伊田家 第二十九話 寛太の道_2
探索三日目。
森と川の景色は、代わり映えがしなかった。
何十年、何百年か、あるいはもっと遥か長い時間を、この森はこうして続けてきたのだろう。
風に揺れる木々と小川のせせらぎ。雲の隙間から差し込む日差しが川原の岩を白々と照らす。
時折、トンボかカゲロウのような昆虫が飛んでいるのを見かける。うっすらと緑色に光る半透明の羽は保護色のようだ。
川幅はあまり変わらない。
目印の為にビニール紐をかけながら進んでいるので、進行速度はあまり速くはない。
水筒の水を呷って、周囲を見回す。今日のところはデカリスも石猿も、それ以外のある程度の大きさの動物も見かけなかった。
用意してきたビニール紐の一束がなくなったのは、昼前の頃だった。
「まだいけるか」
休憩がてら昨日捕ったデカリスの肉をかじりながら、リュックの中からビニール紐の次の一束を取り出す。
先ほどまで使っていたのは、元々家の周囲探索で使っていた残りもの。今度のは未開封の五〇〇メートル巻きなので、十分なストックだ。
川原を歩くのにも慣れてきた。
昼休憩の後も進めるだけ進むことにする。
「……って、そりゃあ、いるか」
休んで食事していた寛太の口から漏れた声は、少し震えていた。
森の方から二匹、姿を現した。
灰色の狼。
「さくらより小さい、からな」
だからなんだと言えば、さくらよりは弱いはずだという確認を口にしてみただけ。
二匹。それ以降は姿を見せない。
狼だとすれば、もっと多くの群れを成しているかもしれない。そんなものに襲われたらとても無事に済むとは思えなかった。
「……」
お互いに警戒して、一定の距離を保って対峙する。
寛太は、立て掛けてあった槍に手を伸ばそうとして、自分の手の中にあったデカリスの肉の余りを思い出した。
「……」
もう一口、齧る。
さくらは生肉よりも焼いた肉の方が好みだったように思う。
食べ物を持つ寛太の手に二対の視線が集まった。
「……食うか?」
自分の食べかけを二匹に向けて提示する。
そろりと、二匹が一歩ずつ寛太に近づいた。
少し考えて、肉を両手で力ずくで引き裂いてから、二つの塊にしてから狼の足元あたりにそっと投げる。
『ヴァゥゥ……』
一瞬警戒して低く構えた二匹だったが、寛太に差し出された肉に興味を覚えたのか、くんくんと臭いを嗅いだ。
寛太と、肉と。お互いの顔に視線をやってから、
『ウォン』
威嚇ではなく挨拶のような鳴き声を発してから、肉を口に咥えた。遅れたもう片方もそれに倣う。
その場で食べるのではなく、森の方に駆け出してから一度寛太を振り返り、また森へと走り去っていった。
「……ふぅぅぅ」
半身に構えていた体から力が抜けて、川原にへたり込む寛太。
「びびったぁ」
今の二匹の狼は姿はさくらと似ているが、大きさはマクラよりも少し小さい程だった。
それでも野犬や狼は侮っていい相手ではない。
石猿とは違った戦闘力を持つ生き物だ。集団戦闘ならおそらく石猿を上回る厄介さがある。
今の二匹程度ならどうにかできるかもしれないが、四匹以上いたら勝てないと確信する。さくらくらいの大きさの成体がいたら、一匹でも勝てないかもしれない。
しかしあの手の獣は強い相手を執拗に攻撃するものでもない。一匹、二匹と先手で叩きのめすことが出来れば逃げ出す。
ゲームのように死ぬまで襲ってくるケースは少ないものだ。巣穴や子供を守るわけでもなければ。
「それにしたって、人間をただの獲物って見ている感じじゃあないんだよな。さくらもそうだったけど」
寛太はデカリスなどに比べれば大きめの哺乳類だが、ウシシカはもっと重量のある生き物になる。
おそらくウシシカは狼にとっては獲物になるだろう。それなら人間も獲物と見做されてもおかしくないが。
獲物に対する行動とすれば、姿を潜めて近づいて、一息に仕留めるのがセオリーだ。
姿をさらして、どういう行動を選択するか見極めるようなことは、普通はしない。しないと思われる。
「過去に人間と共生していたとか、そういうことがあるんだろうか?」
この三日の探索の間も、寛太はこの森に他の人間や文明社会の痕跡を見つけることはできなかった。
人工物と思われるものはなく、ただ自然のままにあるような世界しか見当たらない。
あの狼が、犬のように人間のパートナーとして生きていたことがあるとすれば、人間の生活の跡があってもよさそうなものなのに。
「ただ単に、見たことのない生き物だから興味を持っただけとか。好奇心の強い生き物なんだろうか」
