伊田家 第三十三話 足跡
寛太が残した目印のおかげで進行速度は速かった。
日呼壱たちにはわからないことだったが、寛太の進行よりかなり早く、夕暮れまでに寛太が分岐でやり直した地点まで到達する。
「左側は崖になってるってさ、爺ちゃん」
「さああばかんの(それはいけないな)」
木の幹に刻まれていた文字は、時間が経っていて多少は埋もれていたが読むのに問題はなかった。
黄色のビニール紐のしるしはおよそ一〇〇メートル間隔で巻いてあり、寛太が辿った足跡を教えてくれる。
そろそろ暗くなるだろうということで、一日目はそこでテントを張った。
枯葉をよけ石で簡単な竈を作って火を焚く。もうすぐ一年になる森での生活で、この手の作業の手順は身についてきた。
公衆トイレなどないので、木陰で穴を掘って用を足すことにもすっかり慣れた。
緊急事態に備えて、寒くない時は下を全部脱いでしまう。
咄嗟のときに、半脱ぎの状態では走ることが出来ない。特別に恥じる相手もいないし、目撃されて通報されることもない。
さすがに芽衣子が一緒ならそんなことまではしないつもりだが、こうして遠出する場合にはこうした用心も必要だろう。
ウンコしてる最中に石猿に襲われて、羞恥心を優先して死んでしまったら、それこそ恥ずかしい死に様だ。
実際、下半身が完全解放されている状態で、襲ってきた石猿を鉈で倒している健一の姿を見ていた。
お澄ましして生きていけるほど優しい環境ではない。
今は周囲の警戒をさくらがしてくれているし、警戒の声などは上がっていないので問題はないだろう。
源次郎と日呼壱はさくらという護衛のお陰で、比較的安心して野営をすることが出来た。
◆ ◇ ◆
二日目。
川原を進んで行くと、少し先行していたさくらが足を止めていた。
「どげした?(どうしましたか?)」
源次郎が声を掛け、さくらが見据える方向に目を向ける。
北に向かって流れる川の左手、小高くなっている崖の上の方。二匹の狼がこちらを見ていた。
「仲間、かな?」
「どげかの」
源次郎が肩に担いだ銃を手にする。日呼壱も、荷物を置いて石槍を両手で構えた。
さくらは、おそらく同族に向けて、
『クゥゥオンッ』
警戒とも甘えるのとも違う声を上げた。
『オォーン』
崖の上にいた二匹の狼が、それに応えるように空に向かって声を上げてから、背中を向けて歩いて去っていった。
ちょっと通るよ、わかったよ。そんな挨拶なのだろうか。
さくらはまた歩き出して、日呼壱たちも警戒を解いてそれを追う。
寛太はさくらを連れていなかった。先ほどの狼たちに敵と認識されたりしなかったのだろうか。
少し心配になったが、川原に沿った森の木には、まだ先まで黄色いビニール紐が巻かれている。
「叔父さんは、まだ先まで進んでいったみたいだね」
「そげに心配せんでもええ。あぎゃん狼なら寛太は馴らして道案内にしとる」
さくらもそうだが、先ほどの狼も人間を見て襲い掛かることを優先にしている様子がない。
襲う利点がないのか、他の理由なのか。敵対すればかなりの脅威だが、今までのところではそういう姿勢は見えない。
「もともと人間に飼われていたりして」
「しゃん見えようの」
人間との共生をしてきた種族だと言われたら納得するが、肝心のその人間の姿はどこにもない。
今の狼を飼いならしているのが寛太で、この森の環境で生き抜くノウハウを手に入れてくれていたらいいのに。
そんな希望が日呼壱の脳裏を掠めて、すぐに振り払った。
もしそんな状態なら、きっと何を差し置いても芽衣子に元気な姿を見せてくれているはずだと。
それからしばらく進むと、さくらがまた足を止めていた。
さくらが足を止めた大きな岩の前までくると、その理由がわかった。
「石猿について……か」
「ここいらで襲われたんかのぉ」
石猿は、四匹、五匹程度の集団を形成しているようだ。一匹のボスと、赤毛のメスと思われる個体。あとは年若い子供だろうか。
社会性が乏しく、ボスザルのハーレムとして集団を作り、他の群れと共存共栄は好まない。
狩りをする際は、群れの個体の中の一体が獲物の注意を引き、他のものはその周辺から襲う準備をする。
ボスは大きめの石を投石する為に、獲物との間に遮蔽物がない位置を取ることが多い。最初の牽制は、その逆側から行われる場合が多い。
おそらくこれは、どの群れでも共通した石猿の狩りの手法なのだと思われる。
