伊田家 第三十二話 続く日々_3



 日呼壱は、月の満ち欠けをノートにつけていた。

 銀色の月は満ち欠けしない。黄褐色の月だけが、満ち欠けを繰り返す。三十日の周期なのは偶然なのか、何か納得いく理屈があるのだろうか。


 黄月は、銀月の周りを回っているのか。あるいは関係性は逆なのかもしれないが、春の頃は銀月の左側にあったのが夏の頃には上の方に、秋になると右側に位置していた。


 衛星同士がぶつかったりしないのだろうか、とも思ったが、安定した軌道になっているのかもしれない。

 肉眼ではわからないが、大きさが桁違いで実際の距離は遠く離れている可能性もある。


 日呼壱の視点からは、黄月が満ち欠けを繰り返しながら銀月の周りを円移動しているように見えていた。一度だけ、黄月も銀月も見えない夜もあった。月食だったのか。



「この世界の暦なら、この月の位置で季節を分けたり、お祭りの日を決めたりしてるのかな」


 文化を持つ生き物がいるのなら、きっとそうしているだろう。中天の満月が祭日だ、とか。


 この辺りは、雨が少ない。

 十日に一度程度の頻度で、土砂降りということもこれまでなかった。


 山の上の方は雪があるが、どうやら山脈の反対側の方が降水量が多いようだ。雲の流れる方角が、ほとんどの日で南西側から北東側に流れていく。

 ゆっくりと山から浸み込んだ地下水が湧き出して、豊かな森を形成している。熱帯雨林とは違う。


 日本にいた頃なら、まるで興味のなかった地理の話だ。風向き、地形、気候。

 社会の授業でいくらか習ったはずだが、日本で生活するのに活用したことがほとんどない。

 天気なら、気象衛星の観測で必要な時に明日のことを知ることが出来たのだし、天気がどうだからと生活に困ることがなかった。


 ここでは違う。

 誰も教えてくれないし、調べることもできない。自分で経験して、予測して、それに合わせて行動しなければ生きるのに支障が出る。

 情報が溢れる生活に慣れすぎていた。



 日呼壱は、自分の目で見て感じたことから仮説を立てて、芽衣子に伝えるようにしていた。

 小学校を卒業していない彼女にとって、筋道を立てて考えるような教導をしてあげられるのは、自分たちだけだ。

 今後、芽衣子が日本に帰れたとしても、そうでなくとも、自分で情報を整理して考える習慣をつけておきたい。


(……まあ、メイちゃんは俺よりよほど賢いんだけどね)


 一緒に話していて日呼壱は、芽衣子の理解の早さに驚くことがあった。

 勘が鋭いというのか、要点を抑えるのが得意なのだ。

 じっくり考えて正確な答えを出す、というタイプではないが、決して愚鈍ではない。


(クラスでは人気の女子だったんだろうなぁ)


 明るく快活で判断が素早い。そして顔立ちも整っている。

 きっとモテモテだったろう。

 そんな少女の健気な姿があるから、この不便な生活の中でも、日呼壱だけでなく伊田家の誰もが少しでも住みやすい環境作りに精を出している。



「結局、ええかっこしいってことか」


 異世界転移。説明もなく放り出されたこの状況。

 家族がいるから、孤独や不安に潰されたり自分を見失ったりしないでいられる。

 芽衣子がいるから、不平不満を互いにぶつけたり、苦労を厭ってサボったりすることもなく、自分の出来ることを頑張れる。


 この森に一人で放り出されていたのなら、とっくに死んでいただろう。あるいは気がおかしくなっていたか。

 日呼壱は月の観察ノートを閉じて、誰にともなく呟いた。


「ありがとう」



  ◆   ◇   ◆



 日呼壱と源次郎は、ある野望を実行に移す計画を立てていた。


「……」


 さくらが、湖畔で一頭のウシシカを追い立ててくる。

 それを待ち構える日呼壱の手には、穴を開けた石を両端に括りつけたロープがある。


 何度も投げて練習した。

 木の枝に対しては、九割ほどの確立で巻きつけることが出来るようになっていた。

 十分に近づいたウシシカの前に日呼壱は茂みから飛び出す。



『キュエェ!』


 驚いたウシシカの口から鳴き声が漏れたが、怯まずに日呼壱はその石付きロープを足元に投げつける。


「っち、い」


 見事に巻きついた。

 ――が、片足だ。両足に巻きつけたかったのに。


 ウシシカは方向転換して森に逃げ込もうとするが、足元のロープのせいか動きが鈍い。

 その首にロープがかけられた。


「ぬぉぉっ!」


 源次郎だった。動きの鈍ったウシシカの首に輪にしたロープをかけて引く。


「爺ちゃん!」


 日呼壱もそれを手伝う。必死にその首にしがみつき、獣臭い毛皮の臭いを嗅ぎながらウシシカを抱きしめた。

 強い力で振りほどこうとするウシシカ。

 二人の力でそれを押しとどめる。


 しばらくそうしていると、不意にウシシカの体から抵抗する力が抜けた。



「……?」


 諦めたのか、暴れる体力がなくなったのか。首をだらりと下げて逃げ出そうとしない。


「捕獲、成功?」

「気を抜かんことだの」


 そう言いながらも源次郎は、先ほどまでより優しい力でロープを引くと、ウシシカはそれに従ってとぼとぼと歩いた。


 その腹の下には、大き目の乳房が垂れている。授乳期のメスだった。

 少し前から、子供に授乳しているウシシカを見ることが多かった。

 捕獲すれば、ミルクが取れるのではないかと。


 納屋にあったロープで捕獲用の道具を作り、計画を立てていたのだ。

 こうして成功するまで、既に4度失敗しているのだが。


「おとなしくなったね?」

「強いもんには従うんかもしれん」


 ウシシカの生態はわからないが、都合は悪くない。



 そのまま家まで引いていって、家の敷地内の木に繋いだ。

 どうにかこうにか、足を押さえて搾乳をしてみるのだが、日呼壱にはうまく出来なかった。

 健一は、過去に牧場で乳搾り体験をしたとかで、意外とうまくやっていた。


 ――ずいぶん慣れているのね。どれくらい揉んだの?


 という美登里の質問には聞こえない振りをしていたが、何か疚しいことがある素振りに見えたのは気のせいだろうか。

 とりあえず絞ったミルクを桶に溜めると、一応殺菌の為に湯煎すると裏に持っていった。


「ごめんな、なんだか」


 日呼壱から見て疲れた様子のウシシカに謝罪の言葉をかけて、稲藁をウシシカの目の前に置いてみると、もそもそと食べ始める。

 餌はこれで良さそうかと、一緒に水の入った桶も置いておく。


 乳牛なら、毎日搾乳することが可能だ。野生動物でも授乳期なら毎日授乳するわけだから、食料さえ与えておけば明日もミルクは取れるだろう。

 与える餌によってミルクの量が変わるかもしれないので、そこらへんもまた検証することにした。



 採ったミルクを冷凍庫である程度まで凍らせて、甘い果肉と混ぜ合わせてシャーベットを作る。

 それは芽衣子に感動を与えてくれた。


「おいしいぃーっ♪」


 その笑顔を見ることが、日呼壱と源次郎の計画だったのだ。他にも、ミルクがあるのなら試したい料理はある。



 後日、ミルクが出なくなったウシシカは解放することになった。

 食べようかという話にもなったが、出産後の獣の肉は美味しくないとか。

 そうでなくても、もう十分食べさせてくれたさ。ということで。



  ◆   ◇   ◆



 そうこうしているうちに冬が来た。

 雪が降る日もあったが、豪雪という日はなかった。

 うっすらと森が白く染まる。

 燻製などにして保存食にしていた肉や魚と、冬の野菜で食事に困ることはなかった。


 幸いだったのは、ティッシュ代わりにしている葉っぱが冬でも枯れない常緑樹だったことだ。

 ウシシカなどが食べてしまうのか、低い位置の葉はなくなってしまっていたが、脚立を立てて高い枝から回収できた。

 柔らかい緑の葉なのに常緑樹とは、地球では見られない植物だがそういうものなのだと理解する。


 井戸水は、冬でもある程度の温度がある。十四度くらいだろうか。

 洗い物をするのに手が凍りつくような冷たさではなく、気温より高いので温く感じる。


 石釜で風呂を沸かすのはかなりの労力だったが、冬は狩猟に出かけることも控えたので、その分の労力を回せば可能だった。

 沸かす火で暖を取りつつ、炙った干し肉を食べた。火の近くに石を敷き詰めてイモを焼いてみたら、これが思いのほかうまかった。


 

