四_033 青い影
肌の表面が震える。
武者震いだとか鳥肌だとかそういうことではなく、空気の振動で目の下あたりの柔らかい肌が震わされた。
――キイイィヒィィィィッ!
ガラスを引っ掻いたような音とヤマトが言ったとしても、ほとんどの人は知らないだろう。ガラスは高級品らしく一般的ではない。
高い音で肌に感じるほどの大きさということなら相当な音量だ。
生き物の声で直に振動を感じたのは、それほど記憶に多くない。
黒鬼虎の咆哮は腹まで響いてきた覚えがあるが、あれは低音だった。高音でこれだけ浴びせられるのはとてつもない不快感。
青小人。
フィフジャから、この世界の生き物の話を聞いていた時に出て来たことがある。
朱紋のような妖魔と呼ばれる存在の中で、世界的に有名なものの一つ。
海で出会った海モグラと違い、人間にとって忌むべき存在。どういう手段なのかわからないが、世界各地に神出鬼没で現れては大きな被害をもたらす妖魔。
家屋が全壊していたのは角壕足ではなくこれのせいだったか。
ウェネムの港からここまで来る間にもあった廃村も、この青小人の所業だったのかもしれない。鈍器で叩き壊したような。
「フィフ! 僕が――」
「駄目だヤマト! 師匠!」
「他の魔獣は知らねえぞ」
短い言葉で役割を確認する。妖魔の相手をするのはラボッタで、ラボッタに魔獣が近づかないようフォローする。
「って、こいつにゃあ関係ねえわな」
妖魔の方にこちらの事情を考慮する理由はない。
そもそも妖魔というのは知能が高いということで、普通の獣と違って手近なところから襲っていくわけではなかった。
手には、黒い岩の棒というか塊というのか。
棒と言うには短いが、柄のように握る部分と叩きつける部分がある。武器だ。
棍棒と言うべきなのか、原始的だが武器としての体裁があるもの。石猿が投げる石とは違う。
駆け出す妖魔の向かう先は、今ほど攻撃を避けられたアスカへと。この中で一番手頃だと思ったのかもしれない。
小刻みに跳ねる虫のような動きで、ピョピョンっと跳んで頭上からその棍棒を叩きつけた。
「アスカ!」
思わず叫んだのは、アスカが直前まで避けなかったから。見えているのに、避けようとする素振りを見せずに。
「ふっ!」
くるりと、ぶつかる直前で旋風のように回って上からの一撃を躱しながら、右手に手にした鉈で青小人の背中を斬りつけた。
伊田家でずっと使われてきた鉈。
その一撃が妖魔の小柄な体躯を捉える。青黒い肌に――
「っ!?」
アスカの攻撃を気にもせず、地面にめり込んだ岩の武器をやはり回転するように振り回す青小人。その反応も速かったが、最初から一撃入れて逃げるつもりだったのだろうアスカはそこにいない。
空を切る音と共にアスカの舌打ちが聞こえた。
軽くなった自分の右手の武器に、わずかな未練の舌打ちを。
折れた。
魔獣との戦いの中でついた皮脂のせいで切れ味は落ちていただろう。
折れるほど強い力だったことを賞賛してもいい。それよりなにより、いくら血糊で切れ味が悪かったとはいえ、刃物を突き立てられて切れない妖魔の体の強固さが信じられない。
「アスカ、下がれ!」
言われるまでもなく主武器を失ったアスカは下がりつつ、近付いてきた野狐を左手のダガーで牽制する。
追撃しようという気配の青小人だったが、自分の足辺りに突き刺さろうとする光弾を嫌って後ろに跳んだ。
ラボッタの魔術。
躱したということは、効果が見込めるということだろうか。鉈を弾いた体だけれど。
「岩みたい!」
「わかった」
切りつけた感触が、岩のようだったのだろう。生き物の外皮でそんな硬度があるのかという疑問もあるが。
「っ!」
手に残っていた折れた鉈を、新たに襲い掛かろうとしていた石猿の喉元に投げつけた。
愛用の武器で色々な思い出があっても、今はそれに思いを馳せている場合ではない。そう気持ちを振り払うように。
振り払う。
妹の仕草を見て、ヤマトも自分の槍を振り払う。
こちらは敵に向けてではなく、穂先に残っていた血を飛ばす為に。
愛用の石槍は、それだけでいつもの白さを取り戻した。
「フィフ、アスカ。魔獣は任せた」
「無理をするな」
岩のような外皮の妖魔だとしても、ヤマトの槍なら貫けるかもしれない。
ヤマトの言いたいことを察してくれたのか、フィフジャは止めなかった。
強敵だ。
およそ今まで相対した中でもトップクラスの。
「ラボッタさん、隙を見て打ち込んで!」
「ああ、好きにやってみろ」
「ミイバさん、ミドオムさん!」
呼びかけた。
「魔獣をお願い!」
改めて、頼む。
形振りも何も構っていられない。この敵を前にして他のことを気にしている余裕はなさそうだ。
「妹に似て我侭なボウヤだね」
「ひゃっ、俺らは勝手にさせてもらうぜ」
素直に聞いてもらえると思ってはいない。言葉とは裏腹に、やや楽し気に魔獣を切り裂いていたから、それでいい。
青小人に向けて槍を構える。低く。
向こうも、ヤマトが本気で自分に向かってくるのだと理解したのか、今度は他に手を出そうとはしなかった。
仕切り直しだとでも言うように、片手で棍棒を軽く振ってみせる。
棍棒が所々ちらりと光る。岩の塊かと思ったが、ああいう形の鉄鉱石のようなものなのか。この妖魔の剛力を考えれば普通の石では砕けてしまうだろう。
「お前の相手は僕だ!」
「ッヒィィッッハアァ」
宣言したヤマトに、小さな体が砲弾のように放たれた。
凄まじい速度。
小浮顎の最高速度のような風を切る速さで、その重量は小浮顎の数十倍。あれはヤマトの二の腕程度の大きさだった。
武器を握った妖魔が砲弾のように自分の体を射出して迫る。
まともに食らったら体が砕け散るだろう。
「っ!」
だが見えていて、直線だ。過去に似たような速度を見たことがあれば認識も出来る。
構えた槍を真っ直ぐにそこに繰り出すが――
「なっ!?」
土煙が上がった。
爆発するかのように、地面から。
そして槍には何の手応えもない。消えた。
「上!」
アスカの声に反応して即座に飛び退く。思い切り。
直後に、それまでヤマトが立っていた場所も、爆発した。
ドゴォォっと爆音を上げて、巻き上げられた土砂で視界が奪われる。
見えない中、視界を確保する為にさらに下がるが、背中にぶつかった。壁だ。
村の中なのだから当然建物がある。わかってはいたが、青小人の攻撃力に怯んで思った以上に下がっていたらしい。
「くっ!」
咄嗟に転がったのは直感だ。
何かが迫る気がして横に転がり、直後に背中にしていた壁が砕ける音を聞く。
最初の突進は、ヤマトに届く直前で地面をぶん殴って方向を変えていた。その土煙で視界を奪うついでに。
上から叩きつけた一撃で、また大きく地面を破裂させて。
後ろに逃げたヤマトを、おそらく獲物がそう逃げるだろうことを予測して襲ってきた。
攻撃の組み立てをしている。
妖魔は知能が高いと言われるのだから、そういうこともあるだろう。
判断を誤れば、家屋と共にぐちゃぐちゃになっていた。
再び距離を取っている間に、壁が砕けた家屋から再び破壊音が響き、別の壁が半分ほど吹き飛ぶ。
自重に耐えかねて倒壊する家屋から飛び出してくる小さな青黒い影に、咄嗟に槍を横に構えた。
「ぐぅぅっ!」
「ビャ!?」
柔らかい地面を足裏で削りながら、その一撃を受け止める。
受け止められた。
その事実に、妖魔の口から洩れた声は疑念の色を感じさせる。おかしい。
おそらく青小人にとって、自分の振るう武器での一撃を防がれた経験はなかったのだろう。
信じがたい剛力と速度で、地面や建物の壁を爆散させるような一撃。まともな生き物に受け止められるはずはない。
強靭な大楯でもないヤマトの石槍がそれを防ぎ、またただの人間であるヤマトがそれを耐える。
有り得ない。
その事実に戸惑い。戸惑いは動きを止めさせた。
「ガァァッ!」
銀狼の爪は、岩をも裂くと言われていると。
謳い文句に偽りなし。
「ぎぁっ」
悲鳴を上げて飛びずさる小さな妖魔。
「ヤマト!」
「平気!」
フィフジャの焦る声に短く応じる。とてつもない強敵だが、だからと言って人数をかけても倒せる相手ではない。的が小さい。
「黒鬼虎、以来だね」
こんな戦いは、黒鬼虎と戦った時以来だ。
同じくらいの強敵なら、朱紋からは逃げ出した。ゼフスからも逃げ出した。
双子は――あの時は向こうが手を引いた。
逃げられない戦いとして強敵と相対するのは、アスカや銀狼たちと共に立ち向かった黒鬼虎以来のこと。
あの時は銀猫シャルル・ドゥゼムも手伝ってくれたのだった。黒鬼虎の一撃で尻餅をついたヤマトが立ち上がるまで、巨大な黒鬼虎の鼻面に噛みついて。
今、そんなことを思い出すのも変な話だが、そういえばいつも何かに助けられている。
「……お前、喋れるな」
先ほど、間近で目を見た。
ヤマトの槍が青小人の棍棒を受け止めた瞬間、ごく近くで。
黒目だけしかない目が、驚きで揺れるのを見た。理性がある。ただの直感だが。
鎌をかけたと言えばそうだし、少しばかり息を整えたかったこともある。
正解かどうかは別にどうでもよかった。
「話が出来るかどうか知らないけど、こっちの言うことわかってるだろ」
「……」
妖魔の横腹に三本の赤い線が走っている。この青黒い体にも、流れているのは赤い血なのかと思えば妙な気もするが。
グレイの爪で裂かれた腹を棍棒を持っていない方の指でなぞり、その血を舐める。舌は青紫色。
「――やぁまとぉ?」
耳に障る高い声で、名を呼ばれた。
◆ ◇ ◆
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