伊田家 第四十一話 幸せな日々_1
日呼壱と芽衣子が結婚して、離れの部屋で暮らすようになった。
目まぐるしい日々が二人を、そして家族を巻き込んでいく。
最初の大事件は、翌年の秋の出産だった。
病院も専門医もない状態で、経験者といえば美登里のみ。
大きくなるお腹とともに、さすがの芽衣子の不安も大きくなっていった。
なぜか伊田家には、妊娠出産に関する本が数多くあるのだった。
「今だから言うんだけどね。日呼壱には、あなたより少し上の妹がいたかもしれなかったのよ」
出産関連の書籍を読みながら、美登里はふと芽衣子に言った。
「え、と?」
「その時は流れちゃって、ね。でもどうしても女の子がほしくて、こういう妊娠とか、次は失敗しないようにってたくさんの本を買って……まだ都会にいる時にね」
何度も読み返した形跡があるその本は、美登里のものだった。
だから美登里は、今更読み返すまでもなくほとんどの内容が頭に入っている。
妊娠したら、時期によってどうしたらいいのか、何を避けた方がいいのか。
もし医師のいないところで産気づいたらどうすべきか。
大昔の出産はどうだったのか、なんてことも、本編ではないが余談として書かれているものも多い。
「知識だけだったら、私ちょっとした助産婦さんよ」
「うん」
「あんまりにね。自分を追い詰めちゃってたんだと思う。あの頃は」
本を閉じて、当時を思い出すように呟く美登里の言葉を芽衣子は聞き入った。
「お父さんが、都会暮らしをやめて田舎に行こうかって言った時に、急になんだか、開放感っていうか……なにかしらね、必死になってた自分をバカみたいに思って」
「そんなことないよ」
自嘲気味に言う美登里に芽衣子が首を振る。
子供がほしくて真剣だった美登里の努力がバカみたいだなんてことはない。絶対に。
「ええ、そうね。でも本当に、私のこういうことを知らない土地でゼロからやっていくのなら、それも悪くないかなって思ったのよ」
おそらく健一は見ているのが辛かったのだ。
お腹の子供を失い、どうにか取り戻したいと躍起になっていた様子の美登里を、見ていられなかったのだろう。
どうにもしてやれないことで、せめて何か意識を変えられないかということでの帰郷。
「あんなお父さんだけど、あのまま本社にいたら、定年までには本社の部長くらいにはなっていたかもしれないのよ」
「うーん、それはよくわかんないけど、すごいの?」
日本で社会人としての生活を経験していない芽衣子には、美登里が自慢げに言ったことが理解できない。
仕方ない、と美登里は苦笑した。
「そうね。今のグループの地域の子会社なら社長……副社長くらいかしら」
「すごいじゃん、見直しちゃった」
例えが社長とか副社長なら、わからないなりに凄いと思うものなのだ。
まあ、それもたらればの話だが。
「まあ、色々とあったけど、結果的にはこうして可愛い娘も出来て、孫も生まれるっていうんだから。これもいい人生だと思っているのよ」
この本も役に立つし、と笑う美登里。
捨てられなかった。
諦められなかった想いがあって、引っ越してくる時にも捨てられなかった。
これを捨てたら、自分が望んだ命を、諦めてしまうような気がして。
数奇な運命の巡り合わせで、芽衣子の出産の助けになることが出来る。
「清潔な布とか、他の道具も熱湯で消毒しておいたりとかして、今出来る万全の状態でやるから。だから芽衣子ちゃんも信じて頑張ってね」
「うん、お母さん。ありがとう」
難産ではなかった。
という形に分類されるのが信じられないと日呼壱は思った。
十二時間だ。
産まれそう、と言って脂汗を流し始めたのが夜半のこと。
慌てて、というほど慌てたわけではない。もうじきだと思って準備を進めてきていたわけだが、とにかく暗い。
美登里と健一を起こして、母屋の一室で布団に出来る限り清潔にしたタオルを何枚も敷いておいて、あと腰に挟むクッションなども用意したりして、その芽衣子の様子を見守った。
健一はずっと湯を沸かし続けて、時折様子はどうだと聞いたりしていた。
さすがに犬猫たちはシャットアウトだ。愛すべき家族ではあるが、決して清潔だとは言えない。
日呼壱は、どうすればいいのかわからずに、芽衣子の手を握って大丈夫だ大丈夫だと囁き続けて、逆に芽衣子が苦笑して大丈夫だから安心してと気遣われていた。
情けない。
陣痛には波があるということで、強くなったり治まったりを繰り返しながら出産へと近づいていく。
赤ちゃんの頭が見えたと美登里が言った後は、もう日呼壱は何がなんだかわからない状況だった。
結局、生まれたのは昼になった頃。
夜半から昼間でのおよそ十二時間。初産では、これは平均的なことらしい。
臍の緒を鋏で切って(無論熱湯消毒済み)、祖母の箪笥から出てきた白い布で赤ん坊を包み、美登里が抱き上げる。
「元気な男の子ね」
ふぎゃあふぎゃあと声を上げる赤子の顔を向けられると、疲れきってぐったりとした芽衣子が嬉しそうに頷いた。
「あり、ありがとう、芽衣子……頑張った、すごい、がんばった」
「ん、ふふ……日呼壱の方がへとへとじゃん」
ぼろぼろと泣きながら芽衣子を労う日呼壱に、改めて芽衣子が苦笑する。
自然分娩の場合、色々な要素はあるが、骨盤から赤ちゃんを押し出す筋力が弱いと難しいことがあるという。
そういった点では、芽衣子の筋力、体力は決して弱い方ではない。現在の日本の同世代の中ならトップクラスではないだろうかと言える。
日々、森を走り回って獲物を狩るような女子は、そう何人もいないだろうから。
体力があるからと言っても、さすがに十二時間の戦いを終えては体力の限界の様子だった。
そのまま二時間ほど眠ってしまい、気がついたらすぐ起き上がったのだが、ちょっと失敗だった。
胎盤とか繋がった臍の緒などが、ずるずるっと出てしまい――まあその話は置いてよいだろう。
それから授乳や、誰が抱っこするだとかで揉めたりだとか、一般的などこにでもあるような光景が繰り広げられたのだった。
そんな話はまたの機会に。
◆ ◇ ◆
『
ヤマトと名付けられた。
この世界のどこかで、この子が他の人間と接触することがあった時、それがもし何か地球に縁のある相手だったら、日本の名前だと気づいてくれるかもしれない。
正確な暦はわからないが、誕生日は十月十日ということにした。体育が得意であってほしい。
この森の日時計で確認する限りの夏至――最も昼間の長さが長い日から数えて一〇〇日ほど経っているので、およそ合っているだろう。
一年は三六三日だった。夏至から夏至、冬至から冬至を数えて確認をしている。
「異世界に来ちゃった子供の名前なら、ヤマトはありだと思うんだよね」
とは芽衣子の談だ。
カッコいい名前だったし、おそらくこの世界で他にこの名を持つものはいないのではないかと日呼壱も賛成だった。
ヤマトは、家族の願い通り、健やかに逞しく育っていくのだった。
◆ ◇ ◆
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