伊田家 第八話 始まりの日_8
寛太たちが庭まで戻ると、裏にいたはずの健一と日呼壱が戻ってきていた。
「何かあったのか?」
芽衣子の声が聞こえていたらしい。トラブルかと心配そうな顔をしている。
「あ、ええと」
「シロが脱走して、それをマクラが追いかけて行っちゃったのよ」
言いよどんだ寛太に先んじて、美登里が簡潔に説明する。
「あー、うん……そうか。ああ、そうだったか」
――森は危ないかもしれない。
失態を責めそうになりかけた健一だったが、しゅんとしている芽衣子を見て言葉を止めた。
「まあ、腹が減ったらいつもみたいに家に入れてって帰ってくるんじゃないか」
「さすがに心配だから、俺ちょっと探してくるよ」
健一の楽観的な言葉に、日呼壱はそれでも飼い猫と飼い犬が気がかりで、鉈を手にして下に降りることにする。
過去にもこうして脱走しては、しばらくしたら何食わぬ顔で帰ってきて、さっさと玄関開けてくれと鳴くこともあったから、今回もそうかもしれない。
いつもと状況が違うから、方向を見失うこともあり得る。
予期せぬタイミングで家ごと地球に戻るかもしれないのだ。愛猫を置きざりにしてしまうのは忍びない。
なら日呼壱が家を離れている間にという可能性も捨てきれないのだが、あまりに肌に感じる森の空気が確か過ぎて、そんなにふわふわと場所が入れ替わるとも思えなかった。
(一応は犬猫だしな。帰巣本能は普通にあるだろうけど)
飼い猫生活で野生の鋭さなどまるで感じさせないシロだが、時折どうやって登ったのかわからないような高所にいたりすることもある。
あれは一応は猫科の獣だ。
先刻、日呼壱たちが見つけたデカリスと同等程度の身体能力はあるはず。
そんなことを考えながら下っていくと、源次郎が猟銃を肩に周囲を見回していた。
「爺ちゃん、どっちの方に行ったの?」
「向こうの方だったと思うがの」
東の方角、北寄りを指差す。家の向きを基準にしているから正確にはわからないが、太陽の位置関係からすればおよそ合っているはず。
「ったく、このややこしい時に脱走しなくても。あのバカ猫」
愚痴ってみるが今更どうにもならない。
源次郎と並んで、少しずつその方向に進んでみる。
「日呼壱は、怖くないんか?」
源次郎からの不意の問い掛け。
うーんと周囲を見回しながら軽く肩を竦める。
「えっと、けっこうびびってるけど」
「そうは見えんがなぁ」
源次郎からの評価だが、日呼壱にそんな自覚はない。
こうして家の方角を見失わないよう、すり足で地面に跡を残しながら歩いている。まだ十メートルも進んでいないが。
「こげな場所に来てからに、もっと不安でわめきちらしたりするかと思っとったが。よう落ちついとるわ」
今この瞬間のことではなく、この半日のことを評価していたのだとわかる。
「あぁ、いや……どうだかね。勉強とか学校とか考えなくていいから、現実逃避してるかも」
「立派な学校いくのもええが、しゃんと自分の足で歩ける方がえらいがね」
現代の日本の社会で生きていくのに、ある程度の学歴があったほうが有利なことくらいは源次郎とてわかっているだろう。
そういう生き方しか知らないと思っていた孫が、こんな非常時に意外と落ち着いていると評価していた。
「俺は、こういう異世界冒険とかの漫画好きだったからさ。今は結構わくわくしてるところもあるかも」
「んははは、それもええ。人生っちゅうのは楽しまんといかん。お米とお金と楽しむ心っていうからの」
源次郎が持っていた猟銃を日呼壱に差し出した。
「持ってみい」
「いいの?」
「悪けりゃ言わんわ」
昔は怒られたのに、と思わないでもないが。機嫌のよさそうな源次郎から憧れだった銃を受け取る。
「お、結構重い。あの槍より重たいかも」
「目方は5キロじゃの。今は一発弾が入っとるが、ライフルとはちごうて遠くは撃っても当たらん」
散弾銃だが、篭められているのはスラッグ弾という散らばらないタイプの弾だった。熊や猪を仕留める時に使う弾だ。
スコープはついていない。そんなに遠くを撃つような思想ではない。
(それでも、今のこの森では最強の火力だよな)
日呼壱は漫画やゲームの知識を引っ張り出して、それらしく構えて周囲を見渡してみる。
「引き金にゃ指かけるんでねぇ。そんで、人のいる方を向けちゃならんぞ」
源次郎からの注意が促され、声には出さずに頷く。
先刻のデカリスでもいないだろうか、と。
(ああいう獲物を取れたら、俺のサバイバルスキル上がっちゃうんじゃないか?)
飼い猫を探しにきたことも忘れて周囲を見回す。木の上、木陰に動くものがないかと。
(見つけたら、撃っていいかな? 撃って……狩って、いいのかな?)
銃を撃つことを祖父は許してくれるだろうか。
撃つことで、その生き物の命を奪って、いいのだろうか。
(このままの状況だったら結局どこかでやらないとならない。綺麗事じゃ生きていけないんだから)
「力みすぎじゃの」
そんな日呼壱の姿に、源次郎は優しげに声を掛けた。
「銃を持つ時にはなぁ、やっちゃならんことがある」
そっと話しかけながら銃身に手を置いた。
銃口が、獲物を探していることに気づいたから。
「浮ついた気持ちになっちゃあならん。手柄を立てようと気負うと、思わん失敗をするもんじゃ」
わしも最初はそうじゃった、と年齢を重ねた顔に皺を浮かべた。
日呼壱の体から強張っていた力が抜ける。
源次郎は小さく頷いた。
「お前はええ子じゃ、日呼壱。撃たんで済むならその方がええ。わかるな?」
「うん……ありがとう、爺ちゃん」
息を吐いて、猟銃を源次郎に返す。
祖父は、何もこの銃の扱いのことだけを言いたかったのではないのだと気づいた。
(俺が、この異常事態にハイな気分になってるんじゃないかと、気遣ってくれてたんだ)
十八歳という年齢で。子供ではないという自負はあったが、祖父からみたらまだまだひよっこだと。
そう諭されたようだったが、そんなに悪い気持ちではなかった。
「この銃は、俺にはまだ重いみたいだよ」
「そげかの」
源次郎は否定も肯定もせずに受け取って、代わりに日呼壱に鉈を返した。
「弾には限りもあるが、ここで暮らすならなにかしら狩りは必要になりそうだのぉ」
言いながら再び周囲の森を見回す。
森は静かだ。日が落ちてきて、もともと薄暗かったのがさらに少し暗くなってきた。
森の中で日差しが減ると、視野は思った以上に悪くなり見通せる距離が短くなる。
(こんなこと、ゲームや漫画だけじゃわからなかったな)
日中では見えていたものが見えなくなってくる。こういうこともあって山での遭難者も後を絶たないのだろう。
「む」
源次郎が何かに気づいて銃を半身に構える。
それに
「……」
何もいない。
「……なん、じゃと?」
薄暗くなりかけた森の奥から、灰色の獣が姿を現した。
その姿は、力強さをまざまざと見せ付けるようでいて、神秘的なほどの美しさを合わせ持つかのような。
「お、おお……かみ……?」
灰色の狼は、その茶色の瞳で日呼壱と源次郎を見つめていた。
静謐に。
◆ ◇ ◆
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