伊田家 第十三話 森の海
「パパ、何か見える?」
「ちょっと待って、あれ? ピントかな……あ、キャップついたままだった」
下から聞こえる娘の心配そうな声に間抜けな答えを返す寛太。
彼の手には、伊田家から持ち出してきた双眼鏡があった。
服装は農作業用のツナギに運動靴。元々農作業を手伝うつもりで来ていたので、こういう状況には適していた。
芽衣子は、昨日とは違う服装だ。活発な子なので基本的にズボンが多い。
昨年、尾畑家で第二子になる連也の出産の際、仕事を休めなかった寛太は伊田家に芽衣子を預けていた。
女の子のいない伊田家では芽衣子の滞在は喜ばれ、ほぼ一ヶ月ほどお泊りをしていた経緯がある。
いつでもまた泊まりに来てほしいという要望もあり、この家に芽衣子のお泊りセットと着替えは充実していた。美登里が女の子の世話を楽しんで着替えを準備したところもある。
そこには美登里の
田畑で泥だらけにした時の為に、黒地にピンクの刺繍の入った運動靴の予備もあった。暗いところで光るやつだ。
今履いているのは昨日履いて来た靴だが。この状況で替えがあるのは助かる。
「うーん、もう少し上まで登ってみるか」
上を見上げる。
ごつごつとした岩肌が目立つ山岳地。
伊田家の裏にある山の麓を少し登っていた。
絶壁というような様子ではないが、勾配はそれなりにある。登山家が意気込むほどではないにしても、一般人には登る意欲を削ぐ傾斜に違いない。
より高い位置から周囲を見渡せば何か見つかるのではないかと、屋根よりもまだ高い場所まで登ってみたのだが。
「……地平線の彼方まで森が続いてるみたいだ」
「私も見たい」
芽衣子が寛太の後を追って登ってくる。少し大きな岩に手を掛けて登ることになったので下で待っていたのだった。
寛太は手を伸ばして芽衣子を引っ張り上げる。元々運動は得意な子なので、軽く岩を蹴って飛び上がってきた。
その後を護衛のマクラがひょいっとジャンプしてくる。リードはしていない。
「今日は逃げ出さないんだな」
マクラは賢い犬だった。昨日のようなことがなければ、リードを離しても勝手にどこかに行ってしまうような犬ではない。
二人と一匹で、そこから周囲を見渡す。芽衣子は父親の手から双眼鏡をひったくっていた。
「うーん、塔とかそういうのもないね」
「塔があったらそれはそれで警戒したいけどなぁ」
なぜ塔なのか。あったらそこには間違いなく魔物とかボスとかいるはずだ。
少なくとも人工建造物らしいものは見当たらない。鮮やかな青空に、白い雲がゆっくりと流れていく。
「海があればよかったのにね」
大森林と海だけではあまり状況の解決策にはならなさそうだが、とりあえず寛太はそうだねと娘に返した。
「緑ばっかり。こっちの山は白っぽいのに」
「ああ、こっちは地質が違うから何か……」
それまで喋りかけて、寛太はふと山肌の方に視線を向ける。
今まで、森の向こうを見ることばかりに集中していて、山の方はちゃんと見ていなかった。
「白い……?」
見下ろすと、下の方の窪みが特に白っぽい。岩とは明らかに違う。
「つまり、そうか、海だ。そうだよ芽衣子えらいっ!」
「な、なに? ちょっとパパやめてってばもう」
わしわしわしと頭を撫でると、娘は迷惑そうな顔で振り払った。
「この山は海から隆起して出来た山なんだ。所々白いのは塩なんだよ、これ。だから木が生えにくいんだ」
山の方には、植物がないわけではないが、森林とは明らかに植生が違っていた。
何となく山脈で白っぽく見えていたので雪か氷のように思い込んで考えていなかったが、この気温で氷雪はありえない。
「どこかに海があるってことだし、とりあえず塩が取れるのは助かる。あれ、でも湧き水は塩っぽくなかったな」
昨日から摂取している地下水には、塩っけを感じることはなかった。
「まあいいか。どっちにしても塩がないと困るから、これはこれで助かる発見だよ。芽衣子」
ここでの滞在が長期化する場合に、塩はどうしても必要になる。
