序章 第九話 始まりの日_9



「……」


 森の奥から現れた勇壮な佇まいの狼。

 強い存在感に呑まれる日呼壱と源次郎。


 そんな中で、静寂を破るものがあった。

 その狼の上顎と下顎、牙に挟まれて。



『ギギィ……』


 呻く声。


「マクラ……?」


 思わず声を上げる日呼壱。

 狼の後ろから、マクラが姿を見せたからだ。


「あれは、キジかの?」


 狼の口にはキジに似た獲物があった。まだ息はあるらしく、わずかに身じろぎしている。



 マクラは、自分より大きい狼と日呼壱たちの間に立って、両方の顔をきょろきょろと見ている。


「……ふむ」


 源次郎は構えていた銃を下げた。



「大丈夫そうじゃ、日呼壱」

「爺ちゃん、わかるの?」

「あれは盗人の顔ではないのぉ」


 源次郎は、にやりと笑った。


「ワシが小さい頃には、うちの作物を盗もうとする輩を追い払ったもんじゃ。今も鹿やら猿やら悪さをするもんがおる。わしはもう六十年以上そんなのとやりあってきとる」

「えぇ……」


 祖父の、悪党の顔は見ればわかる理論に、ちょっと引き気味の日呼壱。

 さっきまでは結構頼れる保護者として尊敬しつつあったのに。



「こんな別嬪の犬は悪させん」

「ああ、綺麗だもんね。この狼」


 割と即物的な判断材料だったことに納得する。

 実際、美しい獣だと日呼壱も感じる。


 そうでなくともマクラが何も警戒心を見せない。

 狼の方もマクラに対して牙を剥いたりという顔ではなかった。


 そう、顔だ。動物にも表情がある。

 怯えや敵意を表す様子が見えず、こちらとの距離を保ちながら静かに佇んでいる姿は、危険な獣には見えなかった。


 こちらが警戒心や敵意をむき出しにしていたら、相手側もそうなってしまうかもしれない。お互いに敵ではないと示すことで意思疎通ができないだろうか。



「とりあえず敵じゃない、のかな」

『ウォンッ』


 その通りだ、と同意するかのようなマクラの鳴き声。

 灰色の狼は、その口に鳥を咥えたまま軽く後ろを振り返る。



「まだ何かいるのか?」


 次は何が出てくるのか、と思ってみたら、今回の騒ぎの脱走犯の白い猫だった。


「シロっ、お前……えっと、なんで増えた?」


 飼い猫のシロと共に、銀色の毛並みの似たような種族が歩いてきた。

 長毛の、輝くような銀色の毛並みが、ややオレンジ色になりかけた弱い日差しを照り返して輝きを放つ。



 銀色に輝く猫。

 シロと共に、すたすたと、あるいはシャラシャラと音でも立てそうな毛並みを揺らして日呼壱の前まで歩いてきた。


 まるで獣の王でもあるかのように凛とした佇まい。

 そして、その口を開く。



(もしかしてこいつが、この転移の……)


『ヌァォン』


 普通の鳴き声だった。

 いや、普通というには少し、かなり気の抜けたような鳴き声だったが。



「この場合は、お前が女神様の使いとか言ってこの世界の説明をしてくれるパターンなんじゃないのか?」

『ヌ~?』


 何を言っているんだ、と言わんばかりに銀猫は日呼壱の言葉に疑問符の鳴き声を返して、右前足で顔を洗ってみせる。

 完全に猫だった。銀色で綺麗だけれど。


 灰色の狼に銀色の猫。

 色合いは似ているが同族ではない。けれどその距離感は、なんとなく家族や友と言った雰囲気に感じられた。


 すりすりと、日呼壱の足元におでこを擦り付けてくる白い猫。

 脱走して怒られるはずのシロが、ほめてほめてと言うように足元にまとわりつく。



「はぁ」


 溜め息を吐きつつ、とりあえず脱走犯を抱き上げて確保した。


「ノミとかついてないだろうな?」


 差し当たっての心配事はそっちだ。

 異世界のノミだったら、地球にはない病原体を持っていたりするかもしれない。



 そんなことを気にしていると、いつの間にか灰色の狼がかなり近くまで歩み寄ってきていた。


「っ……?」


 思わず半歩下がって身構える日呼壱。

 狼は、源次郎から五メートルほどの距離で立ち止まった。


「…………」


 見詰め合う狼と猟師。本業は農家だが。



 源次郎は身じろぎしなかった。それでも手は、いつでも銃を構えられるよう予備体勢は取っている。


『ギギュゥ……』


 狼は口にしていた鳥を地面に置き、今度はその爪で大地に抑え付けた。



 自由になった口。一足で源次郎の首筋を噛み切ることも可能だろう。

 鋭い牙を持つ口先を、抑え付けた獲物の方に落とし、ゆっくりと顔を上げる。


「……お辞儀?」


 会釈をしたように見えた。



『クゥクゥウン』


 その鼻面にマクラが自分の鼻面を擦り付ける。

 犬同士でいえばハグをするかのような対応に、狼もその強靭な牙を見せることなくくすぐったそうに応じる。


 そうしている様子を見て初めて、その狼がマクラよりかなり大きいと確認できた。

 マクラの体高――首や口あたりまでの高さ――が日呼壱の太腿くらいだが、それより頭ひとつ大きく臍を越えるあたりまでありそうだ。かなりの大型犬というか、狼だった。



「やはり悪い犬ではないんじゃの」

「……とりあえず、マクラもシロも見つけたし戻るか」


 祖父の眼力はわからないが、日呼壱にしても危険な相手とは思えなかった。

 マクラに対しての接し方が明らかに仲間へのそれだ。



「それにしても、異世界にきて綺麗な異性との出会いとかって、普通は主人公の特典なんじゃ……」


 この世界は、そんなに甘くないらしい。



「主人公は、猫の方だったりするのか」


 あらゆる可能性は否定も肯定も出来なかった。



 世界は、何も説明してくれない。地球でも同じだったはずだ。



  ◆   ◇   ◆

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