三_01 海を越えた世界_1



 海の広さはアスカの想像をはるかに超えていた。


 広いというだけなら大森林だって広かったのだが、あちらは視界が非常に狭い。

 海は違う。

 深く青い水を湛えた場所が視界の遥か先まで続いていて、頭で処理しきれないほどの距離が現実的でないとさえ思う。


 世界の広さを実感するのにこれほどわかりやすい場所もないだろう。

 ノエチェゼの港からも見ていたたはずだが、いざその大海原へと進むと、まだ自分の感覚が小さくとらわれていたのだと思い知ることになった。


 世界は広い。

 当たり前のことなのだけれど、確かなその光景を目に映したアスカの気分は、雲一つない青空と同じように大きく広がっていくようだった。



「う、ぼええっぇぇっ」

「……」


 隣で嘔吐している兄の姿というか、その吐瀉音に気持ちが曇るわけなのだが。


「ん、ん」

「あ、ふぁ……ぼげえぇぇぇぇっく、うぇほっぉふ……」


 背中をクックラにさすってもらって、さらに嘔吐を繰り返す。まだ吐くものがあるのだろうかというのは疑問だが。


 ひどい姿だ。

 アスカとしても責めるつもりはないし哀れに思わないでもないが、それにしてもひどい。



「はっはっは、ひでえな坊主」


 ギュンギュン号の船員がヤマトのその姿を揶揄する。

 そんな言い方をしなくても、と思わないこともないのだけど、


「『僕がいれば魔獣くらい平気だ』って、でかい口聞いといて。なっさけねえなぁ」


 わははは、と笑われるのも仕方がない。

 大口を叩いておいてこの体たらく。どうして兄はこう、フラグを立てるのが好きなのだろうか。

 ノエチェゼでもそうだったようだが、何か王道のイベントを踏襲しないと気が済まない体質なのかもしれない。

 とりあえず船酔い体質なのは疑いようがない。


 気持ちの良い晴天の海に、ヤマトの嘔吐の音が響く。

 船出は、順調なのかどうなのか怪しいものだった。



「三日もすれば慣れるだろう。俺も最初はそうだった」


 フィフジャの言葉が届いているのかどうか怪しい。

 船出してすぐに、まずは海の魔獣について大口を叩いたものの、ケガの影響で体力を消耗していた為に船室で休んでいた。

 起きて甲板に飛び出してきたかと思ったら、それからはげえげえとやっている。

 おそらく背中を擦っているのがクックラだと気付いてもいないだろう。

 ノエチェゼではほんの少しかっこいい兄だと思ったはずだが、この姿を見ての減点がそれを帳消しにして余りある。船酔いなのだから仕方がないとはいえ。


「……うぇ」


 笑われても反論する気力すらないようで、とりあえず吐くだけ吐いたのかふらつく足取りで船室へと戻っていった。

 心配しないでもないが、何か有効な手段もないので休ませておくしかあるまい。フィフジャがそれに付き添っていく。

 アスカは意識を切り替えて、再び海を見渡した。


「お兄ちゃんはひどいみたいだけど、あなたは平気なんだね」


 先ほどまで船首の方で風向きなどを見ていた女がアスカに話しかけてきた。

 船長ダナツの娘、サトナ・キッテム。


「アスカよ。兄はヤマト。この子はクックラ」


 名乗っていなかったかもしれないので、一応言っておく。


「アスカね。あたしはサトナ。クックラ、さっきは大変だったわね」

「うん、サトナ。よろしく」

「ん」


 少なくとも数十日の船旅の中で、一緒に行く比較的年齢の近い数少ない女性だ。仲良くしておいた方がいいだろう。

 そんなアスカの思いを知ってか知らずか、サトナはあっさりとした様子でよろしくと返した。


「私は……たぶん、乗り物に慣れてるから」

「そうなの?」

「小さい頃、家にあったねこ……荷車に乗って、ヤマトに押してもらったりしてたから」


 猫車と言いかけて、その呼称がここでは通じないと言い直す。

 森のでこぼこ道を、幼いアスカを荷車に乗せてヤマトが押すという遊びをしていたことがあった。

 船に揺られるのもそれに近いものがあるのかもしれない。先ほどフィフジャが言ったように慣れれば平気になるのだろう。


「グレイも元気なさそうだったぞ」


 ヤマトを船室まで送っていったフィフジャが戻ってきて報告する。

 船が出航してからしばらくすると、グレイはヤマトの寝ている近くで小さくなっていた。

 落ち着かない様子で、どうやら足元がふわふわするのが怖いらしい。これもどうしようもないので、休ませておくしかない。

