二_005 ズァムナの子_1
両手足を広げて滑空する時は、人間の大人が両手を広げたよりも幅が大きい。
森の中で樹上から獲物の顔に飛び掛かり、撒きついて視界を奪うのと同時に呼吸を塞ぐ。
左右の手足の先についた小さいが強靭な鍵爪で標的を捉え、ストローのように穴の開いた鋭い牙を突き刺して血液や体液を吸う。
無音で、樹上から突如として現れる森の狩猟者。
探検家の間でも、特に気をつけるように言われる。
(知ってる。無音じゃないけど)
ゼヤンの言うそれの特徴は、ヤマトが知っているものと変わらない。
無音でという部分は、おそらく地球人とここの世界の人々とで可聴域が若干異なるのだろう。
ヤマトにしても別に皮穿血の発する鳴き声がよく聞こえるわけではない。耳がきんと圧迫されるような感じがするのだ。
エコロケーション。蝙蝠が高周波の超音波で獲物や障害物を見るようなことをしていると思われる。
本来この世界の哺乳類だと聞こえない音のはずだが、ヤマト達には感じ取れるので襲撃のタイミングや方向が掴みやすい。
相性のいい魔獣、ということになる。油断ができるわけではないが。
皮穿血の方からしたら、ヤマトやアスカは天敵ということになるのではないだろうか。
「ただでさえ厄介なんだけどね。森の果実を餌に繁殖したみたいで、数十匹は住み着いているみたいなんだよ」
数十匹なら家から出てここまでで駆除してきた、と。
去年の被害者のことや、過去にも皮穿血の犠牲になった人のことを語るゼヤンとクスラの重苦しい雰囲気に、とても言い出せないわけだが。
ジキジュは一昨年幼馴染と結婚したばかりだった、とか。ポアゾは母親想いの優しい女の子だったらしい。残念なことだ。
ポアゾは、撒きつかれた皮穿血を引き剥がそうと同行していた知り合いが必死で努力したが、強靭な皮と強く食い込んだ鍵爪の為に四苦八苦して、皮穿血が息絶えて剥がれた時にはポアゾも酸欠と失血、そして顔に撒きついた皮穿血を攻撃していた衝撃で顔も青く腫れて瀕死の状態で、その日のうちに亡くなったという。
油断をすればヤマトたちだって同じ末路になりかねない。
「……退治する」
フィフジャもアスカも何も言わないので、ヤマトがそう言った。
言ってから、また拳骨を食らうのではないかと身構えたが、さすがに今度は何もされなかった。
(僕に言わせておいてとりあえず殴るという流れかと)
警戒してみたがそういうわけではなかった。こうしてヤマトも少しは慎重さを覚えていくことになる。人を疑うことを覚えていくのだ。
犠牲者のことを話しながら少し涙声になっていたゼヤンに、フィフジャとアスカは顔を伏せていた。
もらい泣きではない。何となく申し訳ないという気持ちが浮かんできて顔を合わせづらい。
対応ができる自分たちがいれば、死なずにすんだかもしれないと。
(僕なら、助けられたかもしれないのに)
考えても仕方ないことだが、考えてしまう。
「無理にとは言わない。熟練の探検家でも皮穿血が多い森には入らないと聞く」
「大丈夫、だから」
クスラの不安そうな顔に、アスカが答えた。
「……」
まだ何か言おうとしたクスラだったが、彼を真っ直ぐに見据えるアスカの瞳に頷いた。
「頼む」
「うん」
そういえば、とヤマトは頷き返しながら思った。
(他の誰かの為に戦うのは初めてだ)
自分が生きる為でも食べるためでもなく、他者の助けになる何かをする。
本では読んだことがあったが、実際に他人に頼られるというのは不思議な気持ちになるものだった。
◆ ◇ ◆
集落から西を向くと空高く聳える山々が見える。
伊田家の裏手にある山と連なる山脈。
大森林からは外れても山の麓には森林地帯があった。
集落の建物の木々もそこから切り出してくるし、森の植物や獣は竜人たちの食べ物や生活必需品になっている。
無論、危険な魔獣も住んでいるのだが、竜人たちは男女問わず優秀な戦士でもある。無傷では済まなくとも対処はできる。
黒鬼虎級の魔獣まで出たら村の若者総出での大仕事になるが、そんなことは数十年に一度らしい。
ただ集落に伝わる限り、この森で皮穿血が大繁殖したという記録はない。
それほど多くない個体数でも死者が出ることのある厄介な魔獣。
そんな皮穿血が森の浅い場所に住み着いて繁殖してしまうという事態は初めてのことだった。
通常、昼飯というものは軽く腹に入れるだけの竜人たちだったが、ゼヤンはヤマトたちに早めの昼飯を振舞ってくれた。
薄味の素朴な粥だったが、ヤマトは遠慮なくおかわりをする。
そんなヤマトに嬉しそうな顔をするゼヤンと、呆れた顔のアスカ。
グレイも何かの骨をもらって噛み砕いて食べていた。
腹ごしらえをしてから集落を出る際に、フィフジャは黒鬼虎の毛皮をゼヤンに預けることにした。
持っていると、肝心の皮穿血が警戒して出てこないかもしれない。
皮穿血からすれば、額に鋭い角を生やした黒鬼虎は勝てない相手になる。普通なら襲い掛かることはない。
「飯代にしちゃあもらいすぎだね」
「置いていくだけだから。後で返してもらうから」
ゼヤンの冗談にフィフジャが生真面目に言い返していた。
歩いて二刻ほどで木々が生え始める領域に着いた。
まばらに木々が生え始めて、だんだんと樹木の密度が高くなり、奥が暗く光が届かない世界に変わっていく。
森に踏み込む前に、一度周囲の警戒を兼ねて休息を入れることにした。
「アスカ、それをどうするつもりなんだ?」
フィフジャが尋ねる。
ヤマトも気になっていた。アスカは歩いてくる道中からずっと、膨らませていない風船を手でくにゃくにゃと柔らかくほぐしていたのだ。
「んー、実験?」
そう言うと、思い切り息を吹き込んで膨らませた。
いつもより大きく、破裂するのではないかと心配するくらいの大きさに。
日本で売られている風船であれば標準的な大きさかもしれない。現地のゴム風樹液と酢を混ぜ合わせた手製の風船をこんなに大きく膨らませることはこれまでなかった。
「おお、なんと」
驚きの声をあげる者がいた。クスラだ。
初めて見る風船に、それと同じくらい目を丸くして驚愕している。
「はい、持つ」
アスカは膨らませた風船を結び、さらにもう一回結んで空気が漏れないようにしてからクスラに渡した。
おっかなびっくり受け取るクスラ。自分の頭と同じくらいの風船を両手で受け取り、興味深そうに見ている。
アスカは同じものをもう一つ作ってフィフジャにも渡した。
「持ってると武器が……」
「大丈夫、いらない」
アスカは鉈をヤマトに渡して、自分はステンレスナイフを手にした。
「素手で持っていて」
両手の手の平で風船をそっと包むように持ったまま、クスラはフィフジャの顔を見た。
「言うとおりにした方がいい。アスカの言うことは、特に」
フィフジャの言葉からうっすらと何か恐怖を感じたのか、クスラは頷いた。フィフジャはやや内股になっている。
「どういう意味なのか、後で聞く。フィフ」
容赦ない金的攻撃などで怖がられてるのだと思う、妹。
そうとは絶対に口にしないヤマトだが。
相手が音を頼りに狩りをするのなら、風船の破裂音は有効かもしれない。
先に膨らませておいて持たせておけば、すぐに割ることが出来る。そういう準備なのか。その為に小回りがきくナイフを手にしているのかと。
(それをフィフに持たせとくとか、鬼かな)
風船の破裂程度は大した痛みではないが、かなりびっくりするはずだ。わかっていても衝撃を受けるのだから。
クスラは何も知らないので、珍しい道具を渡されたとしか思っていないだろう。
あれが弾けることを知っていると、持っているのがちょっと怖いものなのだが。
(鬼だな)
ヤマトだって大きく膨らんだ風船を手元に持っているのはイヤなので何も言わない。
両手を塞がれた状態で不安そうな二人を、ヤマト、アスカ、グレイが囲んで森へと足を進めた。
森に入ってしばらく、危険な気配はない。
「ここは、石猿とか、いない?」
歩きながらアスカが聞いた。まだたどたどしい言葉なのは仕方がないとして。
「いや、普段なら出る。村の畑を荒らすこともあったが……言われてみれば今年は出なかったな」
クスラが答える。言いながら、皮穿血に捕食されたのかという結論に達したようだった。
彼は危険な仕事を余所者の子供に任せられないと言ってついてきたのだが、正直なところ足手まといになる。
おそらく戦士としては優秀なのだろうが、皮穿血とは相性が悪い。
それでも同行を許可したのは、皮穿血を駆除したことを確認してもらうためでもある。
駆除した害獣の証拠写真を撮る、というようなことが出来ないのだから、依頼人に確認してもらうのが一番手っ取り早い。荷物持ちにもなる。
時刻は昼過ぎ程度だが、森の中はやや薄暗い。
(なんだか……落ち着く)
そんなことを思ってしまうのは、やはり森林は住み慣れた世界だから。
外の強すぎる日差しがないから過ごしやすいということもあるかもしれないが、この薄暗さがヤマトにとっては居心地がいい。
アスカも同じ様子で、機嫌が良さそうだった。
◆ ◇ ◆
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます