伊田家 第十四話 襲撃者
健一は木を切っていた。
家の裏に田んぼを拓こうとする計画に、いくつかの木が邪魔になりそうだった。
ここでの生活に不思議なほど前向きになっている自覚はある。もっと必死で帰る手段を探さなくていいのか、と。
しかし、必死になってまで元の生活に帰りたいかと聞かれると微妙な気持ちもあった。それではいけないのだろうが。
どちらにしてもやみくもに動き回っても状況が好転するわけもない。そう考えると妙に前向きに目の前のことに取り組めたのだ。現実逃避かもしれない。
裏側には木々が少ない。あまり太い木もなかった。直径四〇センチほどで、これなら専門的な技術はいらないと源次郎が言った。
大木を切り倒すとなると、受け口、追い口、くさびなど色々と考えないといけないらしいが、健一にそんな知識はない。
日差しがある時間は、太陽光発電の非常用コンセントから電源が取れたので、三〇メートルの延長電源ドラムを連接して電動ノコギリを使って木を切り倒そうとしていた。
伸びすぎた植栽の伐採の為に電動ノコギリがあったのも幸いだ。本格的な物ではないとはいえ、手作業より圧倒的に効率がいい。
家があるのと反対側の幹を、三角にえぐるように切れ込みを入れていく。
ある程度まで切れたら、後は斧で叩いてみた。
薪割り用の斧だ。リフォームする前の伊田家は焚口のある浴室だったので、薪を用意していた。
今使っているのは片手で扱うにはやや大きい。他にも中、小のものも納屋にあるが、今は大きめの斧の方が都合が良かった。
「そのくらいでええかの、こっちから叩くぞ」
幹の半分ほどを抉ったが、木は倒れない。
「跳ねるかもしれん。倒れるたらすぐ逃げんとはしゃまるけんな」
源次郎の注意を聞きながら、抉った方と逆側から叩く。叩くのは、大き目の木槌だ。
伊田家には本当に何でもあるようだが、これは畑に杭を打ったりする為にあったハンマーだった。ノコギリと共に日常に必要な道具の一つ、大木槌。
都会にいた時には見たこともない。ホームセンターの品揃えも田舎と都会では違っていた。
「ぬおおぉぉっ!」
気合と共に打った一撃で、木がゆっくりと、幹を抉られた方向に倒れていく。
健一は大木槌を足元に離して木から距離を取る。
高さおよそ一〇メートルほどの木は、しなりながら地面へと倒れ、その反動で一度大きく跳ねて数メートル転がってから止まった。
「思ったより、跳ねるもんだな」
「ああして暴れる木で怪我するもんもおるからの」
跳ねてしなった様子を暴れると表現する源次郎に、健一は頷いた。
「次はもっと周りに気をつけた方がいいな」
犬猫や、女の子もいる。
車の運転に気をつけるように、注意を払った方がいいだろう。
――アォォォォン!
表側から狼の鳴き声が聞こえた。
警戒の声。群れの仲間に危険の存在を知らせるような咆哮。
皺の目立つ源次郎の表情が鋭くなり、すぐさま二人は庭へと駆け出した。
◆ ◇ ◆
日呼壱は、伊田家の敷地外にいた。
ジャージ姿で、入り口周辺の見通しを良くするよう草や枝を払っていた。
少し足元に注意がいきすぎていた。周囲への注意が散漫になる。
その存在に気づくのが遅れたのは、結果的には良かったのだが。
『キキッ』
突然の鳴き声に日呼壱が顔を上げると、ほんの数メートル先の木の上に鳴き声の主がいた。
猿。
大きさは日呼壱より頭ひとつ小さいほどの、太めの猿のような、オランウータンと見るには少し細い、白毛に所々赤っぽい毛並みの猿だった。
「うひぁぁっ!」
突然の遭遇に、驚きの声を上げて後ろに飛びのく日呼壱。
尻もちをつきながら後ずさる。
その次の瞬間、目の前を――つい一瞬前まで自分の頭があった空間を、
『アォォォォォン!』
座り込んでしまった日呼壱の前に、力強い吠え声と共に狼が飛び出してきた。
倒れた日呼壱に飛び掛ろうとした猿は、その援護に不意を付かれたのか慌てた様子で長い腕を木の枝に絡ませてかなり高い位置に逃げて、
『ギギィ!』
割り込んだ狼に対して、樹上から歯茎を剥き出しにして威嚇の声を上げる猿。
「うぁ、あり、がとっ」
狼の救援に、日呼壱はとりあえず難を逃れたと立ち上がりながら礼を言う。
当の狼は、そんな日呼壱にも木の上に逃げた猿にも興味がないのか、別の方向を睨みながら頭を低く構えていた。
それを見た日呼壱も、鉈を手にそちらに警戒を向ける。
日呼壱から見て右手に十数メートル。
そこに、別の猿がいた。
木の上に逃げていったものより大きな、日呼壱より頭半分ほど大きく見える猿だ。毛の色は白と薄い茶色が混じった色だった。
両足で立ちだらりと下げた両腕。その左手には、黒っぽい石のような何かが握られている。
「あ、さっきの、か」
先ほど、日呼壱の目の前を通り過ぎていった黒い塊は、おそらく右手に握られていた石だったのだろう。
日呼壱の頭を目掛けて投げつけた。尻餅をついて倒れた為に当たらなかったが、狙って投げたのだ。
殺す、つもりで。
「……」
下腹が、がくがくと痙攣するような感覚だった。
死ぬところだった。
この猿のような獣は、日呼壱を殺すつもりで投石してきたのだと思うと。
(あ……やば……)
殺されそうになった経験など、日呼壱にはない。
およそ日本で暮らしていた同世代なら、誰にもないだろう。
そんな現実に震える。
石の大きさは、家庭用ゲーム機のコントローラー2個分ほど。ブロックの一塊といったところか。
普通の人間なら片手で持つのには少し大きすぎるサイズだが、その猿の指は日呼壱と比べて間接二つ分ほど長い様子だった。
筋力も野生動物なりにあるのだろう。
道具を使い、かなり正確なコントロールで石を投げて獲物を仕留める。そういう生き物なのだ。
『グァン!』
狼が短く吠えた。
はっと日呼壱が我に返る。
大石猿は狼の吠え声に警戒を向けた。
日呼壱は、ふと気を逸らしていた最初の猿の姿を探すと、いつの間にかまた木を下って日呼壱から数メートルの位置に来ていた。
木に絡ませていない方の長い指に、鋭い爪が見える。攻撃する態勢。
「おまえこらぁぁぁ!」
思わず声を荒げて
「っざけんなよお前!」
興奮してうまく言葉にならない。ただ威嚇の声を上げながら敵と対峙する。
荒事なんてまるで経験がない。ゲームならともかく、現実には誰かと喧嘩をしたのなんて幼稚園の時くらいまで遡る。
敵はそんな日呼壱の事情を考慮などしてくれない。
『グルゥ……』
低く唸る狼。
頼もしい味方の存在に、少しだけ日呼壱の心に冷静さが戻る。
大きい石猿をちらりと確認して、木の上の猿に視線を戻した。
大石猿は、日呼壱よりも狼を強敵と認識しているようで、日呼壱を一瞥すると狼の方に身構えていた。
◆ ◇ ◆
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