 森では大活躍のコンビも、大海原では本来の調子にはほど遠い様子だった。



「海の魔獣じゃないんだ。仕方ないよ」

「そうだよね。海の魔獣ってどういうのがいるの?」


 せっかくなのでサトナに聞いてみる。もし襲われたら、乗客だからと見ているだけというわけにもいかない。

 アスカだって自分が並みの戦士より役に立てるという自負があるのだから。

 そういうアスカの勝気な性格が好ましいのか、サトナは笑顔で応じる。


「海は種類が多いからね。まあ有名なのだと、小浮顎しょうふがく太浮顎だいふがく切波背きりばせとか。虚二結こふたつゆい……白耳鼬びゃくじゆうなんかが出たら厄介かな」

「白耳鼬?」

「でっかい獣よ。もし群れに遭遇したら絶対に逃げる。っていうか遭遇する前に回避しないとやばい」


 名前からすると白い獣なのだろうとは思うのだが。

 そういえば、アスカは以前から気になっていたことがあった。



「魔獣の名前ってさ、二種類あるじゃない?」

「?」


 サトナとフィフジャが、アスカの言い出したことに疑問の表情を返す。

 少し唐突だったかもしれない。もう一度言葉を変えて聞いてみた。


「ええと、ほら。皮穿血かわうがちとか黒鬼虎とか、その姿形が名前になっているのと、ババリシーとかニトミューみたいな愛称みたいなのと」

「ああ、そうだな」


 フィフジャはアスカの聞きたいことがわかったようで、まだいまいち意図がわからないサトナはきょとんとしている。

 動物の名前なんて昔からそういう風に決まっているものだろう、と。

 生まれ育った言語圏ではないアスカだからの疑問であり、生まれた時からそれに慣れているサトナにはわからないのだ。


「主に家畜だな、鳴き声なんかが名前になってるのは。ブーアはそのままだし、ニトミューは生まれた頃にはみゅーみゅーと鳴くんだ」

「へえ」

「ババリシーは俺も知らないが」


 家畜になるような生き物は、普段から人々の近くで接する。その鳴き声などから名前が定着したのだとして不思議はない。


「魔獣なんかは見たことがない人間も多い。だから、名前でその姿形や生態が想像できるように名付けられたんだろうと思う。牙兎は、まあ見たまんまだな」

「バムウは?」

「あれは子供の遊具の名前をつけられている。丸めた球の呼び方だ」


 なるほど、とフィフジャの説明に納得する。

 前々から疑問だったのだが、魔獣の名前はそういう実用性もあって名付けられているということか。わかりやすくて良いとアスカが思うように、この世界で生きる人たちにとっても同じように。

 太浮顎。空を飛ぶ大きな口の魔獣だと、見たことがない人でも想像が出来る。


「ええと……もう一匹、いたじゃない。白くて大きい、あのSHIROKUMA……」


 先ほどの白耳鼬ではないが、白くて大きな獣は見たことがある。名前を思い出せなかったが。


「白い……ああ、ブラノーソか」

「そうそう、それ」


 森で出会った白熊。あれはどういう理由で名付けられているのか、今のルールと違う気がする。


「あれはラノーソの関係って話だと思ったが」


 言いながら、フィフジャも記憶が曖昧な様子で、あまり自信がなさそうだった。


「ラノーソ? ユエフェンの町のこと?」


 聞いていたサトナが横から聞くと、フィフジャは半端な頷き方をする。


「その、ラノーソの町の近くだったのか、ラノーソっていう戦士だったか。ラノーソを倒した近くの町がラノーソって名前になったんだったか。その地方に多く生息しているという話だったような」

「よくわからない話ね」


 サトナの言葉にアスカも同意だが、フィフジャとて何でも知っているわけでもない。

 うろ覚えでアスカの疑問に答えが返せずに、フィフジャは軽く肩を竦めた。


「そんな謂れがあるって話だ。俺もよく知らない」

「ユエフェンって寒いところだったよね」


 今向かっているリゴベッテとは違う大陸で、気候的には寒いと聞いている。

 白熊のような生物が生息していても不思議はない。その仲間だから同じような名前がついているということなのかもしれない。

 ブラノーソのことは置いても、とりあえずの疑問は解消された。



  ◆   ◇   ◆

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