伊田家 第三十九話 葬儀と祝儀と_1
その秋から源次郎は狩りに出るのをやめた。
年齢を理由にしていたが、やはりミュラーを目の前で殺された一件が堪えたのだろう。
翌年はずっと庭や畑の世話をして、その成果なのかこの森に来てから最高の米の収穫が出来た。
それから源次郎は、何か気が抜けたように伏せるようになった。
最高の収穫を終えた六年目の冬の朝だった。
「やめてくれよ、爺さん。爺さんがいなけりゃ俺は、どうすれば……父さんが……」
「もう大丈夫だの、健一。わしがおらんでも、しゃんとやっとる」
源次郎は死期を悟り、健一に告げていた。
「しかしのぉ……わしゃ、この森にきてようやっと、お前や日呼としゃんと話ができたわ」
「ああ……ああ、そうだと思う」
「なんもしてやれんですまんが、わしゃあ楽しかったけの」
源次郎は笑っていた。
ただ自分が楽しかったと。この森にきての暮らしが、家族での暮らしが楽しかったと笑っていた。
「何にも、なんて……ことはない」
健一は泣いた。
「田んぼも、畑も……父さんが、太陽光つけたり、井戸水だって……つけといてくれたから、ちゃんと生活できてるんだ。感謝してる……」
「は、そげだったの」
一際可笑しそうな笑い声。
その自慢げな声に、思わず健一も泣きながら笑った。
数日後、源次郎は冬の昼間に息を引き取った。
冬なのに、とても暖かく良い天気だった。
「来年も、いい米ができるとええの」
お日様を見上げてそういい残した表情は、とても穏やかだった。
◆ ◇ ◆
健一と美登里は、火葬のために裏に木を集めている。害獣などを焼く場所と同じになってしまうが、先に綺麗に掃き清めてからそこで遺体を焼くことにした。
その他の遺品を整理しようと、日呼壱は納屋の箪笥などを片付けていた。
──婆さんの着物も、使えるように使ってええ。
布は貴重だ。服として使うのもいいし、他の服を繕うのにも使える。
そんな片付けの最中だった。
「婆ちゃんってばよ。気が早すぎだって」
日呼壱は苦笑するしかなかった。
祖母住ヱの生前のことを思い出す衣類もあって、ちょっと涙目だったのに。
「どうしたの?」
一緒に片付けていた芽衣子が日呼壱を覗き込む。
もう十八歳になったという芽衣子は、胸も大きくなって女性らしい体型になっている。
だが、こうして森で暮らしているせいか、年頃の女子としての慎みのようなものは足りない。
具体的に言えば、日呼壱との距離感が近すぎる。
いい香りがするような気がするのだ。別に香水など使っているはずはないのに。
石鹸ならそれの代用品を森で見つけて使っているが、その香りは日呼壱も同じはずなのに。決定的に違う。
「これだよ」
匂いに引き寄せられる心を体ごと引き離して、手にしていた物を差し出す。
封筒だ。
住ヱの箪笥の奥の衣類に包まれて保管されていた茶封筒。
箪笥預金というのか、へそくりというのか。
故人の衣服を処分に出したら現金が入っていた、みたいなニュースが日本にいた頃にはたまにあったかな、と。
「日呼壱成人祝い。十万円も入ってるよ」
茶封筒に書かれた言葉を読み上げながら、中身を確認する芽衣子。
この状況では金銭に意味はないが、その祖母の気持ちはとてもありがたく思う。
「ええと、日呼壱大学進学祝い……五万円? これはけっこう痛いね」
「それは今更ながら心に刺さる感じがする」
すみませんお婆ちゃん。ご期待には応えられません。
今となっては大学に進学することは不可能だろう。でも気持ちだけは受け取ろうと思う日呼壱だった。
「それと、なにこれすっごい、もしかしてひゃくまんえんくらいじゃないの?」
日呼壱がまだ手に持っていた封筒を奪い取る芽衣子。
その封筒だけは厚みがまるで違う。
かつて伊田家があった場所から近い農協の印の帯が巻かれた札束は、ちょうど百万円なのではないだろうか。
「なになに……日呼壱、結婚祝い、って」
「お婆ちゃん亡くなったの、俺が中学校の時なのにさ。気が早すぎだよな」
「いいお婆ちゃんじゃん」
もちろんそれは否定しない。
別にお金を用意してくれていたからではない。そういう祝ってくれる気持ちがあったのだと思うと、やはり嬉しく思う。
こんな状況になって、お金に意味がなくなってみて余計に、そういった思いやりや気遣いの気持ちを強く嬉しく感じるようになった気がする。
結婚は……考えていい状況ではないのだけれど。
住ヱにとって日呼壱は、たった一人の孫だった。
自分のためにではなく家族の為にこうしてお金を用意する時、彼女はどういう心境だったのだろうか。
――私ったら気が早すぎるかしらねぇ。
そんな風に独り言を言って笑っていたのではないかと思う。
きっと楽しみにしていてくれたのだと。この封筒を渡す日のことを。
「婆ちゃん、ありがとう」
日呼壱は感謝の言葉を口にしながら、祖母の気持ちに恥ずかしくない自分であるよう気持ちを引き締めるのだった。
◆ ◇ ◆
卑怯だと思うのだ。
ここが秘境だとかそういうことではなく、日呼壱は今の状況がフェアではないと思っている。
前々から思っていることだが、芽衣子は見た目も良いし性格も快活で真っ直ぐな良い子だ。日本にいれば近くの男が放っておくような女の子ではない。
それに対して日呼壱は、別に特別に悪いとは思っていないが、平凡な人間だという自覚がある。
だから、そんな自分がこの状況で芽衣子に交際を迫るのは、卑劣な行いだと思う。
選択の余地がない。
断れないのだ。
この状況で拒絶すれば、互いに溝が出来て生活に支障が出るかもしれない。
そんな極限のこんな状況で口にする愛なんて、ただの情欲の上辺を飾っただけになりかねない。
芽衣子だって、心から日呼壱を愛して応えてくれるわけでもないはず。
仕方なく。しようがなくて、了承せざるを得ない。
(そもそも日本で普通に生活していたら、相手にもされていないくらい格差があるんだよ)
自分にそう言い聞かせて、芽衣子に対しての想いは最初にここに来た時と同じ、年下の親戚の女の子という位置づけ以外にはしないようにしてきた。
親の目もある。
あまりに近くで親の目があるところで妹のような少女にいかがわしいことをするのは、日呼壱の精神力ではなかなか難しい。常識のある人間なら誰でもそうだろうが。
だからこれまで、極力芽衣子を女性として認識しないよう努めてきたのだ。
源次郎の葬儀をして、裏の田の近くに墓を作った。多分、田んぼに近いほうが源次郎は喜ぶだろうと。
火葬して、骨を集めて、森の木でつくった木の入れ物に入れて埋めた。
いずれ木は腐り、骨と共に土に帰るのだろう。
御影石のような石はないし、あっても運ぶのがとてつもない労力だ。
それでも大きめの石を山から運んできて、磨いて、表面に名前を刻んだ。
『伊田源次郎』
兄がいたのだと、健一は語った。
「爺さんには兄さんがいたんだと。婆さんも、本当はそのお兄さんと結婚するって約束だったんだけど、病気で早世したってことで次男だった爺さんと結婚したんだとか。妹もいて、それは寛太のお母さん……芽衣子ちゃんのお婆ちゃんになるわけだな」
「うん」
なぜ健一が急にそんなことを言い出したのか。
死んでしまった人のその生い立ちを、誰かに伝えておきたかったのかもしれないし、他に話題がなかったからなのかもしれない。
健一はその後は黙って座り込み、源次郎に供えられた握り飯を食べ始めた。
供えはしたが、食べ物を無駄にすることは源次郎は喜ばないだろうと。
別に腹が減っていたわけでもなかっただろうが、三つとも食べきった。
塩味が少し効きすぎた握り飯を食べる健一は、それ以上は何も語らない。
皆、そんな健一を一人にしておいた。
ただマクラだけはそんな健一に付き合って、源次郎の墓の傍から離れなかった。
◆ ◇ ◆
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