二_054 幼さを知る



 うずくまる。

 膝を抱えて体を丸めた姿勢。自分以外の世界から自分を守るかのように。

 顔は膝に埋めたままどれくらいになるか。眠っているわけではない。眠れないし、気が休まらない。

 ドアを叩く雨風の音がだんだんと強くなっていた。今は強風というところだが、もっと激しくなるのかもしれない。


「……ん」


 こて、と。

 抱えこんだ体の腿の辺りに小さな衝撃を感じた。

 服は乾いていた。だいぶ時間が過ぎたようだ。


「……」


 うとうととしながらアスカにもたれかかってしまったクックラは、黄色いヘルメットが少し窮屈そうだ。

 眠るなら外した方がいいだろう。

 そっと顎紐に手を掛けて外すと、クックラは反対側にごろんと転がりそのまま床で寝息を立て始めた。


 疲れていたのだろう。無理もない。

 雨の中、必死に逃げたのだ。クックラの逃げ足が大人に負けないほど俊敏だったことを幸いに思う。

 その逃げ足だから、岩千肢からも逃げ延びることができたとも考えられる。



「……」

「アスカも少し休め」

「……」


 雨で濡れたまま体温で乾いた体というのは、夏でも少し寒く感じる。

 体を丸めていたのはそういう理由もあったのだと思う。意識はしていなかったが。


「少し、休め」

「……ちょっとだけ、楽しかったの」


 ぽつりと、自分の気持ちを言葉にする。自分の中でも整理できない気持ちを口にしてみる。

 アスカは幼いのだ。精神的に成熟していない。

 自分では何でも上手く出来ると思っているのだが、心の整理が出来ない。


「……ああ」


 フィフジャは質問をしない。静かにアスカの言葉に頷くだけ。

 彼は大人だと思う。アスカの言いたいことなどアスカにもわからない。まして他人の彼にはわからないだろうに、適切な応対をしてくれる。


「楽しかったんだと思う。一緒に……少しだけど、一緒に旅をして。ご飯食べて一緒に笑って……」

「ああ」


 今度は、理解もある声音だった。

 先ほどの戦闘のことではない。ここ数日のことなのだと。


「……友達、みたいな。そういうの今までいなかったし、わからないけど」

「ああ、そうだな」


 フィフジャは知っている。

 アスカが、あの大森林の奥地で家族だけで暮らしていたことを。

 他人などいない環境で生まれ育ってきたことを知っている。


「……楽しかったんだよ」

「そうか」


 外の雨風の音が強いとはいえ、すぐ近くにいるフィフジャにはアスカの涙声はわかってしまうだろう。

 消え入りそうな声なはずなのに、彼はちゃんと聞いてくれた。



 ここに逃げ込めたのは幸いだった。

 逃げながら、雨足が強くなってきて視界も悪くなっていた。

 アスカの代償術による瞬間水蒸気の突風で追手を撒くことはできた。一時的にでも。

 視界が悪いのは追う方としても難しいが、逃げる側としても視界が悪いのは良いとは言えない。

 はぐれるかもしれないし、前方に敵がいるかもしれない。


 ふと目に留まったのは、縄に撒いた石が吊るされたドア。

 これは空き家の印ではなかったかと。


 ドアに閂はかかっていなかった。中に入り誰もいないことを確認して、そこに息を潜めた。

 どうしたものか悩んだが、ドアの外の石縄は外した。

 追手の中にもしこの家の関係者などがいれば不審に思われるかもしれないが、その確率は決して高くない。

 それさえわからなければ、多くある建物の中のどこに逃げ込んだかなど見つけることは難しいはず。


 まして雨だ。このままなら嵐にもなりそうなのだから、どれだけ優秀な警察組織があったとしても簡単に見つけられるとは思えない。

 しばらくはここで凌げるだろう。

 そう考えて座り込んだものの、興奮した体が寝付くまでに落ち着くことはなかった。


 クックラが寝付いたことで、ようやく少し気持ちが治まりつつあることを自覚する。

 ふと痛みを感じて見てみれば、左手の肌があちこち切れていた。


「た」


 ひどい手荒れというか、折れた木の断面でも擦り付けたような状態。

 わかっている。水蒸気を発生させた時の反動だ。


 フィフジャよりも出力が高いらしいアスカであれば、水を瞬間的に気化させるほどのエネルギーを扱えるようだった。

 当然だけれど水蒸気ということは摂氏百度を超えるのだし、発生した烈風もまともに受ける。まるで無傷というわけにもいかない。

 やはりこの世界の魔術というのは無条件に便利に使えるものではない。


「……」


 黙ったまま、荷物の中から秘伝のアロエ軟膏を出して手に塗った。

 よく見たら他にも傷があったのでそれらも一緒に塗ってしまう。



「私、甘かった」


 塗りながら、心の葛藤を言葉にする作業も続ける。


「……」

「襲われて、殺さなきゃって思った時に……フィフに聞いたよね」

「……ああ」

「甘えてた。フィフに、殺してもいいって言ってほしくて……私、責任を押し付けようとした」

「いいんだ。それで」

「よくないよ」

「いいんだ」


 フィフジャも譲らない。

 彼ならそう言うとわかっていて、その優しさを期待して言っているのかもしれない。


「アスカ、君はまだ子供だ。そんなこと誰だって割り切れるもんじゃない」

「だって……でも、フィフは私のお父さんじゃないから。だめなんだよ」

「……」


 子供だから、甘えてもいい。それはそうかもしれない。

 大人が責任を負う必要があることもある。

 でもそれはきっと、親とか、そういう人が負うべき責任だ。

 いくら優しいからといっても、赤の他人にこんな責任を被せるのは違う。ヤマトに頼るなら許されるかもしれないが。


「私は、出来ると思っていたの」

「……」

「もしあんな状況で、違う場合でも。本当に私やヤマトが危険だと思ったら、迷わず出来るって……そう思っていたの」

「そんなに簡単なもんじゃない」

「そう、わかってなかった」


 噛み締める。

 自分の至らなさを。

 思い上がっていた自分の愚かさを、ぎりりと歯を噛み締めて。


「わかってなかったって、わかった」

「ああ」


 何度も、殺意を抱いた。

 あのヤルルーの背後を取った時も、殺すと思った。殺せると思った。

 事実、あの時に全力で首を捩じり切っていたら命を奪うことも出来たと思う。だけど意識を奪えばいいと思って、締め上げた。


 殺すのが怖くて。人を殺したくなかったから。

 そういう自分をわかっていなかった。

 幼かった。それは仕方ないけれど、正しく自己認識できていなかった自分の愚かさが悔しい。



「あの時……」


 座り込んでいる近くの床に、濡れた鉈が投げ出されている。

 ぎらりと、薄暗い室内で金属が光る。


 雨に濡れ、温度のない冷たい刃は濡れたまま。

 乾かない。


「……やらなきゃ死ぬって思って」

「ああ……」

「死にたくないって、思ったの」


 ただそれだけのこと。

 切羽詰まって、殺すのが怖いだとかそんなことを考える余裕もなかった。

 ただ自分が死にたくないと、それだけしか頭になかった。


「でもさ、本当に……本当に、友達みたいだって……思ってたんだよ」

「……ああ、そうだな」


 フィフジャはそっとアスカの頭を撫でて、静かに頷いた。


「大丈夫だ、わかってるから」


 フィフジャの手は大きくて、ただ優しかった。



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