あくまで経験からの推測だが。
「叔父さんがここで野営しながら書いたのかな」
「あげだ」
川原周辺を見渡すが、石猿の姿はない。
森の方にデカリスの姿があった。やや体毛が白っぽく見えたが、丸い体型はデカリスだと見分けがついた。
向こうも日呼壱の視線に気づいて、森の奥の方へと走り去ってしまう。
川辺の木には、まだ先まで黄色の紐が巻いてあるのが見える。寛太はまだ先に進んでいったのだ。
まだ日は高い。源次郎と日呼壱はそこで一度休憩を取ってから先に進むことにした。
◆ ◇ ◆
「……」
多めに、黄色のビニール紐が巻かれた一角。
ずっと右岸を進んできたが、左側の岸に妙に目立つように巻かれていたビニール紐は、
(何が、『ここ』なのか)
考えると、憂鬱になる。
日呼壱に言葉はなかったし、源次郎も口元をきつく結んでいた。
さくらが、川幅が狭くなった場所を、流れから突き出ている岩をとんとんと跳ねて渡って見せる。
そのさくらほど軽快にはいかないが、日呼壱と源次郎もそれに続いた。
左岸はずっと十メートル以上の高さの崖のようになっていたが、ここらはその崖と川の間が開いていて、ちょっとした林のようになっている。
その中に足を踏み入れる。
木々の間隔はまばらで、密集しているわけではない。テントを張ったりも出来そうだ。
その――、見覚えのあるリュックサックが置かれた辺りに。
「……」
間違いはないだろう。寛太が、探索の際に持っていった荷物だ。
中身が散乱しているのは、入っていた食料を目当てにして獣が散らかしたからだろうか。
着替えや、鍋、健一が預けたライターが、そのリュックサックの周辺に散らかって、少し土や枝葉に埋もれているのが見える。
持っていった雨合羽は見当たらない。風でどこかに吹き飛んでいったのだろう。
「叔父さん……」
それ以上の言葉は出てこない。
もっと何かないだろうかと、見えるものを拾い集めてリュックサックに詰め込んでいく。
ステンレスのナイフも見つからない。同じく石槍も見当たらない。日呼壱が持っているのとは別のを持っていったはずだが。
何か、もっと。寛太の痕跡でも。
寛太の衣類でも。
寛太の――遺体、でも。
何か、見つけられないかと。
木の根元に転がっているビニール紐の束を見つけた。多分ここから先にはもう、進む目印をつけていてはくれないのだろう。
そう思うと日呼壱の目頭が熱くなった。
「日呼……」
源次郎の声。
気遣いとか、慰めの色ではない。
もっと何か張り詰めた、何か恐怖を覚えるような。
「どう、したの、爺ちゃん」
少し声が上ずった。日呼壱は目を擦って涙を誤魔化しながら立ち上がる。
「……」
源次郎が指し示すのは、崖の方。
林からすぐに、ここらは高さ二十メートルほどの岩壁になっている。
その岩の壁に、ぽっかりと黒い穴が開いていた。
何かを飲み込むような、暗い洞窟。
「……ここ、は?」
つばを飲み込み、喉がからからになっていることに気づいた。
岩壁に唐突にあるその穴は、いつから、どのようにして出来たのだろうか。
直径は三メートルほど。穴の上からは、木の蔓なのか根なのかわからないが、そんなものが垂れて覆いかぶさっていた。
源次郎と日呼壱が気づいた洞窟に、さくらは先に気づいていたらしい。その洞窟に向かってお座りの姿勢をしている。
危険な気配はないのだろうか。さくらの様子には警戒はない。
日呼壱は、もしかしたらその中に寛太がいるかもしれないと、自分の荷物から懐中電灯を取り出した。
LEDの懐中電灯は、少ない消費電力でもかなり遠くまで光が届く。光が拡散しにくいが、直線距離は遠くまで届く。
源次郎が銃を構えつつ、日呼壱はその洞窟の奥を照らした。
「……行き止まり?」
日が入らないせいで真っ暗に見える洞窟だが、数メートルも奥になるとまた岩壁になっている。
地面に穴が開いているのか、というとそうでもない。
横穴がどこかに、と懐中電灯をあちこちに向けるが、どこも岩や土で塞がれていた。
「熊の巣にしても、浅いかの」
念のため、そこらにあった石を投げ込んでみる。
奥の壁に当たって跳ね返ると、地面をごろごろと転がるだけで特に何もない。
蝙蝠の大群が飛び出してきたりもしないし、穴の中で眠っていた熊が這い出てくる様子もない。
「本当に、何もない――っ爺ちゃん!」
振り返った日呼壱の声に、銃を構えたまま振り返る源次郎。
その銃口は、日呼壱の視線の先とぴったり合っている。
「……きゃんおぞい声出すないや、日呼(そのように怖い声を出さないでくれ、日呼壱)」
「ごめん、でも」
「わかっちょおわい」
銃口が向いた先には、木があった。
ステンレス製ナイフが突き刺さった木が。
源次郎は銃を下ろして、そのナイフのささった木に近寄る。
「枝が、折れとるの」
ナイフの刺さったあたり、日呼壱の手首くらいの太さの枝が、根元近くで折れているのがわかった。
折れてから半年ほどは経っているのか、その断面は真新しいわけではない。
「何か、書いてあるね」
ナイフの近くに、何か文字が刻んである。
慌てていたのだろう。ひどく乱雑に。
「リ……ヨ……かな?」
折れた枝は、洞窟に背を向けて見た時に、向かって左側。
文字は、その右側あたりだ。
おそらく左手で枝を掴んで、右手で持ったナイフを、その幹に突き立てて書いたのだ。
何かに、洞窟側に引き擦り込まれそうになりながら。
「リ……帰る、っていう、字か」
自分でその文字を手の平に書いてみて、その完成系を理解した。
ここから、帰りたいと。帰ると。
そういう意志の言葉を、最後まで。
日本に帰るという意味だったのか、芽衣子が待つ家に帰るという意味だったのか。
「叔父さん……」
もう一度、手の平に帰るという文字を指で書いて、胸が熱くて堪らなかった。
「帰りたかったんだ……帰りたかったよね」
「寛太……」
言葉に詰まる源次郎。
ここまで来て、おそらく寛太は何かに遭遇したのだ。
何か。
何なのかはわからないが、きっと脅威になりうるものだろう。
それに捕らえられそうになった寛太は、近くの木に掴まり、絶望的な心境であの文字を刻んだのだ。
そして、折れた枝と共にどこかに――この世から、消え去った。
骨も残っていない。
折れた枝も、割と太かっただろうが、近くには見当たらない。
もしかしたら生きているかも、という希望もあるかもしれない。死体はないのだ。
だが、折れた枝、書き残された文字。置き去りの荷物。
そして一冬を越えている。
(死んだと思わせておいて生きている……っていう状況じゃない。死亡確認が出来ないから生きてるなんて、都合が良すぎる)
むしろ戦場や実際の野生生活なら、彼は間違いなく死にましたよ、なんて確認が出来るケースの方が少ないのだろう。
もし仮に、寛太が生きてこの場を逃れたなら。
それなら何よりも目印を辿って帰るはずなのだ。芽衣子の待つ家に。
それが出来なかった。適わなかった。
断言していいだろう。この森で、この状況で、冬を越すことは不可能だ。
「……今日は、ここでキャンプしようか」
それでもそう言ったのは、希望というよりご都合主義的な妄想をしたからだ。
この場所で火を焚いて夜を明かせば、寛太がどこからか帰ってくるのではないかと。
寛太がここで脅威に襲われたのだとすれば、この場所に長居するべきではない。理屈ではそうだが、ここをすぐに離れる気になれなかった。
源次郎とさくらもいて、武器もある。何か正体のわからない脅威があるかもしれない可能性を認識している。
何らかの危険があっても対応できるはずだ。むしろ、その脅威を確認できれば知っておきたい。
「そげだの。もう日も暮れる」
周囲はだいぶ暗くなっていた。源次郎も反対はしなかった。反対しない理由のひとつには、さくらの様子が落ち着いているからという理由もあったが。
危険な何かが近くにあれば、さくらはそれを感知して警戒するはず。
今は家にいるときのように穏やかな様子だ。お座りの姿勢から特に動きを見せていない。
さくらなりに、ここに寛太が眠っていることを知って、墓参りのような心境になっているのかもしれない。
(あとで、お墓を作ろうか。メイちゃんも連れてきて……どうかな、やめておこうか)
どちらにしろ、寛太の荷物を回収したことは伝えるし、どこでという質問もあるだろう。
帰ってからのことを考えるのはやめて、夜を明かした。
ほとんど眠れなかった。焚き火を眺めながら、ちょっとした物音に寛太の足音かもしれないと過敏に反応しながら、夜を明かした。
寛太は現れなかった。
それを襲った脅威も、現れることはなかった。
◆ ◇ ◆
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます