二_073 ~閑話~ 曇り空の下で



 嵐が近づいていた。

 北の空から雷雲が近づくのが見える。

 沿岸部を襲った嵐が内陸部へと近づきつつあるのだ。


 恐れることはない。毎年のことでもあるし、沿岸部ほどひどく荒れることもない。

 夏の終わりを告げる嵐という程度。

 このズァムナ大森林の端でも大差ない。




「やっとお出ましかい」


 彼女は大きく溜息を吐いた。

 森に向かって。


「……待ち合わせたわけでもないさね」


 森が答えた。

 低く静かだがよく響く声で。


「なんだい、そりゃ。しまらないじゃないか」


 彼女が指摘したのは受け答えに対してではなかった。

 茂みを分けて森から出てきたそれに対して。

 姿を現した伝説の妖魔 《朱紋しゅもん》の威容に対しての感想だ。


「大したことじゃあないよ。ちょいと掠り傷さ」

「はっ、約束を守らないからそんなことになるのさ」


 《朱紋》

 白い巨体の猿の姿に、下腹から肩、耳の辺りへと炎のような朱色のたてがみを持つ妖魔。

 襟のような紋様のその朱色とは別に、胸に斜めに赤い傷跡が二つ。

 掠り傷というにはやや深い。


「だぁれが約束を破ったってんだい」

「あの子らを襲ったんだっていうじゃないか。森を出ようとしてたのがわからなかったとは言わさないよ」

「ちょっとからかっただけさね」


 バツが悪そうに、悪戯を見咎められたかのように、伝説の妖魔が顔を逸らした。

 竜人の大長、ゼヤン・ジナから視線を逸らした。


「その悪戯に夢中になっていて虎に襲われたって? 笑わせるじゃあないか。ルドルカヤナが教えてくれなきゃやられてたんじゃないかい?」

「バカをお言いでないよ。あたしを誰だと思ってんだ」


 吐き捨てるように言ってから、憎々し気に大森林の上空を睨む朱紋。

 その眼には何も映らなかったが、ふんっと鼻を鳴らす。


「あたしがやられたところで森は変わらないさ」

「そうかもしれないけどね。あたしゃ、あんたしか知らないから」

「《朱紋》を知っているような人間はお前さんくらいのもんだよ。おかげであたしもあんたらの言葉を覚えられたから悪かないがね」


 少しだけ機嫌が直ったのか、朱紋の声が愉快気に揺れる。

 ゼヤンも、まさかこの朱紋とこんな風に話す日が来るとは想像もしていなかったが。



「森の奥から現れたって言うから、そっちの方の言葉が通じるのかと思ったんだけどねぇ」

「うちらの言葉はわからないみたいだったよ。っても、普人……ヘレムの言葉も慣れてない様子だったね。どういうわけなんだか」

「どっちの言葉とも違うってのかい?」


 ゼヤンの話を聞いた朱紋と共に首を傾げる。

 あの子たちの正体がわからない。竜人の経緯を知る大長と伝説の妖魔朱紋が揃っていてもなお。

 