日常の調理にも必要になるし、食品の保存にも使う。
伊田家には自家製味噌やら醤油やらと色々あるが、通常塩は購入してきている。さすがに塩田はない。
ちなみに、自家製の調味料にこだわっているのは主婦の美登里だ。田舎に来て、自家製味噌から始まったそのこだわりは趣味の域をはみ出しつつあった。自家製味噌くらいなら地域でも珍しいこともないが、醤油やらみりんまでは他の家でもそうそう聞かない。
「植物が少ないから、山側には動物の姿も見えないのかな。まあいい、芽衣子。一度戻ろう」
考え事を中断して娘を見ると足元にしゃがんでいる。
覗きこむと、芽衣子はとてつもなく苦しそうな表情をしていた。
「ど、どうした芽衣子!?」
何か毒虫に刺されたり、高山病などで吐き気がするのではないか。
寛太は慌てて芽衣子の背中をさする。
「うぅ、ほんとにしょっぱぁい」
「は? あ、っお前っ!」
芽衣子は、そこらの小石で岩肌にこびりついた塩の塊を砕いて口にしたようだった。
いや、よく見ればこの岩自体が塩の塊なのかもしれない。不純物が混ざって岩のように見えてはいるが、とりあえず今はどうでもいい。
「ばかっ芽衣子お前、ぺっしなさい!」
「もうしたよ、うえぇ」
「バカだなもう、だめだろ。まだ安全かどうかも確認してないんだから」
「だって、塩だって言ったから……お砂糖だったらよかったのに」
そう言ったから口に入れたとか、短絡思考のお子様かと呆れる。その通りだが。
苦い顔をしているが、血を吐くようなこともなく甘ったるいことを言っている娘に少し胸をなでおろす。
この世界のまだ見ぬ海も、砂糖水で満たされているということはなさそうだ。そんな海の風に吹かれたら船酔いも激しいだろう。
(井戸水も、そもそも大気もそうだ。基本的には地球の組成と変わらない。自然界で常在するのはH2OだったりNaCLだったりするんだろう。植物や動物の様子も、もっと観察が必要だけど、おおよそ地球の環境と極度に違うわけじゃない)
そこまで考えて、ふうと息を吐く。
「まあ、環境が極端に違っていたら、昨日のうちに全員死んじゃってるはずだしな」
大気の成分に二酸化炭素が多かったり酸素がなかったりした段階で終わりだった。
気候も慣れ親しんだ日本と大きな違いは感じない。若干、湿度が低いだろうか。森林地帯の割りにはじめじめした空気ではない。
「最初の遺伝子情報を作った宇宙人とかがいるのかね。基本プログラムっていうのか」
地球も、この星も。原初の生命が同じ系統から来ているのだとしたら、環境が似通うのも有り得る話かもしれないと思った。
異世界というのではなく、同じ宇宙の他の惑星なのかもしれない。それを確認する手立ては思い当たらないが。
「その辺も含めて健ちゃんたちと話してみないとだな」
とりあえず塩が手に入ることはわかった。他にも有用な資源があるかもしれない。
森の出口はまるで見当がつかないが、生きるために必要なものを確保するのも重要だ。
とりあえず砕いた塩のかけらをポケットに入れて、下に戻ることにするのだった。
――アォォォォン!
伊田家の方から響いた鳴き声に、びくりと反応する。
「なんだろう?」
マクラの耳がぴんと立って、おそらく狼の吠え声が聞こえた方向に注意を向けている。
不安そうな芽衣子に小さく頷いて見せて、
「戻ろう。でも足元に気をつけて、滑らないようにな」
寛太が先に行って、降りてくる芽衣子を下から支えようとする。
階段などでは要介護者が転んだときに備えて下に立つようにと教わる。
運動神経が良い芽衣子にそんな必要はなく、ひょいひょいと岩を足場に下りていくが、親としてはいつでも心配なものだ。
手が掛からないので助かる反面、少し寂しかったりする複雑な親心。
それを考えている場合でもないので、二人と一匹は急ぎ足で家の方に向かうのだった。
◆ ◇ ◆
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