四_008 イダの娘



 リゴベッテ大陸は、大きく七つの国と中心に位置するヘレムス教区に分かれている。


 太いナスを逆さにしたような形で、地図で見ると下の方に位置するこのウェネムの港を含む南端地域はナルペールという国が治めている。

 ナスで言えばヘタの周辺というところだろうか。

 平野が広がり雨も多い地域で、肥沃な田畑を抱えているが、嵐の直撃も多い。

 農業が主ではあるが、天候の被害による収穫量の不安定さが毎年の懸案だ。


 それでも広い穀倉地帯というのは他国から見れば魅力的に映るもので、数百年の歴史の中では何度となく隣国との争いが起きている。

 隣国の名前は変わっていく中でもナルペールの国名が残っているのは、やはり食料供給がある程度安定した国家だからだ。


 安定した食は人を増やし、人口は国力になる。

 腹が満ちて住まいもあれば、多くの不満は解消できるものだ。

 それでも湧いてくる不満については、外へと向けさせればいい。

 幸いなことに、ナルペール近隣には敵と見做しても問題のない国があった。


 人口五百万人と公称するナルペール王国。

 非戦時の職業軍人はおおよそ七千人ほど。準軍属を含めれば二万人ほどになる。

 何某武将と呼ばれるのが作戦指揮官で、現場指揮官は武官と呼ばれた。


 烈武官モルガナ。

 平常の現場指揮官の中では上位になる。

 親も軍人で、その威光もあり若くしてその地位にいるわけだが、それに対する醜聞を黙らせるだけの力もあった。



「しばらく来ていないうちに、子供の遊技場になったかと思ったが」


 言いながら手の甲で顔を拭う。

 試合開始直後の攻防。僅かに頬を掠めたアスカの爪先の感触に、驚愕と賞賛を。


「なるほど。並の者では相手にならん」

「ふざけてられるのも今のうちよ」


 肩を押さえながら言葉を返すが、表情が歪む。

 色々と驚きだ。

 踏み込みのタイミングが見えなかった。

 咄嗟にその出足に向けて蹴りを放ちつつ、その蹴りの軌道を瞬時に上段に変化させた。


 掌底を放つ女の顎を捉えたつもりだったが、アスカの蹴りに構わずに掌底を左肩に食らって後ろに吹き飛ばされた。

 アスカの蹴りは、頬を掠めただけ。

 打ちつつ、上半身のしなりで蹴りを躱されるとは。

 掌底と同時にモルガナが上半身を逸らした為に、打撃そのものの威力は減衰していたが。


「大したものだ。その年で」

「そりゃどうも」

「下段から上段への変化も見事だったが、おかげで私が狙った肩が遠のいた。判断も速度も、見事だ」


 褒め言葉ではあるが、見下されている。

 この女――モルガナも身を逸らしたが、アスカも上段蹴りの為に体が後ろに逃れていた。

 だから、ダメージそのものは大したことはない。


「あまり怪我をさせたくなかったが、私が甘かったな」


 腹に打ち込まれていたら、今頃立てなかっただろう。

 手加減された。


(お腹に来たらその時は躱していたんだから)


 その気になればカゲロウという小技もある。軸足の左足だけで身を半歩ずらすことができるのだから、直撃させるつもりはなかった。

 余裕をかましているモルガナの、小さな子を見るような目が気に入らない。

 モルガナからすれば、実際にアスカは成人前の少女なのだから仕方がないのだが。


 強敵、だと思う。

 アスカが見た中でなら、ノエチェゼで戦ったヤルルー・プエムよりも強いだろう。

 人間を相手に戦うことを職業にしているのだから、戦い慣れているのは当然だ。


 ちょうどいい。

 そういう相手とやりたかったのだから。

 それに――


(ゼフス・ギハァトよりは遅い)


