05 赤い実と異世界の常識_2
野原の北からまた森が始まる。
そこには斜めに交差するように黄色い紐が掛けられていた。
掛けられた木には何かの記号と言葉が刻みつけられているが、これまでと少し様子が違う。
「OTOUSAN……」
アスカのその言葉が、父を呼んでいるということはフィフジャもわかってきた。
寝てしまう前にも言葉の勉強などをしているので、言葉を教えながら逆に彼らの言葉もいくつかの単語は覚える。
OKAASANは母親のことで、メーコ。
OTOUSANは父親のことで、ヒコーチと言う名前らしい。あんなに綺麗な妻を残していって、心残りが多かっただろうと同情した。
「めじるし、ない」
ヤマトがたどたどしく言って交差した紐を掴み、それから森の奥を指差してから、手でバツをつくる。
「ここから、先は、目印がないのか」
あえてゆっくりと喋るようにしているのは、ヤマト達に言葉を覚えさせる為だった。ヤマトは理解したのか強く頷いてみせる。
彼らの父が探索したのはここまでだったのだろう。
一人でここまで来たのだとすれば、フィフジャにしてみれば驚異的な人間だと思うのだが。
そういえば黒鬼虎も一人で倒したとか、そういう人物だったようだし。
(凄い戦士だったんだな。言わなくてもわかるよ)
フィフジャは納得して頷いた。
ここから先は、ヤマト達にとっても未知の領域ということになる。
「注意して、進む。周りを、よく、見て」
手振りを加えながら話す。
「よく、みる」
アスカが答える。指で丸を作って目に当てているので、わかっているのだろう。
見ろ、とか、見る、とかそういう指示語と動詞の活用も、少しずつだがわかってくれている。
最初の頃に、走る、と、走れ、を教えたからなのかもしれない。
何か危険があった時に、止まれとか逃げろとか、そういう指示を理解してもらう必要があったから。
人間と言うのは必要に迫られると出来るようになるものだという。それにしても理解が早いのは、おそらく彼らがもともと一定以上の水準の教育を受けて育っているお陰だ。
あの家で過ごした短い日々の中でも、納屋にあった黒い板に、石灰岩のようなもので文字を書いたりして意志伝達を図っていた。
不思議な文字だったが、一から九、そして零の数字なのだとわかったので、それに対応する文字を教えたりした。零だけは、表記は同じ丸だった。
まともに文字が読めない庶民でも、数字だけは読めるものも多い。
彼らはあっさりとそれを習得してしまった。まだ百とか千の言い方までは覚え切れていないが、文字に書くだけなら問題がない。
「周りを、よく、見ろ」
非常に覚えのいい教え子たちを頼もしく思いながら、フィフジャは先頭に立ってその黄色い紐の印を越えて進むのだった。
◆ ◇ ◆
手斧と鉈で枝や草木を払いながら進む。
整備された道路ではないのだから、草木は好き勝手に生えている。
いまだに危険な獣に襲われたりしていないことは良いことのはずだが、逆に何もないのが怖いとも思うのも事実。
木々が開けた野原から伸びた蔦が、鬱蒼とした茂みとなっている。
日が当たるので野原と森との境界あたりは特に茂みがひどかったが、奥に進むにつれて足元の草は減っていった。
木の枝が邪魔をするのと、降り積もった葉が腐った土が軟らかく歩きにくい。
枝を切り払いながら、目印の川の流れを見失わないように進む。柔らかい土を流れが削っていくせいか、この辺りの川は地面よりだいぶ低い場所を流れている。
川に近いところを歩こうとしたら想像以上にぬかるんでいて危なかったので、川と山脈との間あたりの位置を維持しながら進むようにした。
オタネト山脈と呼ばれている、ズァムーノ大陸中央を縦に分断する大連峰。
越えることができない、という意味だとか。そういう話だがフィフジャは詳しく知っているわけでもない。
ズァムーノ大陸だっての名前だって、ズァムナ大森林があるからそう呼ばれるようになったのだとか。どっちが後先なのかはっきりとした記録はないらしい。