「どんな出自かはわからんけどあの子らは森の子に違いないよ」

「そうかい。こっちは人間と仲良くお喋りなんてできないもんさ、普通は。あの時あんたを取り逃したのは、それはそれで良かったってことかねぇ」


 若い頃のことだ。

 腕に自信があったゼヤンは、己を過信してズァムナ大森林の奥地を目指したことがあった。

 当然、森の守護者と噂される朱紋と戦うことになり、命からがら逃げ延びたのだが。


 なぜか、それからこんな風な関係になってしまった。

 ゼヤンから言葉を教わった朱紋の喋り方はゼヤンに似ている。



「森に入ろうとする者を殺す。それがあんたの役目なんだろう」

「ああ、そうさ」

「だったら森を出ようとしたあの子らを襲うのはおかしいじゃないかい」

「……からかっただけさね」


 今度の言い訳には少し力がなかった。

 自分でも少しはまずかったと思う気持ちがあるのだろう。

 妖魔は獣と違い知性がある。だからこその感情。


「あの子らは、なんだと思うんだい?」


 ゼヤンの質問。

 ズァムナの子だなどと言ってみたが、この大森林の奥地に本当に人間が暮らしているとは思えないのだ。

 一度は踏み込んでみたゼヤンだからわかる。人間が住むには環境が過酷すぎる。一定以上進むと獣たちが異様に好戦的になるのだ。


「知らないよ」


 朱紋の答えは素っ気ない。


「大森林の中心部はあたしらも入らない。原始からの獣と、あの馬鹿鳥……ルドルカヤナくらいさ。あの鳥は喋らないから知らないよ」


 ゼヤンにはわからないが、そういう取り決めがあるのだろう。

 あの子供たちの正体がわかればと思ったのだが、そこまで期待していたわけではない。

 竜人の祖先について知っている朱紋でも把握していないことがわかっただけ。


「だけどね」


 朱紋が続ける。

 その猿の顔を、意地悪気に歪めながら。


「あの子らが森に帰ろうとするってんなら、容赦はしないよ」

「……」

「ズァムナ大森林の深奥を目指す人間は殺す。《朱紋》が森にある限り」


 迫りつつある雨雲が、稲光と共に雷鳴を轟かせた。




 今頃、彼らははノエチェゼの嵐の中だろうが、それもそろそろ過ぎる頃だろう。

 願わくば、何事もなく船出が出来ればいい。


「それがあたしらがヘレムから受けた使命だからね」

「……そうかい」


 ゼヤンは北の空を見やる。

 嵐の向こうで、彼らは無事にやっているだろうか。


 良い子たちだった。

 竜人の始祖と何か関係があるのかないのか。ないとしても、元気で幸せに暮らしてほしいと思う。

 彼らの境遇がそれを許すのかどうかはわからないが、できればつらい道など歩んでほしくはない。



「……戻らないといいけどね」

「お互いの為ってんならそうさ」


 朱紋もまた、彼らが戻らぬことを望んでいるようだった。

 夏の終わりを告げる嵐が、大森林に差し掛かろうとしていた。



  ◆   ◇   ◆



 目を覚ます。

 辺りはまだ薄暗い。

 明るかったところで心境が変わるわけでもない。

 自分の心の内は、薄暗いままだ。


 喉が痛い。

 夢を見ていたのだろう。いつもの悪夢を。

 声は出ないのだが、必死で呼ぶのだ。何度も、何度も。

 失ったものを。失ってはいけないものを。

 薄暗い闇の中で、どれほど手を伸ばしても届かない、大切なものを掴みたくて。


 身を起こして、あまりの静けさに歯ぎしりをする。

 誰もいない家で、一人きり。

 何年経ったところで忘れられない。この家に笑顔と元気な声が溢れていた頃のことを。

 起きて台所に行き、コップに水を灌ぐ。やや乱暴に、溢れるほど。

 それを渇ききった喉に流し込む。


 まずい。

 まずい。

 あれ以来、何を口にしてもまずいとしか思わない。



 妻は、どうだったのだろうか。

 元妻だ。いつまで自分の女房と思っているのか。


 ひどく罵られた気もする。激しく責められた気もする。

 いつも泣いていた。泣かせた。泣き止ませることはできなかった。

 今でも、何も変わらない。

 当時と違うのは、今は一人だ。


 彼女は、それでもすぐに出て行ったわけではない。おそらく自分を支えようとしてくれていたのだ。

 あんなにボロボロの状態だったのに、夫だった自分を支えようとしてくれたのに。


 応えられなかった。

 堪えられなかった。

 彼女の心情を察することは出来る。彼女の荒れ狂う気持ちを聞くことは出来る。


 けれどそれと同じくらいに。自分の主観で言えばそれ以上に。

 自分も心が壊れていたのだ。引き裂かれ、荒れ狂い、悲嘆に暮れていたのだから。

 彼女が出て行ったのは息子の為だ。幼い息子の為に。

 その判断は冷静に考えれば正しいと思う。決して責めるつもりはない。


 おかげで一人になれた。

 一人に慣れた。

 こうして誰の目も気にせずに泣き通すことが出来る。


「芽衣子……芽衣子、俺が必ず……」


 流しに涙が落ちる。

 鼻水も、涎も、顔じゅうがべたべたになるほど。



「……」


 振動音に気付き、軽く顔を洗った。

 適当に水滴を拭いながらそれを手にする。


「先輩、寝てました?」


 スピーカーの向こうから遠慮がちな呼びかけが聞こえる。


「大丈夫だ、起きていた」

「まだ四時過ぎですけど……いえ、遭難者の捜索協力の依頼があったんで。隣の市ですけど」

「わかった、行く」

「先輩休みじゃないですか。一応、必ず連絡しろって言うからしてますけど」

「いいんだ、行く」


 自分の要求の通りの行動だ。

 遠慮がちな様子だが、何も遠慮する必要はない。


「行く」

「……わかりましたけど、いつまでも若くないんですからね。休みは――」


 ぶつり、とそこで断ち切る。



 行方不明者や遭難の人間があれば、とにかく率先していくと決めている。休みなら特に自由が利く。

 どこに手がかりがあるかわからないのだから、全てに向かう。


 今の自分に出来ることはただそれだけだ。

 そんなことしか、娘の為にしてやれない。

 どことも知れぬ場所に置き去りにしてしまった娘の姿をもう一度、と。



「……」


 寛太は、もう一度水を飲んだ。

 顔を洗って、仕事着に着替える。

 もしかしたら、今度こそは、あの森への手がかりがあるかもしれないのだと。


「芽衣子……パパが必ず迎えに行くからな」


 尾畑寛太は、生まれ育った故郷で、今も彷徨い続けていた。



  ◆   ◇   ◆


 ////////////////

 第二部 ノエチェゼの紅い夜 終わり

 この後、航海場面に続きます。

 少し更新をお休みするつもりです。

 感想などお聞かせいただけたら喜びます。

 読んで下さる方々に心より御礼申し上げます。

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