伊田家 第三十六話 苦い記憶とワンピース
狼や猫が子供を産むには父親と母親が必要なのだということくらい、芽衣子だって知っている。
健一や日呼壱は芽衣子がそんな性的なことを知らないという風に接することが、芽衣子には少しおかしかった。
現実に成長することで女性としての体の仕組みになってきて、その為に下腹にT字帯を巻いている時期もある。無論、そういう洗い物については日呼壱たちの目に触れないようにやっているのだが。
「――って、日呼ちゃん赤くなっちゃっててさ。もう、別に気にしなくたっていいのに」
「あの子は変なところが真面目だから……あったわ、この辺ね」
異転前に立て直された納屋の二階は物置になっている。
まずこの納屋を建て直して、そこに母屋にあった荷物で捨てないもの――捨てない、まだ使えると判断された物が多かったが――をこの物置に放り込んで、母屋の改修をした。
その際、日呼壱だけでなく他の古着なども詰め込まれていて、美登里の古着もそれなりにあった。
「もう若くないから着ないかと思っていたんだけど、芽衣子ちゃんが着てくれるなら捨てないでいてよかったわ」
「これ可愛い。あー、でもちょっと動きにくいかな?」
美登里が並べていく衣類を楽しそうに手にとってみて、しかし森で実用的かどうかと考えてしまう。
そんな芽衣子に苦笑を浮かべて、
「たまには家で着てみたらいいんじゃないの。日呼壱なんてすぐに真っ赤になっちゃうわよ」
「えーそうかなぁ」
「ほら、この下着とか。古着で申し訳ないけど、実際に着たの二度くらいだから」
「わぁぁ、おばさんすごぉい」
決して機能性が優れているとは言えない薄いランジェリーを手にとってきゃいきゃいと笑う。
「お下がりでいやじゃない?」
「別に平気。っていうか、平気じゃなかったらノーパンになっちゃうし。それはさすがに女の子的にイヤなわけで」
「そう言ってくれると助かる。ああ、こっちはあまりにデザインがダメ過ぎて穿かなかったやつだわ」
「三枚色違いセット? 何で買ったの?」
「通販で、もう少し買えば送料無料だったから。だったと思う」
なるほど納得、と未開封の袋に入ったブラとパンツのセットを見てみる。
今の芽衣子にはまだ少し大きいような気もするが、これから使うのに支障はないだろう。
デザインは確かに布地が大きすぎて中高年向けだが、他の誰かに見せるわけでもない。学校の体育で着替えるわけでもない。
「そういえば日呼壱の中学校の体操着とジャージのほとんど新品があるはずね。あの子、クラスで一番小さかったのに急に大きくなるんだもの」
納屋の中は宝探しのようだった。
新品同様の体育館シューズなどもあった。これも運動靴として使える。森での探索で靴の傷みは顕著だ。
もらいものや何かのおまけのタオルやら何やらと、使わずに放り込んであったものも多い。
食器や鍋などの調理器具も、結婚式の引き出物やらの箱に入ったままの新品が見つかる。
「あっちの方は?」
先ほどから美登里が手をつけようとしない方の一角を指すと、美登里は軽く首を振った。
「あっちはお爺さんのものがほとんどね。亡くなったお婆さんのとか。ああ、黒板なんてなんであるのかしら」
古い箪笥などがいくらか並んでいる。源次郎とその妻住ヱの物が詰まっている。
その箪笥の向こうに、あまり大きくはないがキャスター付きの黒板があった。学校で不要になった備品でももらってきたのだろうか。
源次郎は、自分が死んだら捨てていいと言って、改修工事の時には捨てなかった。
こうなってみると、捨てないでおいてよかったと改めて思うが。
「着物とかもあるわよ。お婆さん、学校の行事とかで着物を着ていくことがあったから」
「着てたら走れないと思うんだよね、着物って」
可愛いとか綺麗とかの前に、この森で生きていくための運動性を優先する芽衣子。
不憫だと思うこともあるが、たくましいとも思う。
「芽衣子ちゃんは本当にいい子ね。頼もしいわ」
「えぇ、そうかなぁ」
「日呼壱をよろしくね。あの子、たまに抜けてるから」
「森では頼りになるんだよ。ほんとに」
視野が広く冷静な判断が出来る日呼壱がいるから、芽衣子が割りと思い切った行動が取れる。
お互いに補い合ってうまく歯車が回るのが楽しい。うまくいってるときのチームスポーツのような感覚だ。
たまに失敗もあるが、致命的な失敗はこれまでしていない。失敗を活かして次に繋げている。
「みんなさ」
不意に、ぽつりと。
「私がここで不便な生活していてかわいそうって顔するじゃない」
「そうね」
「そんなことないんだよ」
納屋の中を漁りながら、美登里と顔を合わせないようにしながら芽衣子は言った。
「本当はね、たぶん一番日本に帰りたくないって思っているのが私だったんだから」
「……どうして?」
芽衣子がそんなことを言い出すのは初めてのことだった。
顔を合わせずに言うのは、本心だからなのだろう。面と向かったら言いづらい本当の気持ち。
「私……クラスで、ちょっと居づらいっていうか……仲間外れになってたから」
「…………」
「最初はね、五年生の終わりごろに、クラスの男子に好きだって言われたんだけど。私はそうでもなかったから興味がなくて」
「ええ」
「そしたらその話がクラス中みんなに伝わっていてさ。その男の子のことを好きだった女子から、いじめ? みたいな嫌がらせされて」
やや早口になるのは、つらい記憶だから。
「芽衣子ちゃんは何も悪くないのにね」
美登里の心が痛む。
今だから、三年も過ぎた今だから、何でもないように話しているが、当時の少女の心情はひどく追い詰められたものだろうと。
「うちの学校ってさ、五年と六年だとクラス替えしないから、それが続いてて。ママは、連也のことで苛々してることも多かったし……」
「芽衣子ちゃん」
「だからね。こうしてここに来た時も、帰れないって時も。パパが……帰る方法を探すって言った時も、私は……このまま帰れなくてもいいって、そう思っていたから……だからパパが……」
「芽衣子ちゃん!」
途中からは涙声だった。
叱りつけるように名前を呼んだ美登里の目からも涙が溢れていた。
顔を上げて、美登里を正面から見る芽衣子の目にも涙が溢れる。
「全部、あなたのせいなんかじゃない。そんな風に言わないで」
「でも……でも、パパは……」
「芽衣子ちゃんのせいだなんて、あなたが悪いなんていうことは私が許さない。寛太君だって同じはずよ。誰も、芽衣子ちゃんでも、芽衣子ちゃんが悪いなんて言うのは許しません」
美登里は芽衣子をぎゅっと抱きしめてそう言った。
「私たちも、悪かったわね。あなただけ可哀想みたいな扱いをしていたわ」
「おばさん……」
「ごめんね、芽衣子ちゃん。でも、もう私たちは家族なんだから。家族を不当に悪く言うのは、家族でも許さないわよ」
「……はい。ごめんなさい」
「寛太君のことも、あなたが悪いんじゃないわ。あれは……」
私のせいね、と言った美登里の真意を、芽衣子が知ることはなかった。
ただ、三年間ずっと誰にも言えなかった心残りを話すことが出来た安堵で、なかなか涙は止まらなかった。
その日の夕食の芽衣子は薄い黄色のワンピースだった。
日本でなら珍しくもない格好だが、大抵は長ズボンにトレーナーのような格好だった芽衣子のスカート姿に、日呼壱は見ていいのか戸惑う。
なるほど、女の子だ。
ディナーの時くらいオシャレな格好をしたいと思うこともあるかもしれない。
普段があまりに野生的な生活に特化しすぎているだけで。
落ち着かない日呼壱の様子に、美登里と芽衣子は顔を合わせて笑うのだった。
◆ ◇ ◆
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