神話の時代にガズァヌという巨大な神が大陸を割った功績を称えられて、その名にちなんだ名前なのだとも言われるが。
なぜ大陸を割ったら功績になるのか、理解できない。
ただの神話だが、このズァムーノ大陸は確かに真ん中が裂けている。この山脈の向こう側は断崖絶壁で海になっていて、その断崖の向こうに大陸の残り半分がある。
イモを真ん中辺りで上から割ったような形をしている。今いるのはその右側の中央森林。
南端は地続きになっているが、今度は種族的な問題で東西に分かれている。
大陸南東部。この森を南に抜けた先は危険な種族の住む場所。
人間が生きていけない土地柄だ。運がよければ奴隷や見世物程度になれるかもしれない。
森の北もフィフジャには慣れない地域だが、問答無用で殺されるような場所でもない。
(まあ生きやすい場所なんてないわけだけど。噂通りなら、この山脈の西側に行けたらまだ楽かもしれない)
オタネト山脈西側、断崖絶壁の向こう側には草原地帯が広がり、大きな統一国家がある。
南端で地続きになっている異種族との戦いが人々をまとめるのも皮肉だが。
戦える者であれば南部防衛隊に志願すれば仕事には困らない。命の保障はないにしても。
ズァムーノ大陸東側は、現在地であるズァムナ大森林で南北を完全に分断されている。異種族もこの森を抜けることは出来ないらしい。
さらに南の海は凍っているのだとか。東の海は火山地帯で暗礁が多すぎると。
この大森林を南側に抜けた先に住む者は悪魔人と呼ばれる。それが南端で人間国家との小競り合いから大きな戦を続けている。
およそ八百年ほど前、魔王を名乗る異常な強さの悪魔人の王が率いる軍団によって西側の国家は壊滅した。さらに海に進出して北西ユエフェン大陸、北東のリゴベッテ大陸まで戦乱が広がった。
遥か昔の戦乱の歴史で、正確な記録はほとんど残っていないが。
このズァムーノ大陸の北西にはユエフェン大陸。
ユエフェン大陸北方は人跡未踏の極寒の山岳地、その麓にはテムの深い森。その南には色々な生活習慣の部族や小規模な氏族国家が多くあるらしい。
もうひとつ、ズァムーノ大陸の北東、リゴベッテ大陸。
フィフジャの故郷というか生まれ育った大陸だ。
ユエフェン大陸と違い、リゴベッテ大陸には多少歴史のある国家がいくつかあり最も繁栄している地域になる。
魔王の侵攻の際にその進路から最も遠い位置にあったので、被害が一番少なかったために古い国家が残っている。
逆に歴史の長い国家だけに面倒くさいことも多いが、安定した生活が出来る地域でもあり、そこの国民は他の大陸のものを見下す傾向も否めなかった。
人間が集まれば派閥ができるし軋轢が生じる。
ズァムーノ大陸のように悪魔人という具体的な外敵がいない他の大陸では、やはり人間国家、部族同士の戦は数年置きに大なり小なり起きている。
それが大きな戦乱にならないのは、ある程度のところで仲裁に介入する教会の存在があるから。
ゼ・ヘレム教会。
教会と言えばゼ・ヘレム教会のことになるし、全てのヘレムという意味をするこの言葉はこの世界と同義と教会は位置づけている。
全世界すなわちゼ・ヘレム。
四〇〇年ほど前、真なる龍と呼ばれる強大な魔物が空から現れた際、人々を守る為に最前線で戦ったのがゼ・ヘレム教会の聖人たち。
龍は激しい戦いの末に命尽きて海に落ちたと言われている。
龍と呼ばれる存在は他に例がない。海には龍の亡骸から産まれたと言われる異形の妖魔がいて、海路に被害を出すことが珍しくない。
こういったことを、ヤマトとアスカに伝えるまでに、どれだけの時間が必要なのだろうか。
普通に生きてきた者にとっては常識として知られていることだが、彼らはその常識の外で生きてきた。
常識を伝えていくためにも、まだまだ言葉の勉強は必要になりそうだ。
森を抜けるのも長い道のりになる。必要な時間なのだろうとフィフジャは前向きに考えることにした。
◆ ◇ ◆
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