二_017 岩千肢_1
最初に異変を察知したのはグレイだった。
それまでアスカのやや後ろを歩いていたのが、小さく唸り声とともに速度を上げて近くの少し高い岩に飛び乗り、前方を見据えて低く唸る。
朝から進み始めて一刻ほどのところで、グレイの警戒の声に空気が張り詰めた。
「どうしたの?」
尋ねながらも危険が迫っていることは明らかだったので荷物を下ろして鉈を手にした。
他の同行者も同様に、身軽になってそれぞれの獲物を手に周囲を警戒する。
「ちっ、岩千肢だな」
岩陰からちらりと黒っぽい艶のある何かがアスカにも見えた。
目測で二十メートルほど先の岩の裏側にそれは潜んでいた。日陰側にいるのは日差しのせいなのか、黒い体を隠すのに適しているからなのか。
こちらの気配を認識したのか、ギチギチと音を立てながら姿を現す。
図鑑で見たムカデのような節のある長い体。長さは八尺(240cm)を超える。
岩千肢。手足がたくさんあるという話だったが、その通りだ。
「……ASYURA」
百足ではない。三本指を有する長い腕が三対、六本生えていて、そこから後ろは短くなっている。
鎌首をもたげる頭にはピンク色の歯茎が剥き出しになっていて、黒ずんだ臼歯が並んでいた。
頭部の半分以上がその口で占められており、その唇にあたる部分にいくつも黒い粒がはめ込まれている。それが目なのだろうか。
首に該当する部分にはうにょうにょと蠢く太い体毛が生えていて、先端にオレンジ色の球状の器官があった。無数の触手のような。
「ボンルさんよりでかいんだけど」
「おお? おぉ……」
苦々しく言ったヤマトにボンルも言葉が出てこないのだろう。震えた声を返すだけだ。
想定外の事態。
(こうなるんじゃないかとは思っていたけどね)
まあ想定内の事態とも言える。
体の太さはアスカの体と同じくらいだ。節のある黒い甲殻で出来た体で、頭部の大きさもアスカの頭と近い。
腕の太さもアスカの腕と同じくらいだが、その長さはアスカの身長くらいある。
アスカは阿修羅と言葉にしたが、腕が長細いので造形としては千手観音像の腕に似ているかもしれない。
アスカが日本の昆虫に詳しければトンボの体の対比と似ていると思ったかもしれないが、現物を見たことがなくてすぐに連想できなかった。
「他にもいるぞ!」
フィフジャの声に視線を向けると、追加で二匹の岩千肢が別の岩陰から姿を現した。
「ぶぇ、でかいぞぉ」
「こんな大物が三匹も出るなんざ聞いてないですぜ」
追加のうちの一匹は最初のと同じような大きさだったが、もう一匹はさらに大きい。十尺はあるのではないか。
『グルルゥゥ』
ギチギチと、動く際に関節をぎしぎしと軋ませる岩千肢にグレイが低く唸る。
「フィフ、弱点ある?」
「わからん。あー、泥沼とかだ」
以前に相手にした時のことを思い出したのかそう言ってくれるが、残念ながらここは渇いた岩場で沼みたいなものはない。
足が短いので沼に足を取られると身動きが取れなくなるのかもしれないが。
「それは参考になりそうね。ありがとう」
「俺に怒るな」
わかっている、八つ当たりだ。
「僕が一匹は相手にする。後は頼む」
「ばっ、坊主!」
一番左手の一匹に向かって槍を手に突っ込むヤマトにボンルが静止の声を掛けるが、ヤマトは止まらない。
あまり近づきすぎると身動きが取れなくなる。
「爪に引っかかれると火傷みたいに痛むぞ!」
「わかった!」
最低限の敵の情報を耳に入れて、ヤマトは槍を鋭く突き出した。
アスカの目から見てもその突きのスピードは尋常ではない。グレイが時折見せる獲物を狩る刹那の一撃に匹敵するレベルだ。
そうは言っても、攻撃が来るとわかっている岩千肢にとっては避けられないわけではなかった。
体の関節をくねらせ、人間にはおよそできないような体勢で突きを躱す。
躱すと同時に、縮めた関節をバネ仕掛けのようにして弾丸のような速度で打ち出してヤマトに噛み付いた。
「ヤマト!」
「ぬぁぁっ!」
フィフジャの叫び声は遅い。
その時点で既にヤマトは、飛び掛ってきた岩千肢の顎――顎なのか頭なのかわからないが、噛み付こうと伸ばしてきた頭部を槍の石突で思い切り殴り飛ばしていた。
「んなっ!?」
「ボンル、前を見なさい!」
ヤマトの動きに目を奪われたボンルに岩千肢が迫るのを見てアスカが叫ぶ。
ボンルから少し離れた位置にいるから、その動きがよく見えていたのだ。
視線を戻したボンルの目に、一番の巨体の岩千肢が関節を凝縮させて飛び掛るエネルギーを溜め込み終わった姿が映る。
フィフジャは、グレイと共にもう一匹の岩千肢に向き合っていてそちらに気を配る余裕がない。
「しまっ――!」
十尺を超える岩千肢が、砲弾のように飛び掛るエネルギーを受け止めることは出来ない。
躱すべきだが、反応が遅れている。
そもそもこの異常な状況に身が竦んでいた。思い通りに体が動かない。
「だああああぁぁぁぁ!!」
間一髪で躱したのは巨大岩千肢。
猛烈な勢いで振り下ろされた大斧が岩千肢が飛びかかる進路を叩き割っていた。
飛び掛った体を、地面についた一番後ろ側から数本の足で固定して無理やり引き戻す。
そのまま飛び掛っていたら、ボンルに食らいつくことは出来たかもしれないが、大斧で甲殻を割られていたか関節を切断されていたか。
「ボンルさんはすごいんだぞぉ!」
「助かった、ウォロ」
礼を言うボンルだが、アスカはそんなことより脅威を感じていた。
飛びかかろうとしていた、のではない。飛びかかっていたのだ。とてつもない速度で。
そこから、後ろ足での強引な回避運動。
今のタイミングでのウォロの攻撃を躱す瞬発力と強靭な膂力。巨体に似つかわしくない尋常ではない挙動。
先ほどヤマトが普通ではない反射神経で岩千肢を薙ぎ払ったのと、同じくらいの反応がこの巨大な岩千肢に出来るのかと。
関節を凝縮させてからの突進攻撃の速度は、あの【朱紋】のカタパルト式空中殺法に近いのではないかと思うスピードだ。
その速度で突進しておきながら、危険とみるや強引に回避まで出来るなど、朱紋を超える脅威に思える。
「何が岩千肢の一匹や二匹心配ない、よ。とんでもないじゃない」
「こんなでかいのは見たことねえよ! 速さも段違いだ」
筋力が違うのだ。
この大きさにまで育った岩千肢は、それに比例して体を支える筋力が発達している。
体重も増えているはずなのだが、それで素早さを損なっていないのは体の仕組みのためなのか。
「ウォロ!」
地面に突き刺さった大斧を抜けずにいるウォロに巨大岩千肢が再び仕掛けようとした所を、ヤマトが間に入って牽制する。
ヤマトが相手にしていた岩千肢は、頭部を打たれた衝撃からかふらふらと距離を取ろうと背を向けていた。
「ツウルウは何やってるの!」
「あっしはこんな荒事は無理でさ」
何の助けもしてこない同行者に苛立ちの声を上げるアスカだったが、当の本人は悪びれた様子もなく軽く答えてみせた。
一人だけ、全員よりいくらか後ろに位置して、いつでも逃げられる体勢だ。
「いい、ツウルウは周囲を見ていてくれ!」
フィフジャの判断は冷静だった。脅威がこの三匹だけとも限らない。荒事に不慣れなものを参加させるより、集中して敵に対峙するために周囲の警戒の役割をしてもらったほうが有益だと。
ツウルウの手持ちの武器は短剣だし、筋力もそれほど強いとは思えない。岩千肢に有効な攻撃手段はないだろう。その判断が正しい。
アスカは鉈を両手持ちにして、短く息を吸い込んだ。
「っ!」
狙いはヤマトに意識を割いている巨大岩千肢。こいつが最大の脅威なのは間違いない。
ヤマトに口顔を向ける岩千肢の横から、踏み込みと共に鉈を振るおうとしたアスカの踏み込むタイミングで、巨大岩千肢の尾がアスカの方へ薙ぎ払われた。
「っそぉ!?」
嘘だ。見ていなかったはずだ。
咄嗟に鉈を体の前に構えて岩千肢の尾を防ぐアスカだったが、一番尻尾に近い部分の足が伸びてアスカの腕を掠める。
岩千肢の固い甲殻で打たれるのは防いだが、腕の表面に赤くミミズ腫れのような後が一筋残った。
「あ、つぅ……」
切れたような痛みではない、熱い感覚。
だが、痛かったのはアスカだけではない。
「砕きやがったのか!」
岩千肢の節のある長い体の、尻尾に近い部分の甲殻に切れ目が入っている。
先ほどアスカが鉈で防御した際に強打した場所だろう。
日本製の鉄の鉈の切れ味は、手入れをしてきたお陰で切れ味はそう悪くなっていないようだ。
◆ ◇ ◆
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