伊田家 第三十五話 森の日々_2



『グァアウウゥゥ!』


 明らかに争う時の声。

 ミュラーとハナが駆け出していったのを追いかけていて、その声を聞いた。


「さくら!?」


 日呼壱はそう聞いてみたが、どうも違う。


 先行する子狼――もう立派な若狼だが――たちの背中が見えなくなるが、唸り声はその先から聞こえていた。


「先に行くよ!」


 芽衣子がスピードを上げて日呼壱を置き去りにする。

 機敏なことと、そもそも荷物の量が違う。芽衣子は必要最小限のものしかもっていないが、日呼壱は肩掛け鞄に槍を手にしていた。全速力なら芽衣子の方が速い。


 手斧を片手に駆けて行く芽衣子が何かを見つけたのか、右手を振りかぶって、止めた。

 後ろを行く日呼壱にはまだ状況が見えない。

 普段は来ないような場所だった。枝や茂みが多く走りにくいし、視界も悪い。



『ウォンウォンッ!』


 この声はミュラーだ。さくらの子供たちであるウォルフ、ミュラー、ハナの鳴き声くらいは判別がつく。

 日呼壱がその状況を把握した時には、芽衣子が手にした手斧で猛禽デビルコンドルに踊りかかっていた。


「こんのっ!」


 助走があったからなのか、かなりの跳躍だ。


 それだけではない。芽衣子は飛ぶ前にロープを上に向かって投げていた。

 そのロープの先端にはフックが付いている。

 フック付きロープを木に引っ掛け、それを引っ張ると同時にジャンプをしたのだ。


 ある程度見通しがある場所でなければうまく行かないと思うのだが、芽衣子は小さな隙間からでも上手に投げて目標地点に括り付けるのが得意だった。これで鳥を獲ったことさえある。


 ロープアクションも使って手前の小さな茂みを飛び越えるついでに、三メートル以上飛び上がって何かを襲っているデビコンの翼に手斧を叩きつける。

 狼の届かない高さでホバリングしていたデビコンだったが、飛び掛って襲ってきた芽衣子に咄嗟に対応できず叩き落された。


 運動神経や平衡感覚に優れた芽衣子は、飛び上がった勢いを前方にあった木の幹に足をつけてうまく衝撃を受け止め、そのまま下に着地する。


『キェェァァァァッ!』


 その鳴き声は、芽衣子の頭上からだった。

 着地した芽衣子の頭上に、別のデビコンが鋭い爪を突き立てようと猛スピードで降下してきた。


「うっくしょっ!?」


 なんだかよくわからない声を上げながら、着地した位置から前転してその爪を躱す芽衣子。

 間一髪。

 だが、転がるスピードのまま今度は別の大木に背中を打って、鈍い音が響いた。


『キァァァァッ!』


 また別の一羽が、その芽衣子に襲い掛かろうとするが、今度はハナがその前に躍り出た。


『グルァッゥゥ!』


 芽衣子を守る為にその爪を振るうと、襲いかかろうとしていたデビコンが軌道を変えて木の上へと逃げる。


 最初に叩き落された一羽は地面でもがいている。

 先ほど急降下してきた一羽は、一撃を回避された後ホバリングして、次は別の獲物に爪を立てていた。



『ピギャアンンッ』


 狼の悲鳴。

 顔を深く裂かれ、甲高い鳴き声を上げる狼。


「このやろっっ!」


 鞄を放り出した日呼壱が、狼に襲い掛かった猛禽に槍を突き出した。

 羽が散る。

 が、かすっただけだ。重大な損害はない。

 デビコンはその攻撃を受けて状況を不利と見たのか、上空へと逃げる。


 それまでは狩りに熱くなっていて敵が増えたことに気づいていなかったのか。

 いったん空高い位置から現状を確認するように高い位置を取って、先に木の上に避難していた別の一羽と合流して頭上を旋回してからどこかへと飛び去っていった。




 目の前の脅威が去って、日呼壱は顔をしかめている芽衣子に駆け寄った。


「メイちゃん! 大丈夫?」

「ん、ん……ったぁい、けど、うん。平気……ったた」


 木に背中を打って苦しそうな顔をしていたが、芽衣子は立ち上がって日呼壱に答える。


 軽く腕を回して、背中の痛みを確認している。とりあえず動くのに支障があるような怪我ということはない。

 ロープを使った空中殺法やその動体視力、平衡感覚は超一流のスポーツ選手並みと思えるが、その体はまだ成長期の女の子だ。もっと自分を労わってほしいと日呼壱は思うのだが。


 デビコンたちは遠くの空へと霞んでいく。再度襲来することはないだろう。



「こいつは……」


 デビコンに顔を深く裂かれた狼。それは日呼壱たちの家族ではない。


 森に暮らす野良の狼。見覚えのない個体だ。

 顔を裂かれたところは見ていたが、それとは別に腹にも深い傷を負っていて足元に血溜まりが出来ている。


『ウウゥゥゥ』


 それでも、明らかにふらつく四本の足で大地を踏みしめ、日呼壱たちに対峙する。

 正体不明の人間に警戒を緩める様子はない。

 腹からぼたぼたと血を垂れ流しているのに。


 どうしようか少し悩んだが、とりあえず日呼壱はまだ地面でもがいているデビコンにとどめの一撃を加えた。

 もう危険ではないかもしれないが、放っておいたら思わぬ奇襲を受けるかもしれない。

 デビコンを駆除することで、この狼に敵対するつもりがないことを示したいという気持ちもあった。


 ミュラーとハナは、その狼から攻撃を受けないくらいの距離を取って、日呼壱と芽衣子の指示を待っている。

 さっきこの狼の危機を知らせる咆哮を聞いた時には指示も聞かずに飛び出していったというのに。


「どうしようか……ほら、そんなに警戒しなくていいから。大丈夫、もうやっつけたから」


 満身創痍の状態で日呼壱たちに低く唸り声を続ける野良狼に、出来るだけ優しく声をかけてみる。

 だが野良狼に言葉は通じない。

 顔を裂かれた時に、左目を深く傷つけられていて、見えていない様子でもある。



『グゥゥ、ブァンッ』

『キャンッキャンッ!』


 その野良狼の後ろから、今まで隠れていた小さな狼が駆け出してきて吠えた。

 二匹の小さな狼が、、母狼を守ろうという姿勢で。


「子供を守ろうとしていたのか」


 おそらく先ほどのデビコンは、この子狼を狙って襲ってきたのだろう。

 それをかばって戦った母狼だったが、頭上から複数で襲ってくるデビコンに遅れを取った。

 この森で日々営まれている自然の一場面だ。珍しいことでも特別なことでもない。たまたま日呼壱たちが居合わせたというだけのこと。



「ほら、大丈夫だから……ね」


 今度は芽衣子が声を掛けた。

 軍手をはめた手には、今しがた討伐したデビコンの足を乱暴にもぎ取った肉があり、そっとその狼たちの足元に差し出される。

 もがれた鳥の足に、血のしたたる肉がついている。


 いくら手袋をしていても、そうして動物の肉を裂く感触は気持ちが良いものではないだろうが、芽衣子はためらわなかった。

 肉を与えられた子狼たちが、どうしようと母狼の判断を仰ぐ。


『……グルゥ』


 母狼は、小さく喉を鳴らすと、自身の流した血溜まりに座り込んだ。

 そうして、荒い呼吸の中で何かを伝えるようにミュラーとハナに向けて唸ると、ハナがそっとその鼻先を母狼の耳に擦り付けた。


 ミュラーは、デビコンの足を咥えて、改めて子狼たちの前に置いた。それを受けて子狼たちは母を襲った猛禽の肉に噛り付く。

 がつがつと獲物を咀嚼する子狼を、皆で静かに見守る。


 母狼はその様子を見て安心したのか、


『クウゥ……』


 小さく鳴くと、荒く上下していた腹の動きが次第にゆっくりになり、やがて止まった。



 日呼壱と芽衣子はそっと目を閉じて無言で祈りを捧げ、残された狼たちは高い声で長く歌うように鳴いた。

 二匹の若狼と二匹の子狼の声は森に響き、子供を守った母狼の魂を送った。



  ◆   ◇   ◆ 



 森で暮らすうちに色々と鍛えられているのかもしれない。

 見た目にも明らかに成長しているのは芽衣子の身体能力だが、日呼壱も自分の生存能力が鍛えられていると実感している。

 目印のない場所からでも、なんとなく家の方角の目星を付けて帰宅することが出来る。こういう部分も成長の一つではないか。


 ミュラーとハナの嗅覚でも帰ることは出来たかもしれないが、それではあまりに他力本願だろう。自力で帰路を見つけることが出来る程度にはこの森に慣れたと言える。

 母狼の遺体はそのままにしてきた。埋葬してやるほどの余裕はない。



 子狼たちは、助けられたことで警戒を解いたのか、少し母狼の遺体に名残惜しそうではあったが一緒についてきた。

 同族もいて、食べ物を分けてくれるのだから敵ではない。

 自然の中で生きていく為には力が必要だが、その力が不十分な子狼たちとすれば庇護してくれる群れに属することを選ぶのは当然の流れだ。



 日呼壱としては、何でも動物の子供を拾っていくわけにはいかないのだが、目の前で母狼と死に別れた幼い狼を見捨てるというのも後味が悪い。

 それにこの狼たちはやはり人間との共生に向いた性質のようだ。

 いくどか森で出くわした時にも、さくらがいるからなのか、敵対的な行動を取ることはなかった。

 争う必要がないほど森の恵みが豊かだということもあるのかもしれないが。



「あーぁ、服破れちゃった」


 芽衣子のぼやき。

 先ほどのデビコンとの戦闘中に転んだ時なのか、あるいは猛禽の爪が掠めていたのか、赤いトレーナーの脇が裂けている。


「おばさんに縫ってもらわないとかな」

「それ、もうだいぶ小さいんじゃない?」

「そうだけど、でも……」


 新しい服を用意することもできないのだから、繕って使わなければならない。

 その芽衣子の考えは正しいが、芽衣子は成長期の3年間を過ごしているのだから、当時の衣服ではサイズが合うはずがない。


「男物で悪いけど、俺の中学校の頃のがあるはずだから」

「んーそうだね。そうだよねー」


 赤いトレーナーは伊田家にあった芽衣子の衣類のひとつで、三年間着まわしているから今の破れ以外もそれなりにほつれが目立つ。


 今は日本人の平均身長並みの日呼壱だが、中学校の頃に一年たらずで二十センチ近く身長が伸びたことがあった。

 その際、新しく衣服を買ってはサイズが合わなくなりということが繰り返されて、ろくに着てもいない服が死蔵されている。

 納屋の二階の物置にあるはずだ。その頃の靴やらもあるだろう。


「お下がりで悪いんだけど」

「それは別に大丈夫だよ。これ捨てちゃうのが寂しいって思っただけ」

「捨てなくてもいいんじゃない。とりあえず直しておけばまた誰か……」


 ――子供にでも。


 と言い掛けて、慌てて口を噤む。

 どこの子供に着せるというのだ。誰と、誰の子供に。さくらとマクラの子供になのか。


「直しておくの?」

「……また何かに、使えるかもしれないし」


 言い繕う日呼壱。


 視線を明後日の方に向けていたので、芽衣子がふふんと何かを察した笑みを浮かべていることに気づかなかった。

 日呼壱にとっては未だに幼さの残る少女だが、その少女は体だけでなく精神も成長をしている。


「そうね、何かに使えるかもしれないものね」


 年長者の失言を追い詰めたりしない程度に、芽衣子は大人になっていた。



  ◆   ◇   ◆ 

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