三_09 水乙女_1
白耳鼬の耳は美味しい。
体の肉は大してうまいものではないが、耳の部位だけはとても美味しかった。
ヤマトとしては、メメラータが仕留めたそれを何も貢献していないのに食べるのは気が引けたのだけど、食べてみてよかったと思う。
白耳鼬の襲撃から三日が過ぎた。
船の雰囲気は良い。
天気も良い。相変わらず風は弱いが、ギュンギュン号の乗員同士の雰囲気は良好だと言える。
それもこれも白耳鼬の襲撃を一人の犠牲者もなく乗り切ったからだ。怪我人はいたが、死者はいない。
数匹に乗り込まれて誰一人死ななかったのは、ダナツの経験でも初めてだと言う。
大抵は一人二人が海に引きずり込まれて犠牲になる。悪ければもっとだと。
ヤマト自身の功績がゼロでも、致命的な被害が出なかったのだからそれが最良の結果だろう。
「……」
アスカも、危ういところだったがフィフジャが救ってくれたという。大森林でもそうだったが、いつも本当に命がけでヤマトたちを守ってくれる彼に感謝の言葉もない。
全て良かった。それでいい。
(……ダメだな、僕は)
納得しきれない自分が嫌になる。
活躍できなかったからと不満に思うなど、本当に幼稚で恥ずかしい。
ケガの影響や船酔いがなければ自分だって……という気持ちが湧いてくるのが抑え切れなくて、自己嫌悪に陥るのだ。
「浮かない顔ね」
そう声をかけてきたのはサトナだった。
「まだ船酔いがひどい?」
「ううん、違う。大丈夫だよ」
自分の低俗な悩みで心配をかけるのも申し訳がないので、笑顔を作って応じる。
そ、と短く答えてサトナは空を仰いだ。
彼女は波や風を見ることを主に担当していて、大体はそうして遠くを見ていることが多い。
帆は上げられている。この場合の意味は、帆を上に畳んでいるという状態だが。
速度を落として、別の船と接舷しているところだった。
低速だからサトナの手が空いているのか、それとも今は別の担当の船員がやっているのかはわからない。
「メメラータのこと、大丈夫?」
そんな風に世間話を振ってきた。
気になっているのだろう。サトナはメメラータとの付き合いが長いはずだ。
(もしかしてラッサとも仲がいいのかな?)
考えていなかった。体調も悪かったし色々と
ふと思い当たってしまったヤマトの顔色が曇るのを見て、サトナが慌てて手を振る。
「いや、別に聞き出そうとか責めようってわけじゃないから。メメラータはちょっと乱暴かもしれないけど黙っていたら美人だと思うし、あれで意外と乙女なところもあるのよ」
「
その単語に引っかかってしまったが、ヤマトもメメラータのことを少しはわかっているつもりだ。
腕っぷしが強くて気風が良い印象と、案外と傷つきやすい繊細な内面があったりと。他にも――
――ダナツさん、水三樽で銀貨十枚はやりすぎじゃあないですかね?
少し離れた甲板でのやり取りが聞こえてくる。
ダナツと話している相手をヤマトは知っている。ノエチェゼで最初に紹介してもらった船主だったから。
「俺ぁ別にいいんだぜ。無理に売るつもりもねえ。不足してるっていうから譲ろうかって提案してるだけだ」
「……それはそうですが」
「払えねえ金額を言ってるわけじゃねえだろ。むしろ、この状況じゃあ優しすぎるくれぇの格安料金だと思うがな」
ダナツの余裕の態度に苦々し気にしているのは、イオックという人だったはず。
ボンルが紹介してくれた気のいい船主だとかで、見た目は船乗りというよりは商売人という感じの。
渋々という形で金を払い、真水の入った樽を自分の船に運ばせる。
「おい、空樽も三つだぞ」
「わかっていますよ。業突く張りが」
捨て台詞を残して去っていくイオックの後に、空っぽの樽が三つ運ばれてきた。
ギュンギュン号の右舷に接舷していた渡し板を外して、また離れていく。
「けっ、てめえに言われちゃおしめえだぜ。イオックの野郎」
ヤマトはどうなのか知らないが、雰囲気からすると今はダナツが相手の足元を見た取引をしていたと思うのだが。
あまり仲良くない相手なのかもしれない。
ふと見れば、少し離れた場所でアスカが相手の船の甲板をじっと見ているのに気が付いた。
何か思う所があるかのように。
「……知り合いでもいたのか?」
アスカの様子が気になり、近付いて聞いてみる。
少しだけ首を傾げてから横に振った。
「ううん、ちょっと話したことがあるだけ」
離れていったイオックの船を見ると、ヤマトより少しだけ年上かと思える青年が甲板の掃除をしていた。
他にも今の渡し板を片付けて繋留していた縄を解こうとして、別の船員に叱られている若者もいる。
不慣れな船員……というか見習いというか。
「どうしたの?」
サトナがアスカに訊ねると、やはり少し考える仕草をしてから、
「あの人たち、たぶんお金を払って乗ってると思うんだけど……」
と、その不慣れな様子の若者たちを指した。
サトナは何か知っているのか顔を顰めて、その奥でダナツが呻く。
「けっ」
不愉快そうに吐き捨てるのは、彼も何か知っているのだろう。
「何かあるの?」
アスカが訊ねる。ヤマトが訊ねないのは、ダナツの心証ではヤマトが軽んじられていることを理解しているからだ。
重視しているアスカの疑問になら答えてくれる。
「俺ぁイオックの野郎は好かねえ。あいつのやり口はな」
「船代だけなのよ、それ」
不十分なダナツの言葉をサトナが補足した。
とはいえ、まだ十分ではない。
「?」
「食費だとかが入っていないの。水も」
「ああ」
運賃だけの料金を提示して、徴収している。
物品を運ぶのであればそれでもいいが、生きている人間を運ぶのならそうはいかない。
「海に出てから飯は別だ水は別だと。安い船代に釣られた間抜けが身包みはがされるか、ああして働かされるか」
言いながら、ダナツはもう一度面白くなさそうに鼻を鳴らした。
サトナも陰鬱な面持ちで溜息を吐く。
「それで」
「男手ならまあマシよ。重労働とか危険なことをやらされるけど、まだね」
「……」
アスカの顔がわずかに歪むのを見た。
その表情の意味をヤマトが察するように、サトナも理解したようだ。
「……あとは、中で
「……」
嘘つき、とでも言うようにサトナを見てから、アスカは被りを振った。
サトナの今の言葉はアスカへの気遣いだ。彼女を非難することではない。
ヤマトが言うまでもなくそう飲み込んだアスカの後ろで、またダナツが面白くなさそうに唸るのだった。
うまい話に乗せられて、そのツケを払わされる間抜け。
そうなのかもしれないが、正しいことだとは思えない。歪んだ行いだ。
聞いている誰もが不愉快な気持ちを抱いている。
「どうにかならないの?」
サトナに聞いてみるが、やはり返答は否だった。
「よその船のことはね、向こうから要望がない限りは関わらないの」
「それが海の掟だ」
掟か。
ただの規則という意味ではない。
大陸間を航海する船では、一定の規則を遵守することで少しでも安全を高めようという取り決めがあるのだろう。
安全が確保された旅路ではない。どういう危険があるかもわからないし、時には仲間を見捨てなければならないこともある。
長い歴史の中で現場に必要な掟が出来た。
素人のヤマトたちが口を出していいものでもないとはわかっている。
「ううん、本当に少し話して顔を知ってるってだけ。別になんでもないから」
そう言ってアスカは船尾の方に歩いていった。
船尾の、今接舷していたイオックの船とは逆の左舷に。
「ごめん、迂闊だったわ」
「別に君のせいじゃないよ。僕も知らなかった」
ついうっかり女性の扱いについて言及してしまったことを謝るサトナ。
こういう話の流れになるとは思わなかったのだから仕方がない。
ちょうど思春期初期のアスカにとっては特に消化しづらい話題だっただろう。
――どうしたよ、嬢ちゃん。元気ねえな。
――俺が海笛教えてやろうか。
――何言ってやがる、さっき
アスカが向かっていった辺りからやいやいと騒ぎ出す声が聞こえてきた。
やれやれと肩を竦めるサトナの視線の先には、こめかみに血管の筋を浮かべた船長の怖い顔があるのだ。
船員たちの雑談を微笑ましく思っている様子ではない。
「あいつら……てめぇらはてめぇの仕事しやがれ! 海に叩き込むぞ!」
「うっひゃぁ、おっかねぇ」
「あとでな、
「水乙女の為ならいっくらでも働くぜ!」
「じゃかましいわ!」
怒鳴って船員を追い回すダナツを見送って、サトナとヤマトは顔を見合わせる。
なんだかんだで、この船はいい雰囲気だ。
妙な呼び名が定着してしまっているのも理由があって仕方がない。
「水乙女、ねえ」
そんなに可愛げがあるものか、と。
先ほどサトナがメメラータのことを乙女と言ったのも、最近船員が口々に言うアスカの呼称があってのことだろう。
「大人気ね、妹さん」
「みたいだけど」
兄は色々と形無しだ。人気アイドルと地味な兄といった感じで。
「水乙女ね」
随分と素敵な呼び名をつけてもらったものだと、誇らしいのか何なのかよくわからないところだった。
◆ ◇ ◆
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