04 赤い実と異世界の常識_1



 だらしなく涎を垂らして眠っているフィフジャの顔に、やはりヤマトは警戒心を持てない。


 母は用心しなさいと言っていたが、やはりこの男は間抜けでお人よしの系統にしか思えないのだ。

 ヤマトもアスカも起きて身支度を整えているが、目を覚ます気配がない。


(よくこの森を生きて抜けてこれたと思うんだけど。もしかしてすごく運が強い人なのかな)


 起こさないようになるべく静かにしているのは、きっとフィフジャが心配して夜遅くまで見張りをしてくれていたのだと思っているからだ。

 だから朝寝坊をしている。仕方ない。



 アスカは釣り糸を適当な木につけて川で釣りをしている。既に何匹か釣り上げているので、朝も昼も食べ物の心配はしなくてよさそうだ。

 釣りの前に、まだ暗いうちに水浴びもしていた。ヤマトに見られても平気だろうが、さすがにフィフジャの前では恥じらう気持ちもあるらしい。


(危険な獣の気配なら、すぐにグレイが気がついて吠えるから大丈夫なんだけど)


 フィフジャに説明したくても言葉が通じないので方法が思い当たらなかった。

 コミュニケーション能力に長けている妹はさっさと寝てしまったし。


 どうしようか考えて、難しそうだったからヤマトも寝ることにしたのだ。二人とも寝てしまえば、そういうものだと理解してくれるかもしれないと楽観的に考えてみた。



 とりあえず眠ったままのフィフジャを放置して、釣りをしているアスカの方に行く。


「起きた?」

「いんや」


 短い確認の言葉を交わしている間にも、アスカはまた一匹のヤマメを釣り上げる。


 身体能力ではヤマトが上だが、直感の鋭さや機転ではアスカに勝てる気がしない。

 戦闘訓練としてアスカと組み手をすることがあったが、アスカが十歳の頃に一度敗北を喫してから、今では三回に一回ほど負けるようになった。


 父が何を思って対人の訓練をさせたのか。


 ――もし他の人間と遭遇しても、友好的な相手だとは限らない。


 普通に獣を相手にする為にしても、練習として年の近いアスカと戦闘訓練するのは自然なことでもあった。

 ただそれとは別に、関節を極めて相手を制するとか、投げて背中から叩き落すことで行動不能にさせるとか。


 それはおそらく人間を相手にした際に殺さない程度の対応が出来るように、という考えだったのだろうと思う。

 別に伊田家に護身術に詳しい人間がいたわけではないが、柔道の教本は家にあったので、それを読んで鍛錬してみたのだ。


 幸いなことに森での生活で身体能力は鍛えられていたので、下手の横好きというよりは身についていた。

 ヤマトとアスカに至っては、幼い頃からそんなことを続けてきたのでかなりのレベルで習熟している。


 伊田家所蔵の漫画にあった闇の鬼人衆という集団が使うような技も練習してみたりしたが、さすがに漫画の技は習得できなかった。まだ諦めてはいない。



「これ以上は腐らせちゃうよね」


 十匹ほど釣ったところで、アスカは釣り糸と針を木から外した。

 この釣り糸も釣り針も貴重だ。荷物になってしまう竿は家に置いてきたので、その辺の木の枝で代用している。


 物心ついて以来、この森で利用できる物は何でも使って生活してきた。こんなことには慣れているというより、いつもの生活の一部でしかない。


「まあ十分じゃないか。ああ、見てたらお腹空いてきたよ」

「はいはい、じゃあフィフを起こしてあげて」



 釣った魚は耐水性の袋に入れて持っていく。父や母はプールバッグと呼んでいた。本物のプールを見たことはないが、プールに行く際に使うらしい青い手提げバッグだ。

 『い田 日こいち』 と名前が書かれているのが嬉しい。父が漢字を書けなかった頃など想像もできないのに。


「フィフ…フィフジャ、そろそろ起きて」


 ヤマトが声を掛けると、寝ぼけた目で周りを見回してから、謝罪らしい言葉を口にするフィフジャ。

 気にしないでいい、と言って、焚き火で魚を焼いているアスカを指差した。

 彼はもう一度、すまなそうに言った。


(ごめん…っていう言葉かな。たぶん)


 頭の中でそれを反芻して、口の中で小さく呟いてみた。

 少しでも早く言葉を覚えたい。

 頼りないフィフジャだが、自分たちはその彼よりもあやふやな存在なのだから。


(ぼやぼやしてるとアスカの方がさっさと覚えちゃいそうだし)


 それは兄としてみたらずいぶんと居心地が悪いことなのだから。



「あと五日くらいで夏至だったかな」


 フィフジャたちがどういう暦を使っているのか、言葉が通じるようになったら確認しなければと、考えることは山ほどあった。



  ◆   ◇   ◆



 二人の子供と共に川に沿って北に向かう。


 山脈の他には川くらいしか目印になるものがない。そのまま十日間進んだが、相変わらず行く先で目印の紐が巻いてある。家の近くのものよりは新しく見える黄色い紐だった。

 他の川の流れと合流していった。むしろ辿ってきた川の方が細い支流だったのか、本流に合流したようで川幅は次第に大きくなっていく。



 家を出てから十一日後。

 少し大きめの川が合流して、周囲が開けたところで彼らはそれに遭遇した。


「WAAA」

「OTOUSANGA ITTETANO KOKODA」


 二人が声を上げた。


 川の周辺が野原のようになっていて、毒々しいまでに赤い実がごろごろと転がっている。


「なんだ、これ」


 新鮮な血のような赤。見たことのない果実……なのか、フィフジャにはわからない。


 この周辺だけ木々がないのは、おそらく合流した支流などの影響で樹木が流れたり、土砂が堆積したりした場所なのだろう。

 半径一〇〇〇歩ほどの空間が野原になっている。



「えっいや、それ食べるの?」


 真っ赤な実など、劇薬になるものか激しい苦痛を起こすものしかない。毒性を持つものが多いからフィフジャは赤い植物は食べないと教わってきた。世界中の誰もが知っているような常識だけれど。


 彼らは無造作に転がっている実をもぎ取ると、川で洗ってから躊躇なく口にした。

 そして、口を尖らせた顔をして笑っている。


「……」


 決して美味しそうではない。

 だが楽しそうだ。

 ヤマトが、笑いながらフィフジャにもそれを差し出す。


「たべ、らる」

「だいじょ、ぶ」


 二人で、覚えたての覚束ない言葉でフィフジャに勧めてくる。

 実際二人が食べているのだから大丈夫なのだろうが。



「ん…こんな、赤いけど…ええい、わかったよ」


 手にとって、彼らの拳くらいの大きさのその実にかぶりつく。


「んん? すっぱぁぁ…けど、うん…すっぱい」

「す、っぱぁ」


 けらけらと笑うヤマトとアスカ。



「君ら、わかってて勧めたな」


 半眼で睨むフィフジャ。ここまでで、この程度のコミュニケーションが取れるまでには意思疎通が出来るようになっている。


 アスカは荷物から塩を出して、自分がかぶりついたその実に少しだけ振りかけて食べる。ヤマトもそれに習って、そのまま全部食べてしまった。



「塩をかけると…うん、まあこれは、なんだろう。けっこういける」


 最初はすっぱいと思った赤い実がなんだか甘く感じる。塩をかけたのに甘く感じるというのもおかしな話だが。

 なるほど、珍しい植物だが毒ではない。

 肉や魚が中心の食事が続いていたが、さっぱりとした味わいが新鮮で好ましい。



 本当にいろんなことを知っている子供たちだ。

 もし森で迷走中にこの野原に出くわしていても、フィフジャは口にしなかっただろう。


 周辺に獣の気配もない。この実は大量にっているが、獣たちの意識でもこの実は食べ物として認知されていないのだと思われた。

 臭いもほとんど出していない。潰れた実から、ややすっぱい臭いがするくらいだ。


 その日はまだ日中だったがそこで休憩をすることにした。開けていて視界もいいし、食べ物もある。



 アスカが水浴びをしたがったのもあり、ここらで一度休息を入れてから次に進もうということになった。


 ついでに着替えの洗濯などもしてしまう。毎日着替えているわけにもいかないが、さすがに着たきりというのも落ち着かない。

 そういった衛生面では子供たちの方が敏感だった。下着だけは毎日替えているのだから。やや病的に思うくらい清潔好き。


 毎晩、寝る前には木の枝を加工した歯ブラシで歯磨きも欠かさない。森にある清々しい匂いのする葉をすり潰して、歯磨きをしている。

 寝る前に下着を洗い焚き火の近くで干して寝ていた。翌朝には渇いているように。

 子供たちにならってフィフジャもそうするようにしていた。


 夜には赤い果実を潰して魚と一緒に鍋で煮てみた。格別な味わいではなかったが、珍しい味で悪くはなかった。

 翌朝、ヤマトたちはいくつかの実を収穫して、また北に進むのだった。



  ◆   ◇   ◆

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