伊田家 第五話 始まりの日_5



 伊田家の家屋は三年ほど前に改修工事を行った。大改修と言っても差し支えない。

 日呼壱が高校生になり、それまででかなり経年劣化した母屋と離れを修繕して、納屋を建て替えた。


 費用は巨額だった。普通に新築できる費用だ。

 水周りと外壁、屋根を直すことに健一も反対はしなかったが、源次郎の構想は健一の予想を大きく超えていた。


 古い家屋の耐震補強、屋根瓦の葺き替え、外壁をフッ素塗料での塗り替え。

 古い台所を和室とつなげてLDKに、焚口のあったタイルの浴室をシステムバスに変えた。


 トイレは、健一も日呼壱も板張りのバリアフリーにしたかったのだが、源次郎が絶対にタイル床だと譲らなかった。水を撒いて掃除をするかもしれないと。

 そんなことしないと言ったが、結局トイレの床はタイル張り。


 納屋(農具小屋)にもトイレを作ったが、こちらはそもそも泥だらけの長靴で入ることもあるのでタイルでよかった。



 日呼壱としては、田舎の家で最大の不満だった汲み取り式の簡易水洗トイレが、ちゃんとした水洗トイレになったことで満足できた。

 下水道の整備がない地域なので、合併浄化槽を埋めて下水設備としたわけだが。




「ああ、浄化槽はなくなっちゃったんだな。高かったのに」


 納屋から下ったところに設置した浄化槽はこの転移で途切れてしまったはずだ。家を囲う石垣より外側にあったのだから。


 水は高いところから低いところに流れる。今の湧き水が山側から流れてくるように。

 だから、排水の処理設備は生活排水の流れてくる場所より低く設置するのがセオリーで、今度はそこから浄化された排水が道沿いの水路に流れていくようになっている――いたのだけれど。



「太陽光は残っているはずだ」

「だろうね」


 今は家屋の裏、北側に回っているので見えないが、南側の屋根には太陽光発電設備がついているはずだ。


「こういう状況だと、まあ、爺ちゃんの判断が正しかったというか、何と言うか」

「主に紫外線で発電するらしいから、ここの太陽でちゃんと発電するかわからんぞ」


 健一は往生際悪く言ってみせる。



 太陽光発電を設置するということに、健一は反対した。

 それどころか祖父源次郎は、太陽光発電とともに、当時まだ非常に高価だった蓄電池設備も導入すると言ったのだ。


 これに健一は大反対。日呼壱もいらないんじゃないかと思ったものだ。

 じゃあ太陽光だけにしましょうか、と言う譲歩した風の営業トークにうんうんと言ってしまっていた。



 蓄電池設備は必要ないと健一は言ったが、昨今の自然災害や異常気象で停電した時に電気が使えるという売り文句に、源次郎はもう止められなかった。


(あの時はリフォームの営業の人。マジで殺し合いそうな親子喧嘩見て、やめといたらって爺ちゃんに言ってくれてたけど。頑固だからなぁ)


 そもそもが家の改修工事の費用がかなりの額になっていたので、健一も感覚が麻痺して、もういいと設置を許容したのだ。



 その後それとは別に、新しいシステムバスの壁に穴を開けて、離れの屋根につけたソーラー温水器から配管をつないで給湯できるようにしたことも健一は不満だった。だがもう喧嘩をする気力もなく、爺さんの好きにしてくれと降参したのだった。



 ひとつ、太陽光発電プラス蓄電池による停電対策。

 ふたつ、ソーラー温水器プラス井戸水ポンプによる停電時での給水・給湯対策。


 戦後育ちの源次郎にとって、どんな状況でも生活の水準を保つための危機管理意識は、現代日本の水準ではかなり高かった。やや高すぎた。

 その多額な費用はどこから出たのか。日呼壱が中学の時に他界した祖母、源次郎の妻、伊田住ヱいだすみえの遺した財産である。



 住ヱは教師として小学校に四十年近く勤め、退職時には教頭だった。

 無駄遣いはせず、生活費については主に源次郎の収入のみでやりくりしていた。


 夫が汗水流して稼いでくれたお金で生活することで、不便があってもそれは苦労ではないと。自分の給料で生活を潤そうなどということはでしゃばったことだと、そう考える女性だった。


 現代の日本で、その考え方が正しいとか間違っているとかそういうことではない。ただ、住ヱはそういう女性だった。

 亡くなる前、病院で住ヱは、源次郎にその遺産を託して、好きに使ってほしいといったのだと。



 ――私はもうこんなお金を使うほど元気がないですからね。おじいさん、あなたの好きなことに使って下さい。


 その遺言に従ったのだ。

 源次郎は、家を建て替えたほうが安いと言った健一に、


 ――しゃんこたぁわかっちょる。けんども、母さんと一緒に暮らしたこん家をなぁ、残してやりたいと思っちょうが。


 それを聞いて、思わず健一も涙した。自分とて母親と一緒に暮らした生家だ。思い出もある。

 それで改修計画に進んだわけだが、健一が思った以上に源次郎は好き勝手に使うことにしていたわけで。




「非常に、本当に不本意だが。爺さんの言う、万一の為にということが……こんな……」


 まさかの異世界転移。もしもの事態に備えた設備が役に立ちそうだ。立ちそうだが、健一には素直に納得したくないくすぶりもある。


「健ちゃん、あの時はやたらと反対してたからなぁ。気持ちはわかるけど、とりあえずはそのお陰である程度は生活できそうで良かったんじゃない」


 寛太も健一の苦い表情に苦笑を返す。



「寛太、お前だってあんなの、不安に付け込んで高額商品売りつけようとしてるって言ってただろうが」

「だって健ちゃんが怒ってんだからさ。いちいち反対とかしてらんないだろ。なあ、日呼ちゃん」

「俺を巻き込まないでよ、叔父さん」


 当時の怒りが再燃してきた様子の健一の八つ当たりを押し付けあう。



「それより、本当にちゃんと発電してるか。こんだけお日様が当たって……あ、れ?」


 ふと屋根を見やって、その向こうの太陽も視界に納める。

 雷鳴が轟き、こうして転移したのが午前中のことだった。今は太陽はおよそ正午を過ぎたくらいのはず。真南からやや西側に傾きかけている。

 いつもと同じ。いつも通りだ。


「どうした、日呼壱?」


 急に言葉を詰まらせた日呼壱に、健一も少し落ち着きを取り戻して尋ねる。


「ああ、いや、一緒なんだなって」

「何が?」

「方角」



 指を指す。屋根の方向を。

 伊田家の建物は、南西と北東に分かれた切妻屋根──厳密に言うとしころ屋根という形状だ。


 表側の屋根は南西側を向いている。つまり、正午を過ぎて夕方までの時間に太陽を正面に受けやすい。

 ちょうど今の時間、まさにその太陽と、太陽光パネルが設置されている伊田家の表側の屋根が正対している状況だった。



「家が転移したんだけど、地軸に対しての方角は同じでこの土地に設置された感じでさ。偶然なのか違うのかわからないけど好都合だったね」

「そういうものなんじゃないのか。その、異世界転移っていうのは」


 健一は寛太に同意を求めるが、そもそもこんな経験がないのだから寛太にもわからず、軽く肩をすくめるだけだった。

 そういうものなのかもしれないし、全然別の方向を向いていたって不思議はなかったはずだとも思った。



「結果はこの通りってことでいいんじゃないかな。そもそも異世界なら太陽が三つ、とかあるかもしれなかったんだし」

「んー、よくわかんない」


 芽衣子が唇を尖らせる。水を飲み終わった猫は、納屋の陰に行って三匹で丸まっていた。とりあえず穏やかな寝息の様子に見える。



「そうだな。とりあえずこの水を、脇の用水路の方に流れるようにしておいた方がいいな。庭の方が水浸しになる」

「じゃあ健ちゃん、スコップとか取ってくるよ」


「俺、さっきの白い石器拾ってくるよ。メイちゃんも行くかい? 降りたすぐのところだから多分危険はないと思うけど」

「行く!」

「じゃあ手伝ってくれ」



 建物周辺の状況をとりあえず把握して、それぞれ今やるべきことに歩き出すのだった。

 誰一人、不満は言わない。

 不安は抱えている。それはお互いにわかっている。


(ゾンビ映画とか異世界転生とか、もっとパニックになるもんかとも思ったけど……)


 日呼壱は納屋に軍手を取りに走っていく芽衣子の背中を見て、ひとつ理解した。



 ――芽衣子ちゃんの前だからってカッコつけてないで。



「女の子にカッコ悪いとこ見せられないもんなぁ」


 結局は、母親の言った通りだった。



  ◆   ◇   ◆

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