強者ならば、人間を見て危険を感じるより、変わった生き物が何をするのかという好奇心を優先させるかもしれない。
当の狼に話を聞くことが出来ないので、結論は出るはずもないのだが。
「でもまあ、たぶん、今ので正解……だよね」
食料は失ったが、あの狼の信頼を得られたかもしれない。
この森での生き方とすれば今の行動が正答なのではないかと、寛太はそう結論付けて先を進むことにした。
◆ ◇ ◆
三日目の日も暮れかける。
川幅が狭くなっている場所を左岸に渡った。
北西寄りの川岸は崖のように高くなっているので、ずっと川の右側の岸を歩いてきたのだが、この辺りは左岸も崖との間に平らな地形が出来ていて、林のように木々が育っている。
川原のようになっていないところを見ると、水の流れに飲み込まれない地形なのだろう。
林の向こうは、崖のような山肌が見えていた。
この林の位置なら、崖側からの襲撃は落差の問題で考えにくい。右岸からの襲撃には、渡河の水音で気づくことも期待できる。
野営するのに適した場所ではないかと思えたのだ。
渡った辺りの木の幹に黄色いビニール紐を巻いて目印を作っておく。
休憩に適したポイントかと思い、目立つよう三重に巻いておいた。
少し林の中に入って、崖から数メートルほど離れた辺りにレジャーシートを地面に敷いて座る。
「うー疲れた。結構進んだよなぁ」
足を伸ばしてすねの辺りをさする。石がごろごろしている川原を歩き続けて、筋肉が張っていた。
ここまでに新しい発見はない。一度引き返すべきだろうかと考える。
「……まだ何も見つけられてないんだよな」
成果がないまま戻るのにためらいがある。だが、このまま進んでも何かがあるという保障もない。
荷物を下ろして、そのまま横になって体を休めながら思索した。
第一の目的は、この世界の知的生命体と接触すること。敵対しないよう注意して。
第二の目的は、森を抜けること。これは第一の目的にも通じている。
第三の目的は、地球に帰る方法を見つけること。
どれも手がかりすら掴めていない。
意思疎通が可能な生き物は、あの狼くらいだ。あれは知的生命体とは呼べない。
何かの痕跡さえ見つからない。山々に巨大な顔像があったり、空き缶が川原に転がっていたりもしなかった。
巨大な人間像が半分埋まっていて、ノオォォと膝をついて泣き叫ぶ場面を思い描いたりしたが、そういう物も見当たらなかった。実はここが地球だったというわけでもなさそうだ。
(家に戻ったら、もう出るのがイヤになるかもしれない)
何の成果も手がかりもないまま戻って、また危険を承知でここまで来るのかと。
みんなの所に戻って、ある程度の安全と快適な生活が出来る環境で、何かの助けを待ってみてもいいのではないか。
芽衣子も安心するだろうし、美登里だって消防士として経験のある寛太を頼りにしてくれる。
(ああ、ダメだダメだ。だからそういう考えがダメなんだって)
安易な考えだと振り払う。
このまま戻ったら寛太は自分が怠惰な方向に流れてしまいそうに思い、それを恐れた。
(少しでも、何か次につながるような手がかりがあれば)
多少なり手応えがあれば、もう少しと頑張る意欲も湧いてくる。
今のように完全に空振りの状態で、次回の探索をという前向きな気持ちになれるのか。
頑張ったからといって結果が約束されているわけではない。スポーツや勉強でも仕事でも、努力の量イコール結果という図式にはならない。
地球でもそうだった。この世界でもそうなのだ。
だが、少なくとも真っ当な結果を出すためにはそれに見合った努力が必要とされる。それもまた同じ。
「こんなところで諦めてられないよな。日本に帰らないと」
意志を固める為に、口に出した。
日本に帰ることを絶対に諦めない。ただ待っていてそんな幸運が転がり込んでくるという楽観は出来ない。
――――――
「……?」
何かが、聞こえたような、気が、した。
空気の震える、音――には、なっていなかったような。
胸騒ぎがして立ち上がる。
知らずに寛太は、腰に差してあったステンレス製ナイフを手にしていた。
周囲を見回す。
薄暗くなりつつあるが、まだ多少の明るさはある。
林は薄暗く、静かだ。川を流れる水の音が響いていた。
崖の方は影になっていてとにかく暗い。
とにかく、暗い。
丸く、ぽっかりと、口を開いたような。
それが寛太がこの森で見た最後のものだった。
◆ ◇ ◆
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます