だけではない。
情報も合わせてこその仕事の達成。
別の誰かに頼むというわけにはいかない、というのだが。
(でも、嘘の報告するだけなのに)
フィフジャは伊田家のことは話さないと決めていると言う。
大森林の奥地で暮らしていたなどという話になれば、ヤマトとアスカは面倒な扱いを受けるかもしれない。
どうせ真偽などわからない。
ヤマトたちはズァムナ大森林近くで長く探索をしていた物好きな探検家の子供。
フィフジャは森で彷徨って偶然に図鑑を見つけて、その後に行き倒れていたところをヤマトたちに助けられただけ。
そういうシナリオになっている。
「大丈夫だ」
そんな様子には見えないから言っているのだが。
「元々、師匠とサナヘレムスで暮らしていた。別にあの町が嫌なわけじゃない」
住み慣れた故郷に戻るという人が、毎晩うなされたりするだろうか。
「フィフがそう言うならいいんだけど」
「意地張ってやせ我慢される方が迷惑なんだよ」
さっきまでは心配する様子だったアスカが、今度は直球をぶつけた。
実際その通りだ。
アスカの言葉を受けて、やや調子を取り戻したようにフィフジャが苦笑を浮かべる。
「そうだな、悪い。でも本当に大丈夫なんだ」
アスカの頭を撫でる手に少し力が入っているように見えたのは、やはりやせ我慢だったのだろうか。
不満そうに口を尖らせながらも、アスカはその手を振り払いはしなかった。
◆ ◇ ◆
ヘレムス教区の中心、聖堂都市サナヘレムス。
リゴベッテ大陸の中央やや北に位置する内陸の盆地で、雨は多くない。
町の北にかなり標高の高い山地があり、その麓の二つの湖が大きな水源となっている。
二つの湖から東西に流れる川の間、やや小高くなっている場所に町は存在した。
水源はあるけれど周辺での水害は少ない。
人が暮らすのに恵まれた条件を揃えた地域で、だからこそ中心地となっていた。
リゴベッテの中でも北寄りに位置する為に冬の寒さはやや厳しいが、生活に支障をきたすほどではない。
ゼ・ヘレム教の発祥の地とも言われる古い町。
人口は三十万人を数える。一つの町としてはかなり多いが、異常なほど突出しているわけではなかった。
古い歴史があるが為に、移住者をあまり認めていない。
他の国などから移住してくる者は、ヘレムス教区内の別の町に定住することになる。それも相応の審査もあるのだと。
教会の幹部からの推薦をもらえれば良いと言うが、それが簡単にもらえるものなのか。
そういう経緯で、サナヘレムスの住民が選民意識を抱くのは仕方がないことなのかもしれない。
彼らの多くは農業に従事している。サナヘレムス周辺の農地を耕し、ゼ・ヘレムの恵みに感謝する。そういう暮らしを。
他には巡礼者に対する観光業と、一部の製造業などの職人。そして教会関係者。
自らの労働に関しては実直な彼らだが、外からの来訪者に向ける笑顔の裏には蔑みがあった。
サナヘレムスの三十万の住民に対して、季節ごとに数万の来訪者が巡礼に訪れる。通り過ぎていく旅人に、歓待と憐れみを持って。
他の地域はゼ・ヘレムの恵みも薄く、またこれほど美しい町でもないのだろうと。
言葉にはしなくとも彼らの心の底に湧く優越感は、それもまたゼ・ヘレムへの感謝に変わるのだった。
◆ ◇ ◆
「建物の造りが全然違うね」
「ガラス窓があるんだな」
整然とした街並みと、そこに並ぶ建物にはガラス窓があった。
今までの町では、かなり限られた建物くらいにしかガラスなど使われていなかった。ロファメトの家には小さなものがあったけれど。
通りに面した建物に、規則的に同じような大きさのガラス窓が備えられている。
道はセメントのような白っぽい舗装がされていて、左右には芝のような足の短い草の植え込みと水路が。
文明レベルが違う。
「地下にも汚物用の水路があるんですよ」
エンニィが説明してくれた。下水道完備の町。
「このSEMENTO……道路の石材、割れないの?」
「千年前からこのままだそうです」
そんなことが有り得るのか、と。
アスカは兄の顔を見てみたが、わからないというように首を振られた。
千年の耐久性なんて信じられない。
けれど該当するものなら既に見ている。牙城や海皿砦。あれらの材質と同じか、似たようなものなのだろう。
少し手を当ててみたが、極端に熱を持っている様子はなかった。
石材のようだが少し違う。どういう原理か知らないが、太陽熱を吸収せずに散らしているようだ。
加熱されれば膨張して割れるかと思ったけれど、そういう対策も出来ている材質。
「……超魔導文明?」
「ま、そういう時代のものってことでしょうね」
エンニィとて何でも知っているわけではない。曖昧な笑みで肩を竦めた。
「家の方は違うみたい」
「まあさすがに……大聖堂とか書殿は、やっぱり古代のものですよ」
書殿――図書館のような施設があると聞いていた。
地球の図書館とは異なるが、おそらく世界で最も多くの書籍を集めた場所。
許可がなければ見せてもらえないということなのだが、どうにかならないだろうか。
「そういえばエンニィ、本持ってるよね?」
「あ、ああ、はい」
初めて会った時、グレイに驚いて取り落としていた白い本。
その後も、肌身離さずという様子で懐に入っているのを見ている。
「なにが書いてあるの?」
アスカは、特に何かを思って訊ねたわけではない。気になっただけだ。
「……」
「……?」
真っ直ぐに見つめられた。
ひどく真面目な顔で。あるいは感情というものが消えたような表情で。
「エンニィ?」
「……いえ、なんでも。何でもないんですよ、これ」
懐から白い装丁の本を取り出して、溜息を吐いた。
「ほら」
開いて見せる。
そこに目を向けるが。
「何でも……何にも書いてないじゃない」
「そう言ったじゃないですか」
えへへと、いつもの悪戯小僧のような笑みで、ぱらぱらと頁をめくって見せるが、やはり何も書かれていない。
立派な装丁をしているだけの白い本。
紙は貴重なので決して安物というわけではないのだろうが、意味がわからない。
「なんか意味ありげに真面目な顔するんだもん」
「ずっと前に」
ぱたんと本を閉じて、また懐にしまいながら呟いた。
「大事な方から預かったんですよ」
やや寂しそうに響いた声を聞いて後悔する。アスカのような他人が軽々しく聞くことではなかったか。
「迷ったり悩んだ時にですね、この本を手に取ると自分のすべき道が見えるっていうか。そういう感じですかね」
「ごめん、大事なものなのね」
中身ではなく、その物自体に意味があるのだろう。エンニィにとっては。
アスカたちが祖母の教えなどを心の道標にするような、そういうもの。
「……フィフ?」
ヤマトの声で気が付いた。フィフジャが足を止めてぼうっとしている。
何か遠くを見ているようで、何も見ていないようで。
「やっぱり宿で休んでいた方がいいんじゃない?」
サナヘレムスまでいよいよとなった夜には、フィフジャはうなされなかった。
腹を括ったのか、単に疲れて熟睡していたのか。
ズィムやネフィサたちは、サナヘレムスの外縁辺りの出来るだけ安い宿を当たっていた。
物価が高いリゴベッテの中でもサナヘレムスの宿代はつとに高い。エンニィから安めで安心して泊まれるような宿を聞いて部屋を取りに行った。
数日滞在するとして、少しでも節約しなければ。
まだ本調子ではないネフィサと体中を傷だらけにしていたズィムを、カノウとリーラン――ネフィサの友人たちが助けてくれていた。
教会近くには連れて行きたくなかったので、クックラもグレイと共にそちらに預けている。
ラボッタは、サナヘレムスに近付いたらいつのまにか消えていた。フィフジャが言うにはいつものことだと。
魔物駆除をしていた衛士の人たちは一緒ではない。彼らには彼らの仕事がある。
代わりに、
「フィフジャ君、本当に大丈夫かい?」
探検家のニネッタが同道している。
カノウたちをネフィサに引き合わせてくれたニネッタだが、本業は探検家だ。
フィフジャと共にズァムナ大森林に足を踏み入れた探検家。
だとすれば彼も、成果はともかく、依頼人である教会の関係者に報告する必要があるのかもしれない。
フィフジャの功績を自分のものに……というようには見えないけれど。
図鑑をニネッタに持って行ってもらったらと言ったら、彼に
そこまで信用されても、報酬を持ち逃げするかもしれない。もっと用心しなさいと。
フィフジャの精神状態があまりにひどければ、報酬などどうでもいいと思ってもいるのだけれど。
――分にそぐわない金銭は身を崩す。
それはニネッタの信条らしく、苦笑して言っていた。
過去に何か痛い目に遭ったことがあるようだ。
「うん?」
声を掛けられていたフィフジャが、初めて気が付いたというように疑問符を返す。
「あ、いや……呆けていたか?」
「……」
皆で顔を見合わせる。本当に大丈夫だろうか。
「フィフ、あのさぁ……」
「いや、違うんだアスカ」
「違わないでしょうが」
言い訳をしようとするフィフジャに苛立ち、ぎぃと歯をむき出す。
「心ここに在らずって感じで、何が違うっていうのよ」
「いや、本当に今のは……別に気分が悪いとかじゃなくて、なんだ。寝ぼけていたというか」
「私が心配していたの寝ぼけて聞いてなかったっていうの?」
「いや、そうじゃ……そうなんだが」
話を無視されるというのは非常に腹立たしい。
アスカが噛みつく前に、ヤマトとニネッタがまあまあと間に入った。
「色々と疲れが溜まっていたんだろう、フィフジャ君も」
「今は本当に体調が悪いとかいう感じじゃないから」
歩きながら寝ぼけるとか、普段は不器用なくせに妙なところで図太いというか。
「ほんと、色々とずれてますよねぇ」
エンニィがフィフジャの額に手を当てて、熱でもないかと確認しながら笑った。
「抜けてるのよ」
間が。
普段なら振り払いそうなエンニィの手を黙ってそのままにしているのも、どこか気が抜けている。
「すまない」
本当に、どこかずれて、抜けている。
今までのフィフジャとかなり様子が違うのは確かだ。
悩むこともあるのだろうし、あるいは慣れた町に戻ったことで気が抜けている部分もあるのかもしれない。
アスカとて無闇に噛みつきたいわけではないが、優しく言っても聞かないのだから、つい強い語調になってしまう。
「隠し事とか遠慮とか、そういうのやめてよね」
むう、と腰に手を当てて説教っぽく。
「心配事があるなら言う。こっちで何か出来ることがあるならはっきり言う」
「……」
「私たちってさ……もう、家族みたいなもんでしょ。ちょっとは信用してよ」
エンニィとニネッタはやや驚いたような視線をアスカに向けて、続けてヤマトとフィフジャを見る。
ヤマトはそっと頷いて、フィフジャに視線を送る。
フィフジャは、肯定も否定もせずにまた呆けたような顔を浮かべて、やはり小さく頷いた。
「そうか……」
呟き、軽く頬を掻く。
その顎に無精髭が生えているのに気が付いて苦笑した。
「そう、だな」
弟妹に諭されて気恥しそうにする兄のように。
「そうだよ」
「ああ、悪い。でも、だから言いにくいこともある」
わかってくれと言いながらアスカの頭を撫でて、ヤマトに向けてもう一度頷き返す。今度は呆けていない顔で。
「そのうち話すよ」
◆ ◇ ◆
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