序章 第七話 始まりの日_7
午後からは、今度は寛太がマクラを連れて周辺の探索に出た。
健一と日呼壱は、裏の湧き水の流れをなるべくうまく誘導できるよう河川工事に向かった。
その際、西側から別の水音が聞こえてきた。家の排水が嵩上げされた斜面から排水されている音だった。
「ああ、母さんが井戸水使って洗い物してるのか」
本来は市水道の配管につながっていた給水配管だが、源次郎の強い希望で、断水などの事態の際には井戸水からの給水に切り替えが出来る。
水道配管工事をした施工者は、市の水道局に怒られるからダメだと言って繋がなかった――ことになっている。あとは自己責任だ。
「斜面で途切れてるパイプが、本来は浄化槽につながっていたんだろうな」
西のほうに排出されて、斜面の下に落ちていく排水の様子を上から見てみる。
「あの排水、そのままどこかに流れていくように水路掘っておいた方がいいかもしれん。臭いで動物が寄ってきたりとか」
「んー、日本に帰る目処が立たないままで、手が空いたらでいいんじゃない」
とりあえずは、家の方に流れてくる水を横にそらすほうが先だろう。
「にしても、これ高山の雪解け天然水みたいだ。いや、そのまんまか」
触れてみた水の冷たさが気持ちよい。
「いい水みたいだな。よい米が育ちそうだが」
農家らしい感想の健一。
世間で言われる美味しい米は、寒暖差が大きい山間部のものが多い。
日中の暑い日差しと、湧き出る地下水の冷たさが良いのだとか。日呼壱はその辺は聞いた話程度しか知らないが。
「土もなぁ。悪くはないと思うんだ。長年の森の堆積物でそれなりにいいと思う。稲作には窒素とかそういう成分も必要だから向いてるかわからんが」
健一は納屋にある来週植えるはずだった苗のことを思う。
「今ならトラクターも動くし、水はこうしてある。ダメもとでちょっと植えてみるか。放っておいても無駄になるだけだし」
「田んぼつくるの? 大変じゃない」
「柔らかい土壌だ。機械もあるから、大規模なもんじゃなければならんこともない気がするが」
スコップで水路を掘りながら、家の北側に広がる木々のまばらな地面を見やる。水源もそちらからきている。
うまくいく可能性は高いとは言えないが、この大地でも我が家の米が実ってくれたらと思ったら、少し前向きな気持ちになれた。
「まあコシヒカリは環境に強い品種だっていうし、多少実りが悪くてもやってみる価値はあるかもね。その前に日本に帰れるかもしれないけどさ」
「保険だな。最悪、ここで冬を越すことになったとしたら、保存できる食料が必要だ。しかし、今年メインで植えるのはコシヒカリじゃないぞ、日呼壱」
健一が息子の間違いを正す。
「コシヒカリもあるが、稲の原種に近い赤米が半分くらいだ。古代米を育てて地元の観光用にって、何年か前からやっていたが。割と評判が良かったから、今年はちょっと多めにやることにしたんだ。お前だって赤いご飯食べていただろ」
「あれって赤飯じゃなかったんだ。もち米っぽくなかったけど」
稲作に興味がなかったので、そんな説明は聞いたようで聞き流していた。
言われてみれば、普通の白米より少し硬めでしゃっきりした感触だったようなと思い出す。
「原種だからな。痩せた土地でも育ちやすいし、
「何にしても米食えないのはイヤだもんなぁ」
このままここで何年も過ごすことになったとしたら、今ある稲の苗は命綱になる。
他に有用な食料が確保できればいいが、そううまくいくだろうか。
それに、やはり日本人として、食卓に米がないのはイヤだ。ちゃんと精米が出来ないから玄米で食べることになるが、それでも米を食べたい。
「お米は大事だからね」
源次郎の経験も借りて、今の苗をうまく育てられるよう出来るだけの準備をしてみようと思う二人だった。
◆ ◇ ◆
「油断するとすぐに遭難しそうだな」
一方で、マクラのリードを引きながら森に下りた寛太だったが、大自然の驚異を改めて認識していた。
寛太は消防士だ。
地元の山で遭難した人を探しに入ったことも幾度となくある。そうした訓練も受けている。
知っている山で、万全の装備をしていても、事故や二次遭難には十分注意をしなければならない。
道を外れたら人間社会の領分ではないのだから。
ましてやここは最初から道などない、地球の常識が通じるかもわからない世界だ。
「マクラ、頼りにしてるぞ」
声を掛けると、何か用? というように寛太の顔を見る黒犬。
割と頻繁に出入りしているので、家族に準ずる相手だと認識されているのだ。あるいは芽衣子の父親だと認識されているのかもしれない。
「お前ならさ、日本の臭いとかどっちからしてるとか、わかんないかな?」
くぅ、と鼻を鳴らす。
無理なお願いをしているのだと、寛太は苦笑した。
この森のどこからか日本の気配がするのだとすれば、背中にある伊田家より存在感があるものは他にないだろう。
もし近くに、同じくここへ転移してきた日本人がいるのなら……
「大声で呼ぶのは……よくないかもしれない」
呼びたくないものを、呼び寄せることになる可能性もある。
普通に遭難者を探す時なら、班に分かれて声を出しながら捜し歩くわけだが。
「とりあえず今はやめておこう」
危険な生き物に対して十分な備えもない。怪我をしても病院に行くことさえままならない。
傷薬くらいなら、伊田家には不必要なほどにたくさん準備があるだろうが。
畑仕事に生傷は絶えない。
健一は自社製の電動工具で日曜大工をして犬小屋なども作っていたが、木の断面などで擦り傷を作ることもよくあった。薬箱はいつも充実させている。
「日呼ちゃんの言う通り、これは本当に地球だとは思えないな」
周囲を見回す。
木々も草も、どれも寛太の見知っている植物と大なり小なり異なる。中には寛太の胴体くらいの大きさの葉の植物もある。
物によっては似通っていなくもないが、微妙な差が違和感を強くする。
そこらに生えている木の半分ほどが、寛太の両手で抱えきれない程の太さ。目に入る範囲でいくらかはそれの倍以上の巨木もあった。
意外と、幹は真っ直ぐに育っているものが多い。
日照の問題で、上に上にと育っていった結果なのだろう。
(木を伐採するような人間……人間じゃないのとかも、何十年、何百年とここには来ていないってことか)
樹齢から考えてそうなると、歩いて一日やそこらの距離に人里があるとは思えなかった。
「あっシロだめ!」
考え事をしていた寛太の背後から大きな声がして、静かに行動しようかと思っていた寛太の心臓を震わせた。
「っ! 芽衣子!?」
娘の声だと咄嗟に振り返り、その姿が斜面を降りてくるのを確認する。
その寛太に向かって疾風のように白い影が向かってきた。
「わっ!? あっ!」
白い猫だ捕まえなければ。
と思った時には既に、伊田家の飼い猫のシロ――六歳メス――は寛太の足元をすり抜けていった。
玄関が開いた隙に飛び出していく時の俊敏さだ。
「ちゃっあぁっダメだってマクラ!」
と、その混乱の最中に、リードを振り切ってマクラが白い影を追っていく。
「マクラ待って!」
続いて、小学生が寛太の足元をすり抜けて、
「ダメだ芽衣子!」
今度は確保する。
森の奥へと走り去る犬猫を追いかけようとした娘を捕まえた。
「だってパパ、マクラとシロが……っ!」
「芽衣子、ダメだ。追いかけちゃだめだ」
右手で強く娘の手首を掴み、左手でその肩から抱きしめる。
こんな森で娘を離すわけにはいかない。
「芽衣子ちゃん、大丈夫?」
背中から声を掛けられた。美登里も、駆け出した芽衣子を追いかけてきていたが、その足はつっかけサンダルだった。
少し遅れて源次郎も斜面を降りてきている。
「ごめんなさい、シロが急に飛び出しちゃったものだから。芽衣子ちゃん、追いかけなくていいのよ」
「でも……」
「猫は追いかけられると逃げちゃうの。放っておいた方が帰ってくるから」
美登里が寛太に羽交い絞めにされている芽衣子の頭を撫でると、芽衣子の体から力が抜けた。
「ごめんなさい、おばさん。私が玄関開けたから……」
「違うわよ、シロが狙っていたんだから。いつものことだし、心配しなくていいの」
芽衣子が開けた玄関の隙間から脱走したのだった。
だから慌てて、捕まえなければと飛び出してしまったのだ。
「……」
白猫も黒犬も、その姿は森の中に消えてしまって確認できない。
他の野生生物も、とりあえず見当たらない。
「マクラは狩猟犬の血を引いちょるけん、なんぞ捕ってくるかもしれん」
下りてきた源次郎が、猟銃を脇から上に抱えたまま慰めるように言う。
「芽衣子、とりあえず上に戻ろう」
「……うん」
自分も、みすみすマクラを離してしまったバツの悪さもあったが、寛太はそっと芽衣子を促して手をつないで伊田家の敷地内に戻るのだった。
◆ ◇ ◆
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