 もっと強い相手の剣を目にしたことがあったのは幸いだった。



 再び対峙する。


「はっ!」


 伸びてくる右手は、拳ではなく貫手。

 避けたが、さらに伸びて小柄なアスカを掴んだ。

 肩を掴まれると同時に、掴んだモルガナのその肘を打つ。


「っ!」


 軽い。

 敵の腕が跳ね上がったのは、アスカの打撃ではなくて逃げられたからだ。


 代わりに、斜め下から左の拳が腹に迫る。

 アスカの腹、鳩尾辺りに向けて。

 今しがた相手の右腕を打ち払ったアスカの右腕、今度は肘を尖らせて敵の左拳を迎え撃つ。


「つっ!」


 お互いの口から息が漏れて、距離を離した。

 右肘が痺れるように痛む。

 アスカの肘を打ったモルガナも、その左手を痛そうに軽く振っていた。


「本当に、ただの子供ではないか」

「硬すぎるわよ。その手」

「鍛えているからな」


 当たり前のように、頭の悪そうな答えが返された。

 打撃戦では分が悪いと思う。

 リーチが違う。アスカより頭一つ半ほど大きな相手なのだから。


 掴まれたら、やはり不利なのか。

 アスカの方が小柄で、おそらく筋力でも負けている。

 そして経験でも。


「……ふふっ」


 つい、面白くなってしまった。

 記憶にある伊田家所蔵の漫画でも、強敵を相手にする時に不利な条件が重なることが多かった。

 勝ち目が薄い相手と正面から戦って勝つから意味があるのだ。


「本当のイダ森林流、見せてあげる」


 リーチだの体格だの、条件が違うのは構わない。違って当たり前。

 魔獣を相手にする時には、そんなものはいつもまるで違っていたのだから。

 そう考えれば、大森林で生きてきた日々と変わりはなかった。



  ◆   ◇   ◆



 雰囲気が変わった。

 モルガナは、春も半ばだというのに、首筋にぞわりと寒気を感じて身構える。


(なんだ?)