 冬には冬の生態系があるようで、白い毛皮のタヌキのような生き物を見かけるようになった。

 夏の間は見たことがない動物だ。

 白狸を捕まえることが出来たので食べてみた。

 翌年、デカリスを狩って食べたところ同じ肉だったので、冬毛というか冬体型なのではないかという結論になった。



 屋内にいることが多くなった芽衣子は、暇つぶしに日呼壱の書棚にあった漫画を読んでいる。

 完結しているものもあれば、未完のものもある。


 日呼壱は、一気に読むことを好む性分だったので、古い世代の漫画シリーズを全巻まとめ買いなどしている物も多かった。寛太の世代で親しまれていたような時代の物だ。

 少女趣味のものはなく、少年漫画やちょっと大人向けの青年漫画ばかりだが、元々活発な芽衣子には恋愛物語よりも好まれた。



 いつになったら冬が終わるのかな、という言葉が出始めた頃。

 山からの吹き下ろす風と、雪が三日間続いた。


 五〇センチ以上の積雪になり、このまま続くと雪掻きなどしなければならないかと心配していていると、前触れもなく晴れた。

 四日目にぴたりと止むと、それからは晴天で穏やかな日が続き、降り積もった雪もほとんど融けてなくなった。


 初めての冬は、こうして明けていった。



  ◆   ◇   ◆ 



 まだ朝晩は肌寒い初春に、シロは子猫を四匹産んだ。産屋はさくらと同じ納屋の古布団の部屋だ。


 日本にいる頃も、毎年冬から春になりかけると発情期になって、なぁーごぉなあぁーごぉぉ、と鳴いていた。

 その度に、発情期が過ぎたら避妊手術に行こうかという話も出ていたが、過ぎると何となく獣医に連れていかないで、ここまできてしまった。

 その結果がこの出産だ。


 悪いことではない。子犬も可愛いが、子猫の可愛さは凶悪な力がある。

 一匹はシロと同じ白毛、それと白茶、もう一匹はなぜか黒猫、そして最後の一匹は銀色。



「銀色はまあ……わかるんだけど。なんで黒猫が生まれるのかね?」

「猫の遺伝子は白が優性で、白の因子があると出やすいのよ。他の模様が出ることもあるみたいだけど」


 日呼壱の疑問に答えたのは美登里だった。


「黒猫には、白の遺伝子が遺伝しなかった。だから、もともとシロの中にあった別の遺伝子で、黒色が表に出てきたのよ」

「おばさんすごい。博士みたい」


 芽衣子の率直な尊敬の眼差しに得意げな笑顔を見せる美登里。

 なぜそんなことを知っているのか。実は美登里が大の猫好きだったからなのだが。


「銀猫は、まあ、父親の遺伝子なんでしょうね」


 父親、と言われて視線を集めた健一が憮然と、俺は無関係だと首を振る。

 シャルルが父親なのだろう。

 当のシャルル本猫は、さくらの出産の時は駆け寄ってきて毛づくろいしていたのに、今は少し離れた棚の上で自分の顔を前足で拭いている。


「ああ、自分の家族のことだと何でもないみたいな態度をする父親なのね」

「……俺は関係ない」

「心当たりがあるのかしら」


 なぜか責められる健一は、旗色が悪いと思ったのか納屋から出て行った。



 子猫たちは母親のシロのおっぱいに吸い付いているが、その目が開いていないので飲みながら眠っているようでもある。


「可愛い」


 思い出したように口元を動かして乳を飲む子猫の姿に、芽衣子が目を細める。

 そんな芽衣子の様子に、日呼壱は目を細めるのだった。



 銀猫の子供はオスで、シャルル・ドゥゼムと名付けられた。

 フランス語で二世だとか言うが、日呼壱にはわからない。美登里の命名だ。

 白茶はオスでチャア、黒猫はメスでマーヤ、白猫もメスでリリィと名付けられた。

 


 猫の出産から十日後、日呼壱と源次郎は湖にさくらを連れて来ていた。


 寛太の捜索。

 昨年の秋に健一とさくらが寛太を探しに進んだのだが、一晩で断念した。

 森で夜を越すのには相当な神経を使う。目に見えない恐怖や、現実に獣の脅威もある。

 寛太と違いさくらと一緒だったが、それ以上寛太の足跡を追う気力が持たなかった。


 寛太が一人で犬も連れずに探索を強行することが出来たのは、よほど日本に帰りたかったからなのか。あるいは消防士としての慣れがあったのだろうか。

 その答えはわからなかったが、健一にはとても単独で森で野宿を続ける気にはなれなかった。


 二人なら多少は負担を軽減できるだろうという話になったが、男手を二人も割くことは、初めての冬を前に無理な相談だ。無茶な計画になってしまう。

 冬が過ぎたら、二人で出かけるということにしていた。

 今日がその日だ。



「……行こうか」

「無理せんようにな」


 出発、と木の幹に刻まれた文字を前に、張り詰めた面持ちの日呼壱を源次郎が嗜めた。

 今回はキャンプ用の簡易テントも用意している。杭で固定するのではなく、少しひねると傘のように広がってくれる簡単なテントだ。

 さくらと共に、寛太が残していった目印の黄色いビニール紐を追って森を北上するのだった。



  ◆   ◇   ◆ 

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