伊田家 第三十八話 知り得ぬ世界
マクラとさくらの間には三匹の子犬というか子狼がいる。もう立派な若い狼になっているが。
長男がウォルフ、長女がハナ、次男がミュラーと名付けられている。長男か次男なのかは特に理由はなくお兄ちゃんがウォルフと決めただけだ。
ウォルフは勇敢で力強いが、やや慎重さに欠けるところがある。
ハナは最もさくらに近い資質で、冷静さと広い視野を有した優秀な狼だ。
ミュラーは感覚が鋭い。三匹でいても、獲物の気配などに最初に気づくのはほとんどミュラーが一番だ。
源次郎はミュラーとハナを連れて狩りをすることが多くなっていた。
ウォルフは少し先行しすぎて獲物を逃がしてしまうことがあるので。
五年目の秋の収穫を終えて、もうすぐ四歳になるミュラーとハナを連れて、源次郎と日呼壱は森の東に進んでいた。
東には梨に似た果実が多く成っている場所がある。
梨もどきそのものも美味しいが、落ちた梨を食べに来るイノブタのような獣を罠を仕掛けて狩るのは、昨年にも成功を収めている。
もっと寒い時期に狩った方が肉質は良いのだが、この森でそんな贅沢を言うこともない。
徒歩で一日半。リュックサックと猫車を押しての道程になる。
往路の野営をしていた時のことだった。
「……?」
視界がぼやける。
日呼壱は最初、目にごみが入ったのかと思った。
目を擦るが、そのぼんやりとした何かは消えない。
火は焚いていなかった。なのに、夜の闇の中に薄くぼんやりと光る何か……ふわふわした何かの塊のようなものが見えるのだ。
源次郎は眠っている。
日呼壱の様子を受けて、ようやくそれに気づいたのかミュラーが唸り声を上げた。
『ウウウゥゥ』
(ミュラーが気づかなかった?)
日呼壱が気がついたのは、その方向を見ていたからだ。
距離にしたら十メートルほど。
足音も、何かの気配もない。
「霧……?」
淡く光る霧のような、
人間の形をしていると言えばそういう風にも見えるかもしれないが、実際には楕円形のぼんやりとした形をしているだけで人間を象っているわけではない。
「なん、じゃ?」
唸り声を聞いた源次郎が目を擦りながらそれを注視する。
「わかんない。初めて見る」
ミュラーとハナは警戒の態勢だ。危険なのか、未知なのか。
光る霧はふわふわとしながら、微妙に日呼壱たちに近づいていた。
『ウウウゥッウォンッウォン!』
吠え掛かるミュラーだが、霧のほうは何の反応も見せないで、ゆらゆらと揺れているだけだ。
生き物ではなく、何かの自然現象なのかもしれない。
石猿や牙兎のような具体的な脅威は感じられないが、正体がわからないのでどうしたものか。
槍を握り締める日呼壱と、猟銃を構える源次郎。だがそれが意味があるのかと言われたら可能性は低く思えた。
『ウォンッ!』
「――ミュラーっ?」
唐突にミュラーが、光る霧に背を向けて空に向かって吠えた。
今まで向かっていた方向と反対側。
その直後に、凄まじい突風が上空から吹き付ける。
「うぁっっぷっ」
「んぐぅ……」
台風のような強さの突風に顔を覆う日呼壱と源次郎。
視界の端に一瞬だけ、鮮やかな原色の国旗のようなものが映ったように思えた。或いは信号機だろうか。赤、黄色……と、白のような、強い色だったように日呼壱は思う。
数秒で突風が収まった時には、森はいつもの静けさと夜の闇を取り戻していた。
その突風の原因も、先ほど日呼壱たちに近づいていた光る霧も、文字通りどこかに霧散して、何も残っていない。
「なん……だったんだ?」
「……わからんの」
ミュラーとハナは周囲への警戒を解いていない。だが、明確に敵が近くにいるという様子ではなかった。
何年かを過ごしてみても、まだまだわからないことが多い。
この世界の図鑑も攻略本もないのだ。手探りで生きていくより他にない。
結局、その夜はそれ以上は何もなく、日呼壱たちは当初の予定通り梨園に採集に行くのだった。
◆ ◇ ◆
「……何もいない?」
目的の梨園は、静かだった。
梨とは言っているが、色は橙色で形は楕円の西洋梨のような形で、日本でよく見るリンゴの色違いみたいな物ではない。
瑞々しくあっさりした甘みが梨の幸水に似ているのでそう位置づけているだけだ。食感は少し固い。
日持ちもするので冬の間も保存できるのは、日本の梨との違いになる。
今年も良く成ったようで、熟して落ちた実から発生する甘い匂いが立ち込めていた。
この辺りには、伊田家の近くの川とは別の水源があるようで、小さな小川が流れている。この川がどう繋がっているのかは調べていない。
水場と食料があり、目的のイノブタもどきや石猿もここで食事をしているのを見てきた。
デカリスも多くいたはずだが、この時期に野生動物の姿を見ないというのは初めてだった。ここでは食料が豊富な為なのか、石猿も好戦的ではなかったのだが。
「……静か過ぎる気がする」
「あげだ」
日呼壱の言葉に源次郎も頷く。
鳥の鳴き声もしない。森自体が息を潜めているようだ。
昨夜の光る霧や突風と何か関係があるのだろうか。
「…………」
慎重に、周囲を見回しながら進む。
足元に転がっていた梨を蹴ってしまい、勾配でそれがころころと転がっていくのを見送る。
森の中なのだから、多少の起伏はある。
つまり、死角があった。
『ウォンッ!!』
ミュラーが日呼壱を突き飛ばすのと、その巨大な黒い影が起伏の影から躍りかかってくるのは同時だった。
「っ!?」
感覚に優れるミュラー。
嗅覚は、周囲の甘い匂いで役に立たなかった。
聴覚は、その野生の狩猟者がずっと影で息を潜めていた為に、脅威に気づくのが遅れる。
それでもミュラーは、この一行の中で最も早くそれに気がついた。
だからこそ反応できた。遅すぎたのだとミュラー自身も気づいていただろうが。
せめて群れの仲間を守ろうと突き飛ばした後、反動で押された彼を襲う鋭く大きな黒い爪を、避けることは出来なかった。
『キュアァァンッ』
甲高い鳴き声。
地面に叩きつけられ、その肺から吐き出された息と共に、赤い血液も口から溢れる。
『グラアアアアァァァァァッ!』
叩き伏せたミュラーを地面に押し付けたまま、それは森中を振るわせるかのような号砲を上げた。
転んだ状態でその轟音をすぐ傍で聞いた日呼壱。
「くろ、い……虎……?」
「ば、っか……っ」
源次郎が言葉を失う。
日呼壱のすぐ傍でミュラーを仕留めて雄たけびを上げるその姿は、森の王者と呼ぶのに相応しい、黒い大虎だった。
轟音というのは、実際に物理的な痛みを伴うほどの威力がある。
巨大なスピーカーでの音を間近で聞かされると、暴風にでもぶつかったかのような衝撃を受ける。
日呼壱は今、それに等しい咆哮を間近で浴びていた。
だが、それを知覚することがなく、痛みも衝撃も感じていなかった。
(ミュラーが、俺のせいで……)
猛烈な勢いで叩きつけられ、血を吐いて倒れた若い狼の姿だけが脳裏を支配して。
ただ悲しい。悔しい。
家族を奪われた。仲間を奪われた。
その事実が、そしてその仲間に命を救われた自分に激しい怒りが溢れた。
「うるああぁああああああああああああぁ!!」
考えていない。
何も考えずに、跳ね起きた勢いのまま握り締めた槍を突き出す。
「よくもぉぉ!」
『グルァァァァァッ!』
相手も森の王者。君臨する捕食者。狂気のような日呼壱の怒声に怯むこともなくその爪を振るう。
日呼壱の槍が黒い左腕を浅く裂き、反対に右腕の黒い爪が日呼壱を跳ね飛ばした。
「うぁぁぁっ!?」
まともに食らっていたら、おそらく内臓が破裂するほどの一撃。
咄嗟に盾のように構えた石槍に黒虎の豪腕が、その有効な打撃位置よりやや遠いくらいの距離で掠めた。
伸びきったその豪腕の先にかすっただけで、数メートルほど弾き飛ばされて地面を転がる。
『グォンッッッ!』
転がった日呼壱を追撃しようとした黒虎に対して、ハナが襲い掛かった。
今しがた槍で傷つけた左腕に全力で噛み付き、振り払われる。
『グルゥゥゥ……』
傷口に噛み付かれてさすがに痛みを感じたのか、追撃をやめて唸り声をあげる黒い虎。
振り払われたハナも日呼壱も体勢を整え直してそれに相対する。
その虎の腹の下には、ひゅうひゅうと呼吸をするミュラーの姿がある。その胴体の傷は深く、赤黒い血があふれる。
(2本の角に、赤い三つ目……それに、でかい)
日呼壱は改めてその姿をよく見て、敵の強大さを認識した。
立ち上がった目線の高さが日呼壱と同じくらいだということは、目線が腹くらいのミュラーやハナより遥かに大きい。
四足動物でそれくらいの大きさだとすれば、馬のような大きさだが、この虎は筋骨隆々で横にも大きい。重量ならサイと同等くらいなのではないかと思えた。
つまり、一トンとかそんな大きさ。
(こんな……五年も経ってから、こんなファンタジーみたいな生き物が出てくるのかよ……)
ゲームでいうなら、中盤に出てくる難敵のボスだろうか。
今まで森で遭遇したどんな生き物とも別格の脅威度だ。
「こいつ……ミュラーを……っ!」
白い石槍を握り締める。
三つの赤い目が向けられると、思わず手が震えた。
手だけではない。膝も、足も、顔の筋肉までも。体内の胃まで恐怖で震える。
距離は三メートルほど。
この虎なら、一足で距離を詰めて、日呼壱の喉なり腹なり容易く切り裂くことができるだろう。
(死ぬ……)
これを逃れる道がない。
ハナでも、この場にさくらがいたとしても、この圧倒的な強者の前では逃げるのが精一杯だ。
正面から戦って勝てるような存在ではない。
動物園で見たライオンの倍以上の質量。そして野生の獣の放つ気配は、飼われている獣とは比べ物にならないほど暴力的だった。
「日呼!」
源次郎の声に我に帰る。
と、再度の轟音が日呼壱の耳を襲った。
――ダアアァン!
黒虎の体が揺れた。
たたらを踏むように二、三歩ふらついて、
『ガァァァァァァッ!』
――ダアアアァァン!
二発目。
今度は顔だった。
吠え掛かろうとした猛獣の顔を銃弾が掠める。
先ほどと違い踏みしめた足は揺らがなかったが、太い首を竦めて顔を背ける。
「爺ちゃん」
『グウゥゥ……』
黒虎は源次郎が構える黒い鉄の筒と、石槍を持つ日呼壱を見比べると、小さく唸った。
警戒。
さすがの猛獣も銃弾を受けてまるで平気ということはない。効果はあったし、経験したことのないだろう銃声にもやや怯んでいた。
未知の脅威は、野生の獣の本能に撤退を選ばせた。
『グラァァァ!』
一声吠えてから、足元で息絶えかけているミュラーを咥えて森の奥へと走っていった。
「あっ、このっ……」
追いかけようとして足が動かない日呼壱。
動かないのではない。震えている。
膝に力が入らない。がくがくと恐怖を訴える自分の足を、拳を握って殴りつける。
「……ちく、しょうめ」
「あれは無理じゃ」
ハナも追いかけようとしない。
ただ、その走り去る背中に遠吠えだけをかけて、そのまま見送った。
黒い巨大な背中は、すぐに森の木々の向こうへと消え去っていった。奪われたミュラーと共に。
「わしも……すまん。
距離は近かった。一発目は体に命中していた。二発目は、頭を掠めていた。
耳元を突き抜けたその銃弾のお陰で、黒虎が撤退を選んでくれたのかもしれない。
「いや……あれは、無理だよ。仕方ない」
先ほど掛けられた言葉を返す。
怖かった。おびえ、竦んだ。
頭に血が上って攻撃したが、まともに相対したらとてもそんな気になれなかった。
むしろそれに正面から銃撃を浴びせた源次郎の胆力は称えられるべきで、決して責められるものではない。
巨大な獣と間近で接して、冷静な判断をするのは簡単なことではない。
(思い上がっていたんだ。この森で、慣れたと。脅威に対応できるって)
その傲慢が、さくらの子であり伊田家の仲間だったミュラーを死なせた。
あれが生まれた時から知っている。どんな声で鳴き、何が好物か。
何だかんだで一番母親に甘える子だったことも。
まだ息はあっただろうか。だが、間違いなくもう助からない。
できればこれ以上の苦痛を感じることなく――
「くそぉぉぉ!」
そこまで考えただけで日呼壱の頭は真っ白になり、思い切り地面を殴りつけていた。
「ごめん、ミュラーごめんなぁ……俺のせいで……」
苦痛を感じるとか、食われるとか、考えれば考えるほど頭はぐちゃぐちゃに混乱して、日呼壱は泣いた。
源次郎も、ハナも泣いていた。
結局、何も得るものがないまま、失ったものへの悲しみだけを持って、帰路に着くことになった。
寛太を失って以来の敗北は、痛恨の一撃になって日呼壱たちを打ちのめした。
手痛い敗北だった。
◆ ◇ ◆
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