 数歩、離れた。


 最初の攻防で一撃当てたが、お互いに身を逸らした形になっていたので有効打ではない。

 ナルペール軍人の独特な歩行術。

 すり足での移動をしつつ、歩の途中からの踏み込みは、初見で見切るのは難しい。

 それに対して、知っていたようではなかったが、反射神経で対応した。


 防御ではなく攻撃というのも面白い。

 どんな修練を積めばそんな判断が出来ると言うのか。

 下段蹴りなら、一撃でどうにかなるということはない。

 耐えて、肩辺りを強く打てば動きを止められるだろうと。そう思った。


 だが、下段と思った蹴りが上段に跳ね上がった。

 小さな体のくせに、モルガナの顎を捉える蹴り。

 体の柔らかさも蹴りの鋭さも、驚嘆に値した。


 モルガナには見えた。

 見えたからこそ驚いたのだが。

 どこかの国の武術家の愛娘というところだろうか。

 この年齢で闘技場などに出入りするだけのことはある。


 会場が湧く。

 なるほど、このような可憐な少女が活躍すれば湧き上がるのも理解できる。

 ナルペール王国で十指に入ると言われる自分が、ここで負けるわけにもいかないが。


 あまり傷つけたくはない。

 出来れば軍にスカウトしたい。

 この年齢でこれであれば、どれほどの武人になるか。

 それに可愛らしい。むさ苦しい男どもの多い自分の職場環境にこんな少女を置くのも悪くない。


 二度目の攻防も、うまくいなされた。

 これについては相手の方が上手だったか。

 不用意に伸ばした右腕も、咄嗟に打ち出した左拳も、少女の反撃に痛む。

 痛いからと戦いを止めることはない。モルガナは軍人としての訓練を受けているのだから。


 むしろ痛んだ時こそ、目の前の敵を全力で仕留めなければと思うのだ。

 頭が、より攻撃的に。



「ふふっ」


 そこで、寒気を感じた。


「本当のイダ森林流、見せてあげる」


 首筋に、ぞわりと。



 異常だ。

 一連の攻防でこの少女になら理解できただろう。不利だと。

 それほど鈍い様子には見えない。


 なのに、己の苦境を知りながら笑う。

 強がり……ではなさそうだ。

 本当に楽しそうに。


「……どんな育ち方をしてきたのか気になるな」

「?」

「親の顔が見たいものだ」

「死んじゃったから」

「……そうか」


 迂闊だった。

 年端も行かない少女が闘技場などにいる理由を想像すれば、そんなこともある。


「すまない」

「いいよ、別に。お父さんとお母さんが教えてくれた戦い方を見せてあげるから」

「……そうか」


 少女にとって、両親のことは誇りなのだろう。

 何でもないように言っているが、少し目に力が込められた。


「……名を、聞いておこう。君の親の」


 これだけの少女の親なら、有名な人物かもしれない。

 詫び代わりに聞いてみた。


「……お父さんは、イダヒコイチ。お母さんは、イダメイコ」


 イダというのは家名なのだろう。

 先ほどもイダ森林流と言っていた。

 残念ながらモルガナの知る中には該当する人物はいないが。


「私は、イダアスカ……ヒコイチとメイコの娘、アスカよ」

「……烈武官モルガナ・ハドラだ」



 ふと笑ったアスカの顔が、消えた。


「っ!」


 下だ。

 距離を空けていてよかった。

 手を地面に着き、手足を使って加速しての突進。


「甘い!」


 その突進に向けて右足を蹴り上げるが、するりと抜けた。

 手で地面を叩くことで強引に横に移動してモルガナの蹴りを躱している。


(獣か!)


 剣士や武術家といった類ではない。

 野性味に満ちた全身を使っての戦い方。


(森林流とはよく言ったものだな)


 泥臭い戦い方かもしれないが、武器を主体に戦う人間よりも予測しづらい。


「しかし!」


 モルガナには見えている。

 どれだけ素早くても目で追えないわけではない。

 そして攻撃の瞬間には接近しなければならない。武器も魔術も使えないこの闘技場のルールでは。


 蹴りを避けてモルガナの左に跳んだアスカは、蹴り足がまだ地面に戻る前のモルガナに飛びかかる。

 モルガナはそれを受けずに、空を蹴った勢いを殺さずに前に跳んだ。

 土埃を上げながら振り返る。

 モルガナの態勢も崩れ、左手を地面に着きながら。


 アスカは、モルガナの横を通り過ぎた後、その横向きの態勢から再度モルガナに向かって跳んだ。

 右手と両足を使って横っ飛び。片手を地面に着いた姿勢のモルガナの顔に向けて、彼女の左の拳を。


(どんな身体能力だ)


 筋力も俊敏性も、本当に獣のようだった。

 だが、それでは獣の技だ。

 左手を地面についた姿勢でも、モルガナの右腕は空いている。

 モルガナの右の拳は、アスカの左の拳打よりも射程が長い。

 向かってくるのなら、そこに当てればいいだけのこと。


 今度は迎撃されないタイミングで、相手が突き出してくる腕の下、脇腹に右拳を突き出した。

 躱せるタイミングではない。

 アスカの左脇腹に吸い込まれるモルガナの右腕に、鈍い感触があった。

 どむ、と。


(にぶ、い?)


 腹を捉えた感触ではない。

 衝撃そのものは伝わったが、間に何か。


 アスカの右の掌が、自身の腹とモルガナの拳との間に入っていた。

 モルガナの拳を包むように。

 それでもいくらか衝撃は体に伝わっただろうが離さない。

 モルガナの拳を握り、突き出しかけていた左手も、刹那の間にモルガナの右腕を絡めとるように巻き付いて。

 にやりと、猛獣が笑った。



  ◆   ◇   ◆

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