二_016 覗く月



「覗かないでよ」

「僕に言うな。見ても何の得もないのに」

「覗かせないで、って言ってるの」


 言ってないだろという言葉を飲み込んで、わかってると答える。

 妹の裸なんて覗いて何が楽しいというのかと。


 念押しされなくても、仮に誰かがそんなバカなことをしたとして機嫌を悪化させたアスカの被害を受けるのはヤマトだ。

 直接攻撃は他に向かうのだと思うが、殺気立った妹を止められる人が他に誰かいるだろうか。

 不都合しかない。


(そんなに気になるなら水浴びしなきゃいいのに)


 そう思うヤマトなのだが、アスカが気にしているのはボンルの体臭が移っているのではないかという生理的嫌悪感から。暑くて汗を掻いているからということもある。

 我侭な妹の希望に背くことを言っても、あまり楽しいことにはならないだろう。



「けっ、ガキの裸なんて見ても面白くもねえよ」

「……そうだといいけど」


 じとっとした視線をボンルに向けてから、アスカは野営地から少し下った川の方に歩いていった。

 川は蛇行しているので、岩場から遠ざかったり近づいたりしているのだと。

 この辺りは少し下れば川に出られるのだという。事実、見えていたし。


「グレイ、おいで」

『オンッ』


 警戒のためにグレイを連れていく。

 町から近いこの辺りに、凶悪な獣はそうそう生息していないということだが。例の岩千肢いわちしくらいだという話だが、それも川辺に近付くとほとんど出ないのだという。

 用心しているのはそれらとは別のことか。


 夜食の為に焚いた火はもう消した。夜になり多少は気温が下がったがやはり暑い。地面が熱を持っている。

 もうしばらく進めばまた道と合流するということで、今夜はここらで休憩ということにしたのだが。


「……お前の妹はなんだ、すげえ自惚れ屋だな」


 ボンルが疲れたような溜め息混じりに言うので、ヤマトは苦笑した。


(そういうボンルさんも結構なもんだと思うんだけどね)


「可愛い可愛いって育てられたから」

「そりゃあまあ確かに見かけは悪くねえけどな。あー、そういやお前らの親って……」


 ボンルたちの視線を向けられたフィフジャの表情が暗く固まってしまう。

 親は、どうしているのか。気になって当然だ。

 成人前の兄妹が二人、明らかに親ではない青年に連れられているのだから。


「死んだんだ」


 フィフジャの口からは言いにくいことだろうと、ヤマトが小さく言葉にするとボンルは気まずそうに俯いた。


「すまねえ」

「いや、いいよ」


 先ほどまで肉を焼いていた焚き火の灰に枝を突き刺しながら、ヤマトは短く答えた。



 ぷすぷすと燻った残り火の弾ける音が、ヤマトの心中の燻りと重なる。

 ぱちんとはぜる音と共に、小さな火花が散った。

 おそらくこの先でも似たような質問は受けるだろうし、この消えない悲しみもいつまでも心の中にあり続けるのだろうと。

 アスカがいない時に聞いてくれてよかったと言えるかもしれない。


「……おぅぅ」


 くぐもった声に顔を上げると、ウォロの両目からぼろぼろと涙が溢れていた。


「な、なんでウォロが泣くの?」

「だぁって、なあ……小さいのに、おとうもおっかあもなくして、なあ……かなしいなぁ」


 巨漢の竜人が、他人事で体裁も取り繕わずに泣いている。

 それはもう、べしょべしょに。


「このデカブツさんは母親べったりなんすよ」

「おっかあ、おいらがボンルさんとお仕事できてよかったって喜んでくれるんだ」


 母親から褒められたことを思い出したのか、泣き笑いのような顔をするウォロ。

 体力的には十分すぎるほどのウォロだが、要領はあまりよくなさそうだ。ボンルがうまく雇用することでウォロも母親も助かっているというところか。

 体よく利用されているだけなのかと思っていたが、その辺の事情もあるから良好な関係なのだろう。


「お母さん、喜んでくれてよかったね」


 そう言いながら、ふとヤマトの目にも涙がこみ上げてくる。

 自分の母も喜んでくれるのだろうか。ヤマトが何かを成し遂げたときに。



(バカだな、僕は……当たり前だ)


 喜ばないはずがない。ウォロのように直接その姿を見せることはもう出来ないけれど。

 咄嗟に目元を拭う。


 暑いから火は消したけれど、月明かりが煌々と彼らの表情まで照らし出す。

 ボンルもフィフジャも表情が暗い。

 ウォロは腰から下げていた前掛けのような布で涙と鼻水を拭っていた。

 ツウルウは何かを気にしているのか落ち着かないだけなのか、きょろきょろと顔を動かしている。


「……岩千肢、出ないね」


 ヤマトも周囲を見やって、話題を変えたくてそう言ってみた。

 渇いた大地に大小さまざまな岩が転がっているというか、立っているというか。


 ここも大昔は海の底だったのかもしれない。巨大な珊瑚のような何かの化石がこうして岩として林立しているのかと。

 月明かりで青白く照らされた岩の群れを見ながらヤマトは考えた。


「出ないならそれでいい」


 フィフジャの答えはもっともだ。

 もっともすぎて、会話が途切れる。



 静かな月夜の岩場に、ぱしゃんという水音が微かに響いた。

 暗い空気を嫌ったのか、ぼりぼりと頭を掻きながらボンルが言う。


「あー……覗くか?」

「……」


 ヤマトが思うよりも、アスカは魅力的なのかもしれない。

 ただその提案には血の雨を降らすような凄惨な結果しか予想が出来なくて、ヤマトは空を仰いで首を振った。



「何一つ僕に利益がない」


 かつて父が言っていた。

 時に男には、バカバカしくても命を掛けてやらなければならないことがあるかもしれない。

 ただそれは、月夜の晩に妹の入浴を覗く行為ではないのだと思うのだ。きっと。



  ◆   ◇   ◆



 アスカの身体能力は高い。

 決して魅惑のボディを有しているわけではないが、運動能力は非常に優れている。

 月明かりの下で川に身を浮かべて、流れに逆らうように足を軽くばたつかせながら遊泳してみる。


 本当は毎日お風呂に入りたいけれど、さすがにそれは贅沢な望みだろう。

 髪や体を洗うのに石鹸もないのだが、人間の体は石鹸で体表の油を落としてしまうと、それを取り戻そうとより脂分を分泌してしまうのだとか。

 水洗いが標準になっていると、それに応じたように肌表面の油分の調整をされるという。


 そんな理屈までアスカが知っているわけではないが、アスカは母からあまり強く肌を擦るような洗い方をしないよう指導されていた。

 夏場の旅でべたつく汗を流すだけでもだいぶ気持ちがいい。



「……」


 グレイも先ほどまで水浴びしていた。今は岸辺で水気を払って、座って毛づくろいしながら周囲の音を拾っている。

 多くの支流が合流して海へと向かうため、この辺りの川幅はかなり広い。川幅が広がったせいか流れは緩やかに感じる。


 ふと、足が着かないくらいの深さの場所に流されているのに気がついて、岸のほうへ寄って立ち上がった、

 そうして頭を水に突っ込んで、両手でわしゃわしゃと髪を洗いながら梳く。

 ばっと頭を上げると、水を吸った髪の毛が背中にぴしゃりと叩きつけられた。


 毛先が尻の辺りまで届いた。


「うーん、ちょっと伸びすぎたかなぁ」


 髪が長くなりすぎると動きを阻害する。町についたら切ってしまおうか。

 髪の長さについてこだわりはないのだ。行動の邪魔にならないように短くしてしまってもいい。


(ショートヘアでも似合うし)


 ボンルは自惚れ屋だと評したわけだが、外見の麗しさについては自己評価と他者評価が釣り合っている。

 自惚れているわけではない。自身の見た目を客観的に見て高く評価しているだけだ。

 口に出したらヤマトは呆れるだろうしフィフジャは苦笑いだろうけれど。


 夏場とはいえ夜の気温は下がる。川に浸かっているのも寒くなってきたので、上がってタオルで体を拭いた。

 水を吸った髪が重い。長すぎて拭くのも一苦労だ。



 何となく視線があるのではないかと周囲を見回すが、何も見えない。薄暗いからなのか、ただの気のせいか。


「……」


 グレイは何も反応を示さない。少なくとも近くに何かが潜んでいることはないだろう。

 多少遠目にいる可能性はゼロではないが。

 とりあえず下着を身に付けてから髪を丁寧に拭いた。


 銀色の月は丸い。いつでも丸い。

 黄褐色の月は今日は三分の一ほどだ。周囲は月明かりで青白く照らされている。


「……誰?」


 既に衣服は着ている。アスカは落ち着いた声で、あるいは冷徹な声で問いかけた。


「…………」


 返答はない。グレイは何も反応していない。

 ただ川の流れの音だけが響いている。


「気のせい、ってことにしてあげる」

『クウ?』


 グレイが不思議そうにアスカに向けて喉を鳴らす。


 ――何もいないのに何に話しかけているのだろうか。


 言葉にはならないグレイの疑問。

 アスカも気配を感じたわけではない。何となくこんな月夜の晩は、ちょっと見えないものが見えるような雰囲気を出してみたかっただけなのだが。

 グレイが知るはずもない。それは地球で中二病と呼ばれる症状の一種だった。



  ◆   ◇   ◆



 アスカの立ち去った川面。

 銀月と黄月が映る水面は、流れで波打ってその姿をぼやかす。

 時折、ぱしゃりと跳ねる魚の腹が、月の光をぎらりと反射していた。


 水面に浮かぶ月。

 銀色と、黄褐色と、黒色と。


 まるで最初からそこにあったかのように、黒く丸い影がそこにのぞいていた。

 静かに、波打つ水面と一体化するかのよに自然に。


 もし気が付かなければ、川の中にある石だと勘違いして踏んで渡ろうとしていまうかもしれない。

 それほど違和感がない。


 だが気が付いてみれば異常だ。

 そこはアスカの足がつかないほどの深さの場所だったし、黒い円の下には明らかに体がある。



「お、おらに気がついた……あの娘っこ、バケモンか」


 近くには鋭敏な感覚を持つ魔獣もいた。銀狼というのか。

 それでさえ、水中の自分の気配には気づかなかったというのに。


 流れている川の中というのは、かなりの音が入り混じっている。地上からその気配を察することはできないだろうとも思うが。

 しばらく水中にいたとはいえ、ただの人間が水中を自在に動く自分を感知するなどあり得るだろうか。

 黒い影は、少女が立ち去った方をそのまんまるの二つの目で見やってから、水中に戻った。


 やはり地上は怖い。

 そう思った海モグラは、暗くて落ち着く自分の領域に帰っていった。 



  ◆   ◇